新学期(4)
秀平の顔に、すでに笑みはなかった。睫毛の長いきれいな二重の目は、じっと梨緒子の顔に向けられている。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
いったい何を――確かめたいというのだろう。
背の高い靴箱の狭い空間に二人きり。辺りは静かだ。人の来る気配はない。
梨緒子の頭の中はいろいろなことがめぐって、すでにぐちゃぐちゃだった。
緊張は、もはや最高潮に達していた。
こんなことなら、待ち伏せなどしなければよかった。そう思ったところで、いまさら事態は好転しない。
「私とルイくんは、ただの友達だよ。ほら、美月ちゃんの方が――えっと、波多野さんね、彼女の方がルイくんと幼馴染で、それで」
梨緒子は秀平の顔色をうかがいながら、必死に答えた。
類少年が秀平のことを『女子の名前は覚えようとはしない』人間だと言っていたのを思い出し、慌てて美月の苗字を出してみたのだが――。
「でも、安藤はそうは思ってないみたいだけど?」
そうは思っていない――そう、って?
友達だと思っていないってこと?
「それか、俺のことを嫌いか――どっちかだな」
「嫌ってなんかないよ! ルイくんはそんな人じゃないから」
言ってしまったあとで、梨緒子はすぐさま後悔の念にかられた。
秀平を弁護するつもりが、類を擁護する発言になってしまったことに気づいたからである。
そしてそれは、秀平の眉の動きで確実にとどめを刺される。
「じゃあ、どんな人?」
――しまった。
俺の考えているような人ではない。つまり、俺の言ってることが間違っているって、君はそう言いたいんだな?
秀平の眼差しは、そうはっきりと語っている。
「どんな……って、言われても」
秀平に対する圧倒的な場数の少なさが、梨緒子を苦しめる。
いつも遠くから眺め、想像を膨らませているだけだったのだ。いつもクールで物静かな孤高の王子様だと思っていたが――実物の秀平は想像以上に脆く難しくかつ繊細で、どう対処すればいいのか、梨緒子にはまったく分からない。
こんなことなら、もっともっと、秀平の兄である家庭教師の優作に、探りを入れておくべきだったと、彼を目の前にして絶望的な気分で思ったが、あとの祭り。
「江波が兄貴の生徒じゃなかったら、安藤もこんなに俺に絡んでこないと思うのに」
「え? それってどういう……?」
「安藤は、江波と俺の兄貴が仲良くなるかもしれないから、とにかく気が気じゃないんだろ。江波が兄貴の生徒だって昨日初めて知って、……だからやたらと俺に絡んでくる、そういうことなんだ、って納得したよ」
梨緒子は思わず自分の耳を疑ってしまった。
「別に、安藤が江波のことを好きでも俺には関係ないけど」
秀平は容赦なく言葉をあびせかけてくる。
「俺、わずらわしい人間関係のいざこざに巻き込まれるの、好きじゃないんだ」
関係ない。
好きじゃない。
関係ない。
好きじゃない。
その二つの言葉が、梨緒子の頭の中を何度も何度もこだまのように反芻する。
別に期待していたわけではなかったが――あまりにひどすぎる。
「あ……あの、ええと……ごめんなさい」
梨緒子が必死に声を振り絞ってそう言うと。
秀平の大きな両目が驚いたように、さらに大きく見開かれた。
彼が初めて見せる人間らしい表情で、梨緒子は自分がいつのまにか涙を流していたことに気がついた。
そのまま重い足を引きずるようにして、梨緒子は帰宅の途についていた。
そのときである。
「リオ? どうしたんだよ…………泣いてんのか?」
梨緒子の前に現れたのは、美月と一緒に帰ったはずの安藤類だった。
制服に通学用の青いデイバックを肩から提げ、いつも近道する市民公園の遊歩道で、もうじき開花しそうな桜の木にもたれながら、ずっと梨緒子が通るのを待っていたようだった。
きっと美月から、無理やり根掘り葉掘り聞き出して、おせっかいの虫が抑えられなかったに違いない――簡単に予想はつく。
うつむき加減に歩いている梨緒子を、類は目ざとく見つけて軽やかに走り寄り、しっかりと腕を掴んだ。
「放して! 私のことなんか放っといてよ!」
「放っておけるかよ! ひょっとしてあいつか? 永瀬なのか? 何されたんだ?」
「……何も、何もされてない。ホント、何でもないの」
秀平に言われたことを、この類少年にだけは言うわけにはいかない。
しかし。
類が秀平に対して非友好的な態度をとっているとは、梨緒子にはとても思えなかった。
――仲がいいのは認めるけど。でも、そんなヤキモチを焼かれるような仲じゃないし。それに……どうして優作先生なの?
分からない。どうして秀平がそんなこと言うのか分からない。
秀平の言葉が梨緒子の胸を突き刺し、抜けない。
涙は止まらない。次から次へと溢れてくる。
類は困ったようにため息をつき、掴んだままの梨緒子の腕を更に引き寄せた。
「いいから座れ。な?」
類少年に促されるまま、公園のベンチに腰かける。
梨緒子が泣き止むまで、類はいつものおせっかいを封印し無言のまま、いまにも泣き出しそうな曇天を仰ぎ、軽くため息をついた。
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