第1章 9

 再び姉と言葉を交わす機会が訪れたのは、それから一年後、夏もやや盛りを過ぎた盂蘭盆間近の昼下がりだった。

 住み込みの奉公人たちは今朝から薮入りで、それ以外の者たちもたまたま出払っており、祖父と父は迎え火の段取りを決めるため菩提寺に出向き、初盆を迎える家への挨拶と手伝いに、珍しく母も外出していた。

 ひと気の消えた家の中で、一人部屋で少年雑誌を読んでいた僕はふと気配を感じ、顔を上げると、滅多に見ないほど神妙な顔をした姉が襖の影から黙ってこちらを覗いているのと目が合い思わず仰け反りそうになった。

「勝太郎」

「はい」

 反射的に返事をしてしまったが、思えば、姉と言葉を交わすのはあの日以来初めてとなる。一年振りにまともに耳にした姉の声は、一年前よりやや深みが増して大人びたように聞こえた。

 あの夕暮れ以来、一年振りに間近に見る姉は、鶸色の夏衣に櫛の行き届いた艶々の黒髪を垂らし、少し鬱陶しそうに耳の上に掛かる髪を掻き上げている。姉はもう十六の娘盛りだが、相変わらず年頃にしては幼気な色々無頓着そうな表情と、一年前に比べ目に見えて隆起の発達著しい胸やら腰やらとの不統一さが却って多感な少年の目には悩ましい。

 僕の返事を聞くと、神妙な面持ちのまま、姉はやや大仰な動作であたりをきょろきょろ伺うと、そこで初めていつもの顔中を線にしたような笑みを浮かべて言った。

「遊びにいきましょう」



 昼下がりの農道は丁度一日で最も気温の高い頃合ということで、手を伸ばせば触れられそうな、眩暈のするような陽炎と、情け容赦のない暑気に、普段炎天下を遊び慣れている僕でさえ、たちまち肌着が透けるほどの汗みどろになった。僕の数歩先を行く姉も、両脇で穂を覗かせる稲葉と同じ鶸色の背中にうっすらと汗を滲ませ、首筋には珠の雫を浮かべている。なぜ今日に限って仲間たちから遊びの召集がかからなかったのか、家からいくらも出ぬうちに理由を悟った。こんな炎天下にいつものようにワーと走り回ろうものなら、たちまち泡を吹いて卒倒するに違いない。辺りは彼岸蝉の鳴き声が洪水のようで、酷暑の空の下、人ひとり見当たらない無人の田園に音色凄まじく響いていた。

 遠く山沿いの連絡道路に、峠向こうの街へのろのろと向かうバスが小さく見えるが、あの車内はさぞ地獄だろう。

 家からここまで結構な道のりを歩いたが、それまでの間、姉は僕に行き先を教えてくれぬまま、毎年盆の迎え火の祭りで唄われる「とらじょさま」を口ずさみながら、上機嫌で僕の行く手を先導している。頬を伝う汗を時折拭いながらもそれを厭う素振りさえ見せない。

 ふと緩やかな上り坂の行先に下手にすむ顔見知りの百姓の姿が見えた。外に出て以来、ここに来て初めて人の姿をみた。

 行き合う際、初老の農夫は編笠に手をかけて会釈をしたが、姉は「んふふ」と挨拶だかなんだかよくわからない笑みを浮かべて素通りしていき、僕は頭一つ分背の高い姉の後ろで気後れしながら会釈をし、姉の後に続いた。

 小唄を口ずさむ姉の胸元から、ちりん、ちりん、と鈴の音が溢れる。例のお守り袋を持ち歩いているらしい。

 そういえば、以前姉の部屋で見つけたお守り袋には、「巳」の字とお互いの尻尾を咥えた二匹の白蛇の絵が刺繍されていたが、姉の干支は「巳」ではない。大方、母か祖母に貰ったものだろうから、気に止めるほどのことでもないのだろうけど。

 ……しばらくして振り返ると、先ほどの農夫が、未だに立ち尽くしたままじっとこちらを見つめている。

 姉は相変わらず鼻歌交じりで先へ進んでいる。もう一度振り返ると、初老の農夫はそこに佇んだまま特に何をするでもなく、


――ただ、異様なほどの無表情で姉の後ろ姿を見つめているのだった。


 その時、ぽたりと、足元に蝉が一匹落ちてきた。

 落ちてきたまま、ピクリとも動かない。


「勝太郎?」

 ……気がつくと、姉はいつの間にか立ち止まり、僕の様子を不思議そうに見ていた。

「さあ、早く行きましょう」

にっこりと、姉が微笑む。


 農夫は、いつの間にか姿を消していた。

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