新学期(3)
梨緒子はいままで、こんなにも近くで秀平の声を聞いたことはなかった。
彼が自分に話しかけている。
この前のように電話越しではなく、手を伸ばせば触れられるほどのもどかしい距離で。
そして何といっても、突然秀平が見せた柔らかな笑顔に、梨緒子は思わず釘付けになった。
秀平はじっと梨緒子の瞳を見つめたまま、ゆっくりとその透き通った瞳を瞬かせた。
「江波、いま時間、ある?」
「い、い、いま?」
「いや――今日の放課後でもいいんだけど」
梨緒子は秀平の言葉に面食らっていた。どう対応してよいのか分からない。
――どうしよう。声が……出てこない。
すでに喉はカラカラだった。必死に唾を飲み込もうとするも上手くいかない。
秀平は、待っている。
梨緒子の反応をうかがっているようだ。
この重苦しい静寂が、永遠に続く気がした――が。
「おーっす! リオ。めっずらしいよなあ、いつもギリギリのくせして、雪でも降るんじゃねえの?」
絶妙なタイミングで、安藤類少年が昇降口へ姿を現した。
それが、「いい」のか「悪い」のか、おそらく梨緒子と秀平とでは認識が食い違うところだろう。
「たいした話じゃないから――別にいい。それじゃ」
「え、あ、うん」
秀平は類を避けるようにして、そのままどこかへ立ち去ってしまった。
「また永瀬かよ……何? なに話してたんだよ?」
「え? あ……よく分かんない」
類はしつこく問いただしてくる。梨緒子はいつものことと割り切って、さらりとかわしてみせた。
本当に、よく分からなかったのだ。もう少し冷静になれば理解できるのかもしれないが――秀平の空気がまだ残っている、いま、ここでは、到底無理な話だ。
類と目が合う。
そして、わずかな沈黙。
「……別に、話したくないならいいけどさ」
思いがけず、類がつまらなそうな顔をしたので、梨緒子は慌ててフォローをした。
「そ、そんなんじゃないって。お兄さんが私の家庭教師だって、ようやく気づいたみたい。それを言われただけ」
「それだけ? ホントかあ?」
梨緒子が必死になるのを見て、類は何がツボをついたのか――笑いながら、冷やかすように梨緒子の額を軽く突いた。
「まあ、いいけどさ。あいつ、イマイチ何考えてるか分かんねえからよ、ちょっと気になっただけだ。気ぃ悪くしたんなら、ゴメンな?」
「そんな、謝らないでよ、ルイくん。私も初めて話しかけられて、ちょっとビックリしちゃった」
梨緒子がそう説明すると、類少年はそうか、と頷いただけで、それ以上何も聞いてこようとはしなかった。
しかし、その後もなかなか梨緒子の動揺が収まらず、もはや授業を受けるどころではなくなっていた。
もちろんそれは、今朝の昇降口での秀平の言葉が、梨緒子の頭からずっと離れないためである。
『江波、いま時間、ある?』
――いったいアレはなんだったんだろう……? あの秀平くんが、私に用事があったってこと?
『――今日の放課後でもいいんだけど』
――もしかして、ものすごいチャンスだったんじゃないのかな? 私ってば気のきいた返事もできずに、絶好の機会をみすみす逃すなんて。
思考は延々と堂堂巡りだ。
もしかしたら、本当にたいしたことのない話かもしれない。
新しい接点である彼の兄・優作のこと、なのかもしれない。
実は秀平が梨緒子に好意を持っていて、告白しようと思っている――なんて都合のいい考えは、無いと言えば嘘になるのだが。
しかし、世の中そうは上手くいかない。それは梨緒子にもちゃんと分かっている。
けれども。あの孤高の王子様が、わざわざ話しかけてきた。
何も期待するな、というのも酷な話である。
梨緒子は昼休み、類少年が仲良し男子グループと学食へ行ったのを見計らって、親友の美月に今朝会った出来事の顛末を詳しく話した。
類が絡むと、どうも話がややこしくなってしまう気がしたからである。
そしてそれはおそらく、正解――。
「で、梨緒ちゃんはなんて答えたの?」
「答える前にね、ルイくんが来ちゃって……そしたら秀平くんが、別にいい、それじゃ、って」
「ホント馬鹿なんだから、あいつ。梨緒ちゃんの気持ち分かってるんだったら、ちょっとは気をきかせて通り過ぎていけばいいだけの話じゃない? …………絶対ワザとだ」
美月は呆れたように言った。幼馴染は伊達ではない。類の気性と行動を的確に見抜いている。
「もうこんなチャンス、来ないかもしれないよ?」
美月の言葉が、梨緒子の心にまっすぐ突き刺さる。
「あの永瀬秀平が、梨緒ちゃんが来るのを待ってて、それで自分から話しかけてきたんでしょ。余程のことだよ」
梨緒子が来るのを、待ってて――。
わざわざ、自分から話しかけて――。
「今度は梨緒ちゃんが勇気を出す番。ゼロからの一歩はなかなか踏み出せないけど、今回はもう向こうが一歩踏み出して来てくれたんだもん。永瀬くんの話、聞いてあげたらいいよ」
美月の優しい言葉が、梨緒子のなけなしの勇気に力をくれる。
「類のことは任せて。邪魔させないよう、しっかり捕まえて先に帰るから」
さすがは親友、心得ている――目の前でウィンクする美月に、梨緒子はなけなしの勇気を奮い立たせるように力強く頷いてみせた。
放課後――。
秀平はいつまで経っても昇降口に姿を見せなかった。辺りを見回し靴箱を覗くと、外履きが入ったままだった。
つまり、まだ校内のどこかにいるということだろう。
普段から、秀平の行動範囲には謎が多かった。
休み時間には一人、ふらりとどこかへ消え、どこにいるのか梨緒子には分からなかった。
捜しにいこうか――しかし、その間にすれ違いになって昇降口へ来てしまったら――そう考えるとなかなか足が動かない。
明日になれば、もっと話しかけにくくなるだろう。
梨緒子は自分がとるべき行動に迷っていた。
そのときである。
ようやく目的の人物が姿を現した。カバンを持っているところを見ると、おそらく帰ろうとしているのだろう。
「あ、あの……秀平くん!」
梨緒子はありったけの勇気を振り絞って、近づいてくる秀平に声をかけた。
「今朝の話なんだけど……いい?」
「もういいんだ、別に」
秀平はそのまま立ち止まることもなく、梨緒子の前を素通りしようとした。
素っ気なさすぎる。
フレンドリーな対応を期待していたわけではなかったが――あまりの反応の薄さに、梨緒子は途惑いを隠せない。
それでもなんとか秀平のあとを追い、背中越しに話しかけた。
もう、必死だ。
「あの、でも、このままじゃ、気になって夜眠れなくなっちゃうから、秀平くんの中ではもう解決したことかもしれないけど、とりあえず何の話だったかを教えてくれたら嬉しいかなー……なんて」
秀平が下駄箱の前に到着し、靴を履き替えるためにようやく立ち止まった。
梨緒子はその傍らで秀平の横顔を見上げながら、じっと待った。
すると。
秀平は観念したようにため息を吐き、ぽつりと呟くように言った。
「教えたら、もっと眠れなくなる――かもしれないし」
「ええ? って、もしかして怖い話とか、そんなの?」
秀平は内履きを脱ぎ、下駄箱から外履きを取り出すと、無言のまま微笑んだ。
怖くはないと思うけど、と言いながら外履きに履き替え、内履きを自分の下駄箱にきちんとそろえて入れ、ゆっくりとフタを閉じた。
そして、そこでようやく秀平が梨緒子の方へと振り向いた。
梨緒子の心拍数はさらに跳ね上がり、その音が脳天まで響いてくる。
続く秀平の言葉は、実に意外なものだった。
「じゃあさ、確かめさせて――ほしいんだけど。江波と安藤のこと」
――あ、安藤……?
秀平の言う『安藤』が類少年のことであることに、梨緒子はすぐに気づかなかった。
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