もうひとり、いた気がする。

青峰輝楽

 もうひとり、いた気がする――。


 私は、幼馴染の優香ちゃんと登校する。三軒隣の優香ちゃんとは、物心ついた頃から一緒に遊んでいて、幼稚園も小学校も中学も一緒。たまに喧嘩しちゃった時は2~3日口をきかなかった事もあるけど、いつの間にか元通り。喧嘩していない時は、いつも登校は一緒だった。中学になって、別々の部活に入ったので、帰りは別になる事が増えたけど、それはそれでちょうどいいかも知れない。朝話す事が増えるから。


『いっしょに小学校、いこうねえ』


 家に届いた赤いランドセルをからって一緒に学校に行く日が楽しみで仕方なかった年長さんの頃。

 優香ちゃんと私と――と?


 もう一人、いた気がする。でも、よく考えて思い出そうとすると、決まって頭痛がした。まるで思い出してはいけないと身体が警告してるみたいに。

 でも冷静に考えれば、そんな子がいる訳ない。家族も優香ちゃんも、そんな子はいなかったって言ってる。私にしたって、2歳くらいだったならともかく、年長さんが仲良しを完全に忘れてしまうなんて事はない筈。だから、これは気のせい。


『いっしょに、いこうねえ……』


 知らない幼い声が記憶の中に響く。でも、これは私の想像の産物なんだ。


―――


「ねえ、真奈ちゃん、あの蔵、取り壊すんだって」


 珍しく一緒に下校する道すがら、優香ちゃんはそう言い出した。


「え、苔男の蔵?」


 私はびっくりして問い返す。丁度カーブを曲がった所で、話題の蔵が見えてきた。


 『苔男の蔵』は、田舎のこの辺りには昔はいくつかあったという古い土蔵だ。元々この土地の名家の所有で、広大なお屋敷のある土地の外れに建てられた蔵らしい。でも、その名家の人たちは離散して、母屋はとうになくなり今の当主のお爺さんはもう十年以上町の病院だかホームだかに入っていると聞くけれど。雑草が生い茂って荒れ果てた土蔵の建っている土地だけが残って、立ち入り禁止の札が下げられ、いかにも廃墟という感じの蔵は、その面した道が通学路である私たちにとって、いくら天気が良くても明るくならない黒いシミのようないやな存在だった。


「おじいさんは先月亡くなったんだって。それで、相続した人がここを更地にするって」

「ふーん」


 私たちは道の方から蔵を見上げた。古びて壁のあちこちに亀裂が走っている。もう十年以上、誰も立ち入っていないらしい。江戸時代からあったかもしれないという由緒ある蔵は、お宝マニアなんかから見たら浪漫溢れるスポットなのかも知れないが、実は地元の人は皆薄気味悪がっている。それは、誰もが子どもの頃、苔男の話を聞いたから。


―――


 大正か昭和の初め頃、当時の蔵の主は、自分の息子をこの蔵に閉じ込めたという。息子が、自分の決めた婚約を断り、下働きの女性と駆け落ちしようとしたかららしい。女性の方は、貧しい農家から身売りのようにして連れて来られた奉公人の癖に、と、なんとリンチを受けて息も絶え絶えの所を、山の麓の池に投げ込まれてしまったそうだ。見返り池と呼ばれるその池は、女性が投げ込まれた後から川岸や岩がびっしりと緑の苔で覆われて、思わず振り返って見てしまうから見返り池と名がついたらしい。

 蔵に入れられた息子は、食事を持って来た下男に彼女の運命を知らされ、おかしくなってしまった。聞いた事もない言葉を叫び、近づく者に汚物を投げつける。それで皆うんざりしてしまって、主人には内緒のまま何日も誰も近づかずに放置してしまったらしい。

 五日程経ち、声も物音も聞こえなくなったので、流石に皆まずいと思い、下女に様子を見に行かせた。扉を開けた女は金切り声を上げて一目散に逃げ帰って来た。


『大変です。坊っちゃんが緑色の苔に覆われて亡くなっています!』


 ところが、それを聞いた皆が顔色を失くして行ってみると、苔もないし坊っちゃんの姿もない。おまえが坊っちゃんを逃がしたのだろう、と下女は折檻された。


 翌朝、下女がいつまでも起きてこないので、見に行くと、下女は布団の中で死んでいた。まさか死ぬ程の折檻はしていない、と俯せの彼女を仰向けると、彼女の顔は、緑色の苔に覆われていた……。


 苔男はいまも蔵の中にいる。見返り池の彼女の所に行きたいけれど、蔵から出る事が出来ないので、誰かに憑りつこうと待っている。蔵に近寄っては絶対、いけないよ。


―――


 これが、私たちが小さい頃に夜震えあがっていた、苔男の話。

 でも、この村の子どもにはほんとうに思える話でも、電車に乗って町の中学に通う私たちは、これはただの村の伝説、或いは子どもを怖がらせて躾ける為の作り話、だとわかっている。苔男なんている訳ない。

 だけどやっぱり、苔男の蔵を、よその人がやって来て壊すのだ、と思うと、なんだか引っ掛かりを感じてしまうのだった。

 嫌な場所ではあっても、通学で毎日目にしていた光景なのだし。


『いっしょに小学校、いこうねえ』


 そう言いながら通った場所。


―――


 翌週には、相続人らしいスーツの男の人と、工事の人たちが蔵の所に集まって来ていた。

 そして更にその翌週に、事件は起きた。


 学校から帰ると、隣のおばさんがうちに来ていて、母さんと何やら話しこんでいた。


「ああ、真奈ちゃんおかえり。いまあんたの母さんに話してたんだけどね。苔男の蔵から、人の骨が見つかったらしいよ」

「え。それって、苔男の骨?」

「いんにゃ、それがどうも、子どもの骨らしいんよ。工事の人は、最初猫か鼬の骨だと思ったと。けど、棚の向こうに小さな人間の頭蓋骨があったって!」

「え、怖い。じゃあその子、苔男が殺したってこと?」

「本当に苔男がいたとしても、何も食べずに今まで蔵の中で生きとる訳はない。もし苔男が小さい子をおびき寄せて殺しとったとしても、それは相当昔の話という事になるよな。でも、その骨の子は、割と最近の服を着とったって」

「最近?!」

「最近といっても、苔男の時代からしたらって事で、まあ十年は経ってるらしいけどね」


 そこまで話した時、母さんが強張った顔で隣のおばさんに言った。


「教えてくれてありがとうな。でも、真奈には刺激の強い話だし、今日はもう」

「母さん、別に私、小さい子じゃないんだし」


 私は抗議したけど、おばさんはもう一通り喋り終わって満足したらしく、そうやねごめんね、と適当な挨拶をして帰って行った。


 十年前の小さな子ども。それは、生きていたら私と同じくらいの年齢だったかも。

 そんな事を考えながらおやつを食べる為にお茶をいれようとしていると、母さんが台所に入って来た。さっきと同じ、強張った顔をしている。どうしたのだろう。


「真奈、あんたさ……」


 と母さんは話しかけてきたけど、その後どう続けたらいいかわからない、という顔で固まってしまった。


「どうしたん、母さん」


 私は母さんのよくわからない緊張をほぐそうと、からかい口調で言ってみる。母さんは何か呟いて覚悟を決めたように頷いた。


「真奈。あん時はあんた小さくてとにかく心配だったし、だから、みんなであんたから忘れさせようとして、それでうまく行ったけど」

「?! なに?!」


 なんか、怖い。胸がぐっと締め付けられる気がして、これから凄くよくない事が起きる予感がする。母さんに先を言って欲しくない。でも、先を知りたい。どっちにしても、母さんを止められはしない。


「あの子……ほんとうに、見返り池に行ったの?」

「えっ……なに、いったい。あの子ってだれ?」

「この辺で、十年前頃にいなくなった小さい子は、一人しかいない。あの家族は来てまたすぐにばたばた引っ越して行ったし、隣の奥さんは子どもいなくてよく覚えてないんかも知れんけど……」


『いっしょに小学校、いこうねえ……』


 不意に、甲高い幼女の声が聞こえた気がした。


「なに? わからない」

  

 私の声は震えていたかも知れない。


「あの時5つだったあんたは、一緒に遊んだ後であの子は見返り池に戻って行った、って言った後、高熱を出して意識が戻らなくなった。それで私たちは、あの子が見返り池に戻るのを止めなかった事であんたが小さいながら責任を感じてそんな事になったんだ、って思った。目覚めたあんたは、高熱のせいかあの子の事を覚えていなかった。あの子の家族は嘆き悲しんで土地を去って行ったし、あんたに思い出させてもいい事は何もないって事で、私たちは、あの子の事なんか知らん、そんな子はおらんって言ったんよ。でも、あんたももう中学生やし、今は思いだせるんやない?」

「だから知らんって! あの子ってだれよ?」

「鈴川美咲ちゃん。うちの裏の、今は村田さんが住んでる家に一年だけ住んでた。美咲ちゃんは身体が弱くて幼稚園には行ってなかったけど、優香ちゃんと三人で遊んでたやん。そう、優香ちゃんまで口裏合わせに付き合ってくれて……頼んだ訳じゃないのに、あんたの為にって幼心に思ったんやろね。いなくなった友達が最初からいなかったふりなんて、今思えば大変な事をさせてしまったね」


 ざああっと自分の血の気がひく音が聞こえるような気さえした。

 みさきちゃん。思いだした。

 もうひとり、いたんだ。一緒に遊んで、一緒に小学校に行く約束をしてた友達。


「なんで……そんな、みさきちゃんの、骨? みさきちゃん、あれからずっとあそこにいたの?」


 手から湯呑みが滑り落ちたけど、割れる音も聞こえない。母さんが、真奈、話して、とか言ってるけど、話せる訳がない。

 5歳だった私。5歳だったみさきちゃん。あの日、ボールが蔵の土地に飛び込んで、怖いけどみんな一緒だから平気、と言い合いながら入って行って見つけた、壊れた鍵。そうだ、あの日私たちは、苔男の蔵に入ったのだ。

 蔵の中は黴臭く埃だらけだったけど、苔なんて生えてない、ただの広い物置のように見えた。優しくて落ち着いた性格のみさきちゃんが、あの時は何だか興奮した様子で奥に入ろうとした。


『叱られるよ、もう帰ろうよ』


 と私は言った。苔男がいない事に安堵した私は、入っちゃいけない場所に入った事がバレて叱られる事の方が怖かった。でも、みさきちゃんは面白がって進んでいく。


『みさきちゃんってば!』


 私は少し大きな声を出した。それでみさきちゃんはちょっとびっくりしたように私の方を振り返った。そして、足を滑らせた。どうしてだか、足元に、つるつるした緑色のものがあったように見えた。

 みさきちゃんの身体は、そこにあった大きな棚にぶつかった。古くて壊れかけていたのであろうその棚が、みさきちゃんの方に倒れた。

 

 ――ここからの記憶は曖昧だ。本当だとは思えない。怯えきった幼い私が、高熱に浮かされて見た夢なんだろうと思う。


 みさきちゃんの小さな身体は、大きな棚の下敷きになった。私は泣き叫びながら棚をどかそうとしたけれど、幼女の力ではびくともしなかった。誰か助けて、と叫んだ時――男の人が、傍にいたのだ。


『私がこの子の傍にいるから、おまえは帰りなさい』


 とその男は言った。


『誰にもこの事は言っちゃいけないよ。言ったら、おまえを見返り池に落とすからね』

『見返り池で遊んでいた事にしなさい。そうしたら、この子は池で溺れていなくなったのだと皆思うだろう』


 それから、どうやって帰ったのか全く覚えていない。

 みさきちゃんはどこかと聞かれて私は、池の近くで遊んでいて、一緒に帰ろうとしたけれど、途中でみさきちゃんはボールを忘れてとりに戻ったのだ、と答えた。

 私がそのまま倒れて高熱で寝込んでいた間、大人たちは池を捜索したけれど見つからず……みさきちゃんは池の深い所に沈んだままなのだ、という事になった。熱で眠っていた間に、そんな話が聞こえた……。身体の弱いみさきちゃんの為に田舎の家に引っ越してきていたみさきちゃんの両親は、ショックで立ち直れないまま家を売ってどこかに引っ越していった……。


 私は、全てを忘れてしまっていた。あまりにも怖くて、みさきちゃんがどうなったのか知りたくなくて、私は忘れたのだ。忘れたふりじゃなく、本当に忘れていた。

 蔵で今日見つかった、幼い子どもの骨。私が十年も忘れている間、みさきちゃんはずっと棚の下に……。


「真奈!」


 母さんの声を後ろに、私は家を飛び出し、気づけば蔵の前に来ていた。

 ロープが張られ、警察らしい人たちが行き来している。やっぱり、本当なんだ……。

 私は罪を犯した事になるのだろうか。警察に捕まる? 茫然としながらそんな事を考えた時、背後から肩を叩かれ、私は飛び上がりそうになった。


「真奈ちゃん、大丈夫?」

「優香ちゃん……」


 心配そうに私を見ているのは、もう一人の幼馴染。


「美咲ちゃんの事、思いだしたの?」

「うん……」


 優香ちゃんは、私の為に、美咲ちゃんの事をいなかったようにしてくれていた。でも、本当は覚えていたし、色んな葛藤があった筈。


「ごめんね、優香ちゃん。無理してたんでしょ、ずっと」

「私の事はいいんだよ。あの時何があったの? 大丈夫だよ、まだ小さかったんだもん、真奈ちゃんのせいじゃないよ」


 優香ちゃんは、私が欲しい言葉をくれた。優しさに涙ぐみながら、私は思いだした事を話した。


「そうかあ。でもそれって事故じゃん。真奈ちゃんのせいじゃないよ。真奈ちゃんが話してたって、美咲ちゃんはもう死んでて助からなかったよ」

「そうかなあ……」


 話しながら私たちは蔵の前を離れて歩いていた。いつもの通学路。私は十年も、美咲ちゃんの前を毎日通り過ぎていたのだと思うと済まなさで一杯になる。


「美咲ちゃんずっと、一緒に小学校にいこうねえって言ってたのに……私だけ、忘れて小学校に行ってたなんて」

「真奈ちゃんしかたないよ」


 と優香ちゃんは言った。


「そうかなあ」

「そうだよ。だって……」

「苔男が、そうしろって言ったんでしょ?」


 いつの間にか、辺りは暗くなっていた。


「え……」


 優香ちゃんの顔が、陰になって見えない。苔男の話なんてしたっけ……? 

 私たちは三叉路に来ていた。左に行けば家の方。右に行けば見返り池。


「やっと、彼女の所に行けるから」


 何だか聞いた事のない声で優香ちゃんは言った。


「優香ちゃん?」

「十年もかかるとは思わなかった。蔵が開けられてあの子の骨が見つかるまで」

「なに、優香ちゃん。どしたの、男の人みたいな声で?」

「棚の下敷きになった子を贄に、もう一人の子を依代にして、おまえに扉を開けさせようと思った。少し時間が要るから、黙ってろと言ったけど、まさか友達と一緒に来た事を忘れたまま十年も平気でいるなんてね」


 優香ちゃんだけど優香ちゃんじゃない、とわかった。私は、三叉路に優香ちゃんを置いて逃げ出した。


 もうひとり、いた気がする。

 あの日、蔵に行ったのは、私と美咲ちゃんだけじゃない。優香ちゃんも一緒だった。いつの間にかいた男の人は、緑色の物で優香ちゃんの鼻と口を塞いで……。


「待ちなさい」


 と言われ、強い力で肩を掴まれた。


「いっしょに、いこうねえ」


 振り返ると、淡い月の光の下、優香ちゃんの顔は緑の苔に覆われていた。

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もうひとり、いた気がする。 青峰輝楽 @kira2016

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