第2章 7

 級友が訪ねてきたのは、中学三年に進級した山の木々も色を変えつつある初秋の頃だった。

 この山田という友人は僕の生家に程近い街に住む軍人一家の末っ子で、当人も陸軍幼年学校入学を目指しているという。陸幼といえば、当時「星の生徒」と呼ばれ少年たちの憧れの的であった。快活な性格でお互いの生家も比較的近かったこともあり、入学以来気の置けない間柄となっていた。


「しかしいつ来ても貴様の家は……良いな。何といっても女の匂いがする」

 男所帯の山田の家に比べれば、母と通いの女中含めて八人の女性が暮らす我が家は年頃の男子としていろいろ心疼くものがあるらしい。今も僕の部屋に茶を出しに来た律という若い女中の尻を眺めながらデレデレと鼻の下を伸ばしている。軍人家風のくせに助平なのである。

「そういえばこの前、律が君のことをいやに褒めてたぜ。さっきも君に色目を使ってたんじゃないのか?」

「なんだって? ちぇっ、気がつかなかった。よし、それなら一丁、思い切って律ちゃんを口説いてみようかしら」

「俺は止めないがね、気をつけたまえよ。君んとこと違って、こんな村じゃ色恋の噂なんてあっという間に広まっちまうからさ。陸軍大佐の倅と昵懇になんて言ったら向こうの親の方が熱上げちまって逃げられなくなるぜ?」

 「俺」という言葉を覚えたのも、中学に上がってからだった。流石に山田の「貴様」は極端にしろ、今ではもう僕の周囲で田舎臭く「オラぁ」だの「オメぇ」だのと言い合う者は一人もいないのだ。最初のうちは変にこそばゆく感じたが、今はむしろ心地良い。それに、新しい人称を用いることで、「ぼく」などと名乗っていた長者勝太郎を「俺」の人生とは無関係の、既に死んだ少年の人生として眺めることができる。

 そんな取り留めのないやり取りのほか、学校の先生を批評したり、先週の球技大会の結果について論じ合ったり、しばらくは無駄話をして時間を潰していた。

色々と気詰まりの多い私生活の中で、友人たちと過ごす時間は僕にとって数少ない楽しみだった。

 何よりも、こうして気の置けない相手と取り留めのない会話を交わしている間は、姉のことを思い煩うこともない。

 そのうち、山田はふと部屋の一角を占めている書棚の中の一冊に目を止めた。

「へえ、貴様のような朴念仁が色っぽいものを読んでいるじゃないか」

 山田が抜き出した本を覗き込んだ僕は、

「なんだよ色っぽい本って。 ――⁉」

 ……一瞬で身体から血の気が引いた。


『詩集 月に吠える』


 以前、姉の部屋に忍び込んだ際に発見した、彼女の机の抽斗に収められていたはずの本。

 姉の消失と同時に彼女の部屋から、その持ち物と共に消えていたはずの詩集が、なぜ僕の部屋に……?

「女みたいな顔に似合わずお堅い木石かと思っていたが、詩集をお読みなさるとはね。矢張見かけは人を裏切らん、というかなんというか。あー……詩はわからん。俺は『三国志演義』とか、『南総里見八犬伝』とか、ああいうのが好きなんだ。今度貸してやろうか?」

 僕の動揺に気づかず、山田こそ顔と図体に似合わぬ気色悪いほど丁寧な手つきで外函から本を取り出しパラパラとペエジを捲っている。

 その捲る手がはたと止まり、ヒュウと小さく口笛を吹く。

「ああ、これならわかる。……すごい可愛い子ちゃんシャン・メッチェンだな」

 動揺する僕を他所に、山田は本に挟まっていたらしい一枚の写真に目を輝かせた。嫌な汗が背中を伝う。

 たった今まで戸を開け放ってもほの温かい陽気だった部屋の空気が、僕ひとり震えるほど凍えて感じる。

「おいおい勝っちゃん、まさかこのメッチェン、貴様の恋人リイベじゃあるまいな?」

 ……お願いだから、その写真を僕に見せないでくれ。

 そう心の中で手を合わせて懇願する僕の前に、ニヤニヤしながら親友はその紙片を突き出してみせた。

 ――その写真には十一、二歳ほどの少女が写っていた。

 写真館で撮影されたらしい味気の無い背景の中で、にっこり笑みを浮かべている女の子。

 紛れもなく、あの日、僕がどさくさに紛れて姉の部屋から持ち出してしまい、そのまま何処かへ失くしてしまった筈の姉の写真だった。

「……なん、で……こんな、」

「おいおい勝っちゃん? どうした、顔色が尋常じゃないぜ?」

 初めて僕の様子が只事でないと気づいた山田が、本を脇に開いたまま僕の顔を覗き込む。

 しかし、僕はこの時、あれほど自分の前から遠ざけてくれと、伏し拝んで懇願していたはずの姉の写真を凝視したまま目が離せなくなっていた。

 様々な疑問が脳裏に満ちた。何故、姉の部屋にあったはずの本が僕の部屋の書棚に紛れていて、僕が無くしたと思っていた姉の写真が栞のように挟まっているのか。

 ひとつだけ、恐ろしい確信があった。

 姉は間違いなく、あの離れに閉ざされた後、この部屋に――

「おい、勝っちゃん、具合が悪いなら律ちゃんを呼ぼうか?」

「……ひぃっ!」

 小さく悲鳴を上げたのは、その確信に思い至ったからではない。


 見てしまった。


 心配げに顔を覗き込む親友の背後、部屋の面した中庭のずっと奥に佇む、離れの障子が、


 す、


 と、僅かに開かれるのを。

「……!」

 ぬぅっ、と、隙間から四本の白い指が生え、内側から障子に掛けられる。

 さぁっ、と背中を、首筋を、冷たいものが走り出す。 

 現れるはずの無いものが、日常から消え失せてしまったはずのものが、全身の末端神経にまで恐慌の悲鳴を上げさせようとする。


 すぅ――――――――。


 僕の見ている前で、人の顔の幅ほど障子が開かれ、中から漆黒の暗闇が顔を覗かせる。

 暗闇の他、何も見えない。見えるはずがない。

 それなのにはっきりとわかる。

 自分をじぃ、と見つめる二つの目。その表情までも。


 ――勝太郎……。


 ――いらっしゃいな……。


――こっちへ……。


 ――ねえ? 勝太郎……。


 ――こっちへ……。


 ――こっちへいらっしゃいな……。


 ――勝…………


「――勝っちゃん?」

「ぅわあああああああああああああっ!」

 突然肩を掴まれて、僕は絶叫した。

「う、うわあああっ!」

 山田も、驚きの声を上げて尻餅を付いた。

「あ……」

 我に返ると、傍で山田がひっくり返って目を白黒させていて、足元には例の本が写真を栞代わりに開かれたまま転がっていた。

「だ、大丈夫か、貴様?」

 尻餅を付いたまま心配そうに見上げる友人に、

「いや、……悪い。あの写真、姉なんだ」

 そう告げると、友人もはっと気づいたような顔をして、

「ああ、……そうか。いや、俺こそ調子に乗って無神経なことをした。すまん」

 バツの悪そうな様子で頭を下げた。

 中学に在籍する上では、教員たちとのやり取りの中で、皆の前で親兄弟の話題に触れるような機会も少なからずある。実際、山田家は父子家庭で、上は陸軍、真ん中海軍、末っ子は陸軍幼年学校志望というのは、本人と最初に言葉を交わす前から聞き及んでいたことである。姉についても流石に戸籍上からいなかったことにはできないので、友人たちには難病治療のため遠地療養中であり、恐らく生涯生家に戻ることはないだろうと伝えていた。それだけで周囲は勝手に察してくれる。この時代、不治の病で隔離治療などそう珍しいことではない。中には、世間体を憚り仔細については口を噤まざるを得ないような場合もある。

「しかし、こんな綺麗な人、今まで見たことないぞ。……惜しいな。折角こんな美人に生まれてきたのに、姉上、さぞ悔しかったろうな。貴様も、貴様のご両親も」

 シュンとした様子で涙ぐんでさえいる友人の肩をポンポン叩くと、

「そんな顔すんなよ、律が見たら鬼の霍乱だって笑われるぜ。そうだ、律を呼んで、久々に花札でもやるか? 確か三人でもやれるやつがあったよな?」

 そう言ってやると、山田もぐいっと目尻を擦り上げて、にっと笑ってみせ、

「そうだな、では、僭越ながら拙者が律子嬢へのお誘いを仕ろう。勝太郎坊ちゃまからの命令であるぞよ、ってな」

 そう言ってドタドタと床を踏み鳴らしながら部屋を出ていく山田を見送り、しばらくして、再び離れの方に目をやる。

 ……離れの障子は何一つ変わらず、固く閉ざされていた。


ふと足元に開かれたままの本を拾い上げる。

 ペエジの間に挟まれた姉の写真を抜き取ろうとして、ある一節が目に止まった。


 ――蛇のやうな遊びをしよう

 ……

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