文化祭(4)

 すぐに秀平が席を立った。

 梨緒子は奥の書架に身をひそめて、秀平の行動を覗っていた。


 類に言われた通り、秀平はそのまま図書館を出て、文化祭本部のある新校舎の方角へと歩いていく。

 その歩みは非常にゆっくりとしたものだ。

 梨緒子はあとをつけるようにして秀平を追いかけた。


 秀平が会議室の手前で立ち止まった。中に入るかどうか悩んでいるようだ。

 梨緒子は彼の背中に追いつきそうだった。

 しかし。

 言葉をかけようにも、声が出てこない。


 梨緒子はたまらず秀平の背中に手を伸ばした。上着の生地を軽く引っ張る。

 すると。

 秀平が驚いたように振り返った。その両目は見開かれ、その身を引くようにして身体をよじり、こちらをじっと眺めている。

 彼が身を引いたことで、梨緒子はなけなしの勇気を失ってしまった。


 長い沈黙があった。

 梨緒子が困り果てたそのとき――。



「おっせーよ。三十秒以内って言っただろ?」


 類が、文化祭本部の会議室に隣接する放送室から出てきた。

 そして立ち尽くす秀平の腕を強引に掴み、無理矢理会議室の中に押し込んだ。

 梨緒子も慌てて秀平と類のあとを追い、再び会議室の中へと入った。



 実行委員の少年は部屋の隅に移動し、様子をうかがっている。

 込み入った話に深入りしてはいけないと気をきかせたようだ。

 類は梨緒子を自分の隣に来るように立たせ、秀平と向き合うような格好を取る。


「俺たちさ、ベストカップルの一位に選ばれてんの。まあどうせお前は、イベントの存在すら知らないんだろうけど」


 秀平の唇が微かに曲げられた。

 類の顔を、冷めた目でじっと見つめている。


「これから後夜祭で、二人仲良く手を繋いで、キャンプファイヤーの火付け役やんの。抱き合ってラブラブな写真も撮るから」


 秀平の眉間に明らかに不快を示すしわが寄せられる。

 秀平は一瞬だけ、梨緒子に視線をやった。梨緒子はとても直視できない。怒鳴られた日のことを思い出し、胸が激しく痛む。

 類は秀平の表情を確認しつつ、さらにたたみかけるように言った。


「みんなが楽しみにしてる。いまさらやらないわけにはいかないんだ。仲良しカップルとして期待されて選ばれた以上はな」


 梨緒子は口が聞けない状態にあった。

 類の言葉に便乗することも、秀平に言い訳することもできずに、息の詰まりそうな会議室の空間に、ただその身を置いていた。


「それが嫌ならお前が行ってこいよ、リオ連れて」


「……ル、ルイくん? ちょっと待って!」


 梨緒子は驚きを隠せなかった。

 秀平の性格から考えると、たとえ仲違いをしていなくても、衆人環視にさらされるイベントに出ることなど考えられないのである。

 しかし、状況が状況だ。

 梨緒子が類と出るのを見ているか、自分が梨緒子を連れて大勢の前に出て行くのか――秀平に与えられた選択肢は二つだ。


「俺に気をつかってるんだかなんだか知らねーけど、お前がコソコソやってるから、逆に俺が迷惑してんだよ。いつまで経ってもこんな茶番に付き合わなくちゃならねーし。もちろんリオだって――」


 秀平は彫像のように固まっている。苦悩し憂いに満ちたその顔は、ぞくりとするほど冷たくて美しい。

 いつまで経っても、秀平は黙ったままだ。

 痺れを切らした類が、言葉を変えて再び詰め寄る。


「ちゃんと付き合ってるんだって、全校生徒に知らしめてこい」


 梨緒子は息を飲んだ。緊張で喉はカラカラだ。

 秀平はなおも黙ったまま、肯定も否定もしない。


「おい、永瀬――」


「出なくていいよ、そんなもの」


 ようやく秀平が声を出した。

 何日ぶりだろう。梨緒子の身体が理由も分からず震える。

 乾ききった砂漠を潤すオアシスの泉のように、彼の声が梨緒子の心に染み込んでいく。


「お前がよくても、俺が迷惑してるって言ってるだろ」


「だからって、俺と江波が出る理由なんかない」


 ――理由が、ない……? どういう意味?


 梨緒子は少なからずの衝撃を受けた。

 予想通りの反応とも言えるのだが、この状況でイベントに出ないという選択をした秀平に、少なからずの失望をしてしまう。


「じゃあ俺、リオと出てくるから。いいか、文化祭の実行委員に頼まれたんだからな? あとで文句は受け付けねーぞ」


「安藤、聞こえなかったのか? 俺も江波も出ないって」


 梨緒子は耳を疑った。その声はどこまでも力強く、相手を威圧するような迫力がある。


「はぁ? 勝手に決めるなよ。リオはお前の人形じゃないだろ」


 類はどんどん挑発する。ようやく秀平からまともな反応があり、どうやら類が持っている好戦的な部分に火がつけられたようだ。


「お前が出ないのは勝手だけどな。まあ、お前の気持ちなんて、その程度だったんだろ?」


「安藤がそんなに出たいなら、出ればいいだろ。でも……」


「でも? でも何だよ?」


 会議室に長い沈黙が流れた。

 秀平は、何度も瞬きを繰り返し、やがて、ポツリとひと言だけ呟いた。


「……江波だけは駄目だ」


 梨緒子はその場に崩れ落ちそうになった。

 そこに彼が存在すること――彼がこんなにも自分のことを想ってくれているということ。

 ここ一週間、自分の存在を否定されるほどの冷たい仕打ちを受けて、いや、受けていると思い込んで勝手に傷つき打ちひしがれていた自分が、どんなにつまらない人間だったかを思い知らされる。


「ハッ、ちゃんと言えるんじゃねーか。リオを泣かしてんじゃねえよ、バーカ」


「安藤――」


「何だよ」


「すまなかった」


 たった一言に、いろいろな意味が込められている。

 それは今回の類の気遣いに対してであり、結果的に類の彼女だった梨緒子を奪うカタチになったことに対しての、謝罪の表れだ。

 類は面食らったように反論した。


「なっ……お前、俺にじゃなくて、もっと先に謝らなくちゃならないやついるだろ?」


「謝る? どうして俺が? 謝るのは江波のほうだ」


「お前ってやつはどこまで冷血なんだよ! リオをこんなにさせといて、それでも謝れってか?」


「いいのルイくん、もういいの――だから」


 梨緒子は感謝の意を込めて、類に懇願した。


「分かってるよ。おい、実行委員! 一位は無効。二位は一位に繰り上げだ。それでいいな?」


 そう吐き捨てるように言うと、類は颯爽と会議室から出て行ってしまった。

 あとを追うようにして、実行委員の少年は慌てて本部の会議室を出て行く。後夜祭が始まるまでに二位のカップルにコンタクトを取らなくてはならない。大忙しである。




 やがて、夕陽の差し込む会議室には、秀平と梨緒子の二人だけとなった。


「私、謝らないから」


 静かだ。

 言葉を交わすのは一週間ぶりである。


「勉強のできない人間なんか嫌いなんでしょ」


 どうしても素直になれない。

 こんなことを言いたかったわけではない。可愛くないことを言っている――それは自分自身でも分かっている。

 しかし、受けた心の傷があまりにも深すぎて、あてつけるような言葉しか出てこない。

 秀平は黙ったまま、じっと梨緒子の顔を見据えている。


「こんなところにいないで、勉強してればいいじゃない」


「そうする」


 秀平はあっさりとしたものだった。

 ここまで来てもなお頑固な姿勢を崩さず、謝る気配すら見せない。

 溝が埋まるどころか、どんどん深くなっていく。


「ここ数日、いろんな人に、俺は江波のこと分かってないとか、言われ続けてた。ようやくそれを実感できたよ、たったいま。それじゃ」


 秀平は向きを変え、会議室を出て行こうとした。


「待って。待って秀平くん!」


 梨緒子の呼ぶ声に、秀平はすぐに立ち止まった。

 意地を張るかプライドを捨てるか。二人の攻防が続く。

 ここで逃げたら取り返しのつかないことになると、お互いが分かっているはずだった。

 梨緒子の両目からは、いつしかこらえ切れなくなった涙があふれていた。

 秀平の顔がぼやけて見える。

 ずっと言いたかったことを、梨緒子は秀平にぶつけた。


「あの写真! ……すごいねって、可愛いねって、言って欲しかったの!」


 そもそもの原因となったのは、たった一枚の写真だったのだ。

 たったそれだけのことだったはずなのに――。


「どうして?」


「どうしても! 可笑しい?」


「可笑しいとは思ってないけど――いま本当に大切なのって、それ? 俺は違うと思う」


 梨緒子の訴えは、秀平に容赦なく切り捨てられる。


「そんな……まま事みたいな付き合いだったら、続けていてもしょうがないし」


 校庭で後夜祭のキャンプファイヤーが始まった。

 炎が空を焦がしていく。

 電気の点いていない会議室内は次第に闇に包まれていき、炎の橙色に二人は照らされる。


「まま事……? 付き合うって、そういうことなんじゃないの?」


 どうして秀平がそんなことを言うのか、梨緒子には分からなかった。

 彼と自分との温度差に、遣り切れない思いで一杯になる。


「嬉しいことは話してきかせたいし、寂しいときは一緒にいて欲しいし、落ち込んでるときは慰めて欲しいし、楽しいことは一緒に笑いたいし――」


 梨緒子は止まらぬ涙を両手で拭いながら言った。

 すると。

 涙を拭う梨緒子の右手の上に、秀平の左手がそっと重ねられた。


「困っているときは『いちばん』に俺を頼って欲しいし、悩みがあったら『いちばん』に話して欲しいし――それなのに江波は」


 秀平がどうして怒ったのか。

 そのことに、梨緒子はようやく気がついた。


「俺の知らないことを他のやつが知ってたとき、いったいどんな気持ちになるか、江波には分かるか?」


 秀平の声は力強かったが、微かに震えている。


「安藤でも、波多野でも――例えそれが、家庭教師やってる自分の兄貴でも、だ」


 グラウンドからは大きな歓声が湧き上がる。ベストカップルに選ばれた生徒たちのインタビューが始まったようだ。

 秀平は窓の外の風景に視線をやった。

 どうやら、実際自分がイベントの主役となっていたときのことを想像したらしい。安堵したようなため息が、細く長く漏れていく。


「もう……本当に何なんだよ」


 重ねられた秀平の手が、涙を拭う動作を制限し、やがて顔を覆う両手を払われてしまう。

 梨緒子は涙でぐちゃぐちゃな顔を見られるのが恥ずかしかった。

 しかし、それはほんのつかの間――。

 梨緒子は秀平に、息が止まってしまうほどの勢いで抱きすくめられ、彼の胸にしっかりと収まった。

 彼の温もりが制服越しに伝わってくる。

 梨緒子は泣いた。泣いても泣いても涙は尽きない。


「江波だけは駄目だ、って秀平くんに言ってもらえて、ホントに嬉しかった……」


 彼の胸の中でそう呟くと。

 秀平は、梨緒子の髪に何度も頬を寄せた。


「……譲れない、誰にも」


 梨緒子は背中に回される彼の腕の強さをしっかりと受け止め、長く辛い日々の終わりに、ようやく一筋の光を見出した。

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