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【午後12時5分
貧乏くじの引きだけは、これまでの経験から考えても、ごく一般的な人に比べてかなり強いことになってしまうのであろう。
せっかく、学会に赴くために
記憶の欠如にくわえて、何者かが用意したゲームに参加させられる始末。これほどまでの貧乏くじは初めて引くのではないだろうか。
春日はある建物の前で悩んでいた。スタート地点からまだ一歩も動いていない状況であるが、何をするにしろ拠点というものが必要である。彼の目の前にある塀に囲まれた建造物は、正しく拠点にするに相応しかった。二階建てであり、玄関先には【宮垣公民館】との看板が出されている。地域の寄り合いの時などに使用される建物だ。もっとも、春日は若くして地元を出てしまったがゆえに、そのような近所付き合いもしたことがないのだが。
公民館の玄関はガラス張りで、奥の棚の上には今時珍しい肌色の公衆電話が見える。中に入ることができれば、雨風をしのぐことくらいできるだろう。空模様もよろしくないことだし、屋根のある場所は確保しておきたい。けれども、春日はその一歩が踏み出せずにいた。それは、玄関の取っ手に括り付けられたピエロ人形のせいだった。
確か名を【トラッペ君】といい、罠が仕掛けられているエリアにこそ、彼は姿を現わすという。すなわち、この近くに何かしらの罠が仕掛けられていることになる。
――学会の問題児。お偉い歳上の研究者の方々は、恐らく嫉妬がほとんどなのであろうが、春日のことをそう呼んでいたし、そのように呼ばれていることは春日も知っていた。さてさて、その問題児とやらは、現状をどう解決するか。春日は自分に言い聞かせる。考えろ、考えろ――と。妬まれるほどの発想力を持つ自分ならば、現状を打破する発想もできるはずだ。
改めて状況を把握するために、公民館の軒先にある半球体を睨みつける。この半球体は説明するまでもなく監視カメラだ。恐らく街のいたるところに監視カメラが仕掛けられ、どこの誰なのかも知らない何者かが見ているのであろう。どこまで人をコケにすれば気が済むのか。春日は一張羅のスーツのポケットからSGTを取り出した。
――ヒント【F】 ブービートラップは男性である。
もはや当たり前のように端末を操作し、自らに与えられた【固有ヒント】を確認すると、春日は溜め息をひとつ。ここまで分かりやすいヒントが与えられるのは、研究職として馬鹿にされているようで面白くない。
春日の【固有ヒント】が事実であれば、犯人役の絞り込みが一気にできてしまうのだ。仮にヒントが偽物だとしても、やはり犯人役の絞り込みは可能。
犯人役は男性か女性か。春日の【固有ヒント】が本物か偽物かさえ分かれば、単純に男女のどちらかを犯人役の候補から外すことができるのだ。大掛かりな準備をしたまでは良かったが、このゲームを仕掛けた人間は詰めが甘かったようだ。なんせ、春日が【固有ヒント】の真偽を明らかにするすべさえ見つければ、犯人役の候補がぐっと減るようなヒントを出してしまったのだから。
それにしても――と、春日は地面に置いたままのショルダーバッグに視線を落とす。中身はもちろん確認済みだ。そのショルダーバッグから瓶の頭を覗かせ、自己アピールしているものがあった。食酢である。
ショルダーバッグの中にはSGTと携行食糧に水の入ったペットボトル。そして茶色い紙袋に包まれた食酢が入っていた。残念なことに春日はそこまで酸っぱい食べ物が好きというわけではないし、どう考えても今の状況で食酢が役に立つとも思えない。貧乏くじを引かされたうえに、なぜだかもう一度貧乏くじを引かされた気分になった。
――元より、こんなゲームを企てた人間から施しを受けるつもりはない。携行食糧と水はお守りみたいなものである。大学時代はロッククライミングサークルに属していたおかげで体力には自信があるし、ある程度の精神力も備わっているつもりでいる。
今すべきことは拠点の確保。どうしても必要というわけではないが、拠点があるのとないのとでは気の持ち方が変わってくる。そして、何よりも他のプレイヤーを仲間に誘いやすい。実のところもっと簡単な攻略法があることは気づいていたのだが、やはり仲間を集めて謎を解明するという方針には賛同したかった。こんなわけのわからないところに集められた人間同士で争うなど、実に馬鹿馬鹿しい。
春日はせっかくの一張羅の上着を脱いだ。玄関先には【トラッペ君】が設置されている。だから、あれの周辺に罠が仕掛けられているのは確実だ。もちろん、考えもなしに足を踏み入れるなんて馬鹿な真似はしない。そのためにスーツの上着を脱いだのだから。
現状において無闇に歩き回るのは危険。罠を見落として死んでしまうリスクを高めるだけだ。それだけ未知数のリスクを背負うくらいならば、目に見えているリスクをいかに回避するかを考えたほうが、よっぽども容易い。
罠を解除しようなんて気はないし、そんな技術もスキルもないだろう。でも、せめて罠が発動する条件は知っておきたかった。春日は脱いだ上着を玄関先のほうへと向かって振ってみた。
――反応なし。玄関先の【トラッペ君】にさえ馬鹿にされているような気分だ。少なくともセンサーか何かで感知しているわけではないらしい。それは、何度かスーツの上着で宙をなでて確認することができた。
気を取り直し、ショルダーバッグを手に取った。――今度は投げ込んで観測してみよう。そう、投げ込んで観測する。その次はどうするかなんて考えていない。研究なんてものはトライアンドエラーの繰り返しだ。まずは施行を繰り返し、実験の結果が出たら、それを元に仮説を立てる。そしてまた、仮説を確かめるために研究をする。では、それのきっかけはなにかといえば、とりあえずやってみる――みたいな精神がほとんどだ。なんせ研究者なんて、ほとんどが好奇心で構成されているようなものだから
試してみて駄目なら次の手段を考える。場合によっては公民館を諦めるのも手段のひとつになるのかもしれない。とにかく、今は思いついたことを実行に移し、情報を集めたい。もちろん、なんでもかんでも実行に移すのではなく、リスクはしっかりと考慮する。
春日はショルダーバッグの中身を抜いた。物資としての食酢がどうにも邪魔である。携行食糧と水入りのペットボトルは運営からの施しであるから口にするつもりはない。とどのつまり、ショルダーバッグの中身は春日にとって不要なものばかりだった。だからこそ、ショルダーバッグを実験の道具にしようと発想したのかもしれない。
一見して何も仕掛けられていないように見える玄関先。けれども、その象徴である【トラッペ君】は、確かにそこにいるのだ。春日は小さく溜め息を落とすと、ショルダーバッグを玄関先へと放り投げた。そして、投げたものが一張羅のスーツではなくショルダーバッグで良かったと実感した。
ショルダーバッグは放物線を描きながら玄関先へと落下した。その落下先の地面から、何かが噴射されたように見えた。細かい粒子がショルダーバッグを包み込み、そしてごくごく小さな雷光が走ったかと思ったら、噴射されたものがショルダーバッグごと激しく燃え上がった。
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