第2章 6
……いつしか僕は、姉の存在を何よりも恐れるようになっていた。
それは無論、母からの言いつけがあった為でもある。しかし、たとえ母から姉との接触を禁じられていなくても、現在の僕は己から進んで姉に会いたいなどと微塵も思っていない。寧ろ、もし姉の姿を少しでも垣間見、あのわらい声を一寸でも耳にしたなら、僕はたちまち怖気に我を忘れてしまうだろう。
産婆の発狂。姉の幼少期。そして、不気味な白蛇の怪談。
僕にとって、それらは決して母の思い出語りや村の拙い昔話では済まない。
実際に、僕は幾度となくそれを垣間見ているのだ。
あの初夏の夕暮れの川辺で姉の肢体に目を奪われた際。
あの晩夏の山林で姉と戯れた際。
姉を取り上げた志乃という産婆からたちまちのうちに正気を奪い去ったという、あのわらい。
――白い大蛇は森の主、主を目にしたものは気が触れる……そんな昔話の言い伝えを彷彿とさせるような、淫らな喜色に舌舐りしながら、見えない毒牙を今まさに獲物に掛けんとする、白蛇の化女のわらい。
あの日、僕の頬に赤い一文字を施した経血がまさに蛇毒であったかのように、それから一年余りの間、もっともっと僕をお姉さまの体液で汚して、と、毒牙に掛かった犠牲者が魅惑の毒の作用で自我を失いさ迷った挙句、やがて中毒症状のように禁断の陶酔に冒され、毒なしではいられぬ廃物と化していくように、憑かれたように姉の姿を求めていたあの束の間の自分の狂躁は、今思えば一体何だったのか。
その惑乱の記憶、阿片中毒者が現のうちに見るような鮮やかな原色の幻夢は、それが鮮烈であればあるほどその前後の記憶、思い出を駆逐し、ふと瞼の裏に過去を手繰り寄せようとすれば、あのわらいのほかは何もかもが色褪せ霧消してしまう。それほどまでに、今の自分自身の内面を未だ侵食し続けている一年余りの姉との思い出。
昔話の化け物は現に姉の姿を以て、この家の中で今も息を潜めこちらを窺い続けている。
……それが恐ろしくてたまらない。
もはや、いつも我々を遠くからにこにこ眺めていた無邪気な少女の姿など思い描きようもなかった。
……そして、何よりも僕を苛んだのは、最後に姉と過ごした夏の、あの鎮守の森の崖下での姉弟の戯れがどれほど世間体に反するものか、どれほど人倫に外れた許されぬ行為であったのかを、僕はこの時既に理解していたことだ。
その意味を知るに至ったとき、僕は心の内でどれほど罪の意識に慟哭したことだろう。どれほど自分を責めたことだろう。幼い無知とはいえ、取り返しのつかない一線を越えようとしていたのだ。
しかし、その事実を知る者は誰もいない。僕ひとりが口を噤んでいれば済むことだ。この先どんなに呵責に苛まれようとも僕の不逞の罪を罰するものは自分の他に誰もいないはずだった。
……しかし、離れに隔離され姿を消したとはいえ、姉は確実にこの家に存在するのだ。
僕の部屋からは、中庭の向こうに姉の閉じ込められている離れを小さく望むことができる。その気になれば、姉はいつでも再び僕の前に姿を現すことができるはずだ。
そして、蛇のようなわらいを浮かべながら、僕を再び悪夢の底へ誘おうとするに違いない。
――ねえ、勝太郎? おまえは自分が何をしたのかわかっているのでしょう? そう、とってもいけないことだったのよ?
――口を噤んでみせても駄目よ? ほら、覚えているでしょう? わたしが初めて月の血を流したときのこと。あの時、わたし何故かとても身体が痛かったのよ? あんなに具合が悪かったの、生まれて初めてだった。だからあのとき勝太郎に、私の痛いところ、血が出ているところを全部、優しく舐めて治して欲しかったの。わたし自身もまだ触れたことのない、ずうっと奥の中まで全部に舌を差し入れて。おまえも本当はそうしたかったのでしょう?
――ふふ、本当に素敵だったから、誰かに自慢してみようかしら? 例えば、お母さまとか? それとも、お父さま、お祖父さま? ああ、おまえのお友達なんかはどう? あの痩せた足りなそうな子なんか、いつもわたしを物欲しそうな目で見ていたから、きっと悔しがってよ? ……冗談よ。そんな泣きそうな顔をしてお姉さまを喜ばせないで?
――さあ、もう堪え切れなくなってきたでしょう? ねえ、続きをしましょうよ? もっと深いところまで、ねえ? ……駄目よ、そんな顔をしてみせたって。お前はもう……
――お姉さまから、逃げられないのよ?
……もし、一度でもそれに触れてしまったら僕は破滅するだろう。――嗚呼っ!
僕にとっては、姉の記憶は地獄か悪夢、あるいはその両方に等しいものとなっていた。
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