第5章 7

 ……呼吸を整えながら、姉から身体を離すと、喜びのあまり性も根も尽き果てたのか、ドサリ、と姉の身体は崩れ落ちた。

「お姉さま……」

 布団の上でうつ伏せのままピクリともしない姉の頬に顔を近づけ、最後の接吻をした。

 身支度を整えていると、今までずっと身じろぎ一つしなかったうつ伏せの姉がむくりと身体を起こした。俯いた視線は何処を見ているのか。無言のまま、虚ろな薄笑いを浮かべ双眸からぽろぽろと涙ばかりを零している。――よほど良かったのだろう。

「……きよ、かつたろう……ねえ、だいすき……ぅ」

 ぶつぶつと念仏のような呟きを漏らしたかと思えば、

「……ぅ、うううあ、う、……ぐす、ひ、ひぃぃ……」

 突如表情を豹変させ、何か取り返しのつかないものに慟哭するかのように肩を抱き身を震わせる始末。――こうなることを自分が望んでいたくせに、馬鹿な娘。

「お姉さま」

 僕は最後の別れを告げようと、姉にわらいかける。

「もうこれで、何も思い残すことはありません。……ありがとう、お姉さま。どうかお元気で。さようなら――刀子。……ふふ、また明日、ね?」

 そう言って背を向けようとすると、

「……勝太郎」

 自分を呼び止める声に、足を止める。

「ねえ、勝太郎……」

 振り返ると、先程まで虚ろに放心していた姉が顔を上げ僕を見つめている。

「お姉さま?」

 僕が用意した筋書きの通りにただ動くばかりだったこの笑い人形が、自分から即興を演じてみせるとは驚いた。

「ねえ、聞いて? ……お姉さまはね……子供の頃から、ずっと……」

 そして、兎のように赤く泣き腫らした目を線のように細め、にっこりと笑った。

「ずっと、……おまえのことが、大好きだったのよ?」


 ――ちりん。


 ――ねえ、勝太郎。


「――大好きよ」

 嗚咽にブルブル震える両肩を抱きしめながら、涙にグシャグシャになりながら、たった今自分を辱めた男の前でにっこりと笑顔を作ってみせる。

 そんな健気な――あまりに痛々しい姉の泣き笑いに、僕もにっこりとわらいかけた。

「――僕もですよ、お姉さま」

 弟の言葉を耳にした姉の魂から、今まで辛うじて己を己に繋ぎ留め支えていた何かが、遂に音を立て崩れていく気配を感じ、僕は心地よくそれに耳を澄ます。

 壊れ狂ったような慟哭を背中に聞きながら、僕は部屋を出ようと鴨居の下で少し身を屈める――



 ……その首筋目掛け、渾身の力を込めて白刃を振り下ろした!



「ぎゃあああああああああああ――!」

 血飛沫を上げて弟が渡り廊下に転がり出た。

 夜目にも鮮やかな血の噴水は天井を染め、廊下の床を濡らし、敷居を越えて闇に沈んだ離れの畳の上へも飛び散った。

「うぎゃあああ――ぎゃあああああ――!」

 真冬の青い月明かりに照らされた、冷たく凍える渡り廊下の上で、炎にでも巻かれたように絶叫しバタンバタタンと廊下を鳴らしながら七転八倒する勝太郎。

 ぱっくりと口を開く裂傷からは滝のような紅が流れ、血の海は滲むように夜の色を深く侵食していく。

(……仕留め損ねた。こんなもの振り回すのは、生まれて初めてだから)

 中学時代に教練で竹刀木銃なら多少は扱ったことはあるが、真剣など触れたこともない。

 しかし、血濡れの白刃を片手に下げる僕の思考は、目の前で血達磨になり跳ね回っているもうひとりの自分の姿を前に厳冬の夜気よりも不思議なほど冷たく冴えていた。自分で作り上げた悪夢の世界で、自身の流した血溜りに溺れ、悪夢のように悶え苦しむ夢魔に対し、油断なく刀を構える。

 ……突如、血を流しのたうち回っていた勝太郎が、ぴたりと悶絶の動きを止める。

 夜闇をびりびりと震わせていた血の凍るような絶叫は止み、代わりに聴く者の憐れみを誘うような嗚咽が地の底から湧き上がる。

「――う、ううぅ……痛い、痛いよお……」

 啜り泣きを漏らしながら、むくりと勝太郎は起き上がる。

 あれほど大量にどくどくと流れ出ていた鮮血は、今はもう一滴も傷口から溢れていない。

 月夜の闇の中で更に漆黒の際立つ黒髪が、ばさり、と勝太郎の背中で波打つ。

 いや、こちらを向いた顔はもう勝太郎――僕のものではない。

「酷いよ、酷いよ……ぐす。ねえ、どうして?……こんな、」

 髪を振り乱し、顔中を、首から下を真っ赤に染めた姿は、壮絶なほど。

「……こんな酷いことを、お姉さまにするの? ――勝太郎」

 倒錯的な欲情さえ相手に催させる、あまりに無残で美しい血塗れの顔が苦痛と驚愕と哀しみとで歪み、はらはらと落涙しながら迫る姉――刀子に、僕はもう一度得物を構える。

「ねえ、わたしが何したっていうのよぅ? たくさん愉しませてあげたじゃない?

ねえぇ、どうして、……お姉さまがわからないの?」

 ……ぺたり、……ぺたり……と湿った足跡が僕に近寄ってくる。

「ねえ、酷いよう、こんな仕打ち。ぐすっ、わたしはただ、あなたたち姉弟の望んでいたことを叶えてあげただけじゃないのよぅ……ふたりとも、本当はこうなりたかったんでしょう?」

「うるさいっ!」

 一喝すると、びくっと姉は身を震わせ、たちまち表情が一変する。今までの悲痛に泣き濡れた少女の美貌が、瞬く間に、艶笑の甘えるような猫撫で声で。

「……そんな怖い顔をしないで、ねえ、勝太郎? その恐ろしいものを早く仕舞って頂戴? そうしたら、ほら、部屋に戻って、また二人で愉しみましょうよ。……ねえ?」

 脊椎から骨抜きにされるような妖艶な仕草で、すぅーっ、と近づいてくる姉。

 正常な男なら、たちまちのうちに魂を抜かれてしまうだろう。

 ――目眩がするほどの、蛇性の淫。

「ほら、おまえのお姉さまも中で待っているわ。今度は三人でしてみましょうよ? きっと良くってよ? 刀子もさっき達したばかりだから、今頃程よく身体も火照ってきて、おまえが抱いてあげればウンと良い声で啼いてくれることよ、ねえ?」

 微かに、つん、とする甘い匂いが周囲の空気に混じり出す。

「お姉さま……」

 僕は、……構えていた得物を、下ろした。

「そう、良い子ねぇ、勝太郎?」

 ふ、と優しい表情を浮かべた姉は、先ほどの苦痛に悶絶していた様子など微塵も見せず、まるで誘うように微笑を浮かべ、僕の方に向けて手を伸ばす。

「……ふふ。ねえ、いらっしゃいな。その抜き身を鞘に仕舞ったら、さっきの続きをしましょうよ?」

 今や甘い匂いは噎せ返るほど。

 姉の言いなりに、僕は抜き身の得物を鞘に収め、姉の前に跪いた。

「さあ、早く部屋に戻りましょう、勝太郎。


 ――三人で、蛇のような遊びをしましょうよ?」


 ――そう言って、にっこりとわらう。


 ……その首目掛け一閃。


「つっぁああああああああああああああ!」

「はヒ――」

 気合とともに、居合の要領で白刃を抜き放った。

 ぱっと血飛沫が、再び夜の闇に花を咲かせ、青白い月が一瞬紅く染まった。

 確かな手応えを腕に残し、胴から切り離された化け物の首は、驚愕の表情を貼り付けたまま天高く宙を飛び、ぼとり、と重い音を立てて庭先に落下した。噴水のように血を吹き上げる身体の方も、間を置かずしてバタバタと身悶えした後、糸が切れたように崩れ落ちた。

 しゅぅー、しゅぅー、という生臭い呼吸音が、暫くの間、断末魔の恨み言を試みるように頭を失った胴体から溢れていたが、やがてそれも止み、真っ赤な血飛沫と真っ黒な夜、真っ白な静寂だけが、離れに残された。


「――っぁ、はぁっ、はぁっ、」

 呼吸を整え終えると、辺りを見回してみる。

 飛び散った血と、一緒に断ち斬った長い髪の毛の散乱する中に、点々と血の軌跡が細く長く庭の植え込みの方へと走っている。

 それを追って庭へ降りると、程なくして松の木の根元に転がる化け物の生首を見つけた。

「ぎぃ……ぎぃ……ぎぃ……ぅおおおおおぉ……うぅ」

 白刃を提げ見下ろす僕を、ぎり、ぎり、と歯軋りしながら凄まじい形相で睨みつけてくるが、呪詛の込められた双眸の眼力は既に弱々しい。

「お……ぼえ……て……おれ……」

 もはや姉の声音の面影もない酷く嗄れた呪いの声は、何処か死んだ祖父の声に似ているようにも聞こえた。

 生首を見下ろしたまま刀を振り上げる。

(――さようなら、もう一人のお姉さま)

 少年時代の僕の全てを彼女への恐怖と煩悶で費やし、悪夢の中で幾度も身体を重ねお互いを求め合いもした――僕の半生を狂わせた美しい少女に心の中で別れを告げながら、その眉間に刀の切っ先を振り上げた。


「――っ⁉」


 突如、背後から凄まじい力で首根を掴まれた。

「ぐっ……ぐぇ……が⁉」

「……きひ」

 いつの間にか背後に忍び寄っていたものが、僕の首を締め上げ、高々と僕の身体を持ち上げる。身を捩り振り解こうとしても、細腕からは想像もつかぬほどの猛烈な力が逃れることを許さない。

「きへ、きひ狒々ひひ々ひひひひ非ひ!」

 首のない化け物の身体が、ごぼごぼと切口を鳴らしながら僕を縊り上げる。

 息ができない。頭が破裂しそうなほどの、万力のような締め付けに、忽ち目の前が白んでくる。

「きひやヒャひ非埜ひゃyAひゃ! きけけけ餉餉餉餉け餉ケケ餉餉餉けけけっ!」

 ざんばらに髪を振り乱しながら、化け物の首が大喜びで飛び跳ねる。

 もはや四肢に力が入らず、握り締めていた刀が腕から落ちる。


 ――ちりん。


 ああ、鈴の音が、近づいてくる。


 ――ちりん。


 お姉さま、ごめんなさい。


 ――ちりん、りん。 じゃり。


 ……たすけて、あげられなかったよ。



「ああああああああああっ!」

「けけけけk――ぶぶっ」


 不意に縛めが解かれ、地面に放り出される僕の背後で、化け物の身体がどうと倒れ伏した。

 咳き込む僕の前に、零れんばかりに両目を見開いた化け物の首が、血塗れ田楽のように串刺しにされている。

「ふぇ……うああああ……」

 首ごと地面に突き立てた刀から手を離し、へたり込んだ姉が、縋るような眼差しで僕をじっと見つめながら嗚咽を零した。

 


 これが、十一年にも及んだ長い夢の終焉だった。

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