深夜の来訪者
飛鳥休暇
鼻に残るはバラの香り
最寄りの駅から徒歩15分、近くにはドラッグストアやコンビニがあり生活するには十分な環境があるアパートの二階。
202号室が私の部屋。
ある日の夜、そんな私の部屋のチャイムが鳴った。
時刻は夜の十一時。
宅配便にしてはありえない時間のため、私は警戒しながらドアの覗き穴から来訪者を確認する。
そこには六十代くらいの女性が立っていた。
メガネを掛けたその女は、長い髪を丁寧に後ろでまとめ、ベージュのワンピースの上から藤色のカーディガンを羽織っていた。
「あの……、なんでしょうか?」
初めに考えたのは宗教の勧誘だ。
地域のチラシに紛れて、たまにポストにそれらしき案内が入っているのを思い出した。
「
見知らぬその人物からフルネームで呼ばれた私は、一瞬動揺する。
アパートの表には表札なども出していないため、どこで自分の名前を知ったのかと不信感が募った。
「あの……。どちら様でしょうか?」
ドアを閉めたまま恐る恐る問いかけると、予想だにしない答えが返ってきた。
「どちら様って……。アナタの彼氏の母親ですよ」
――え? 誠くんの?
どうして付き合ってまだ一か月の彼氏の母親が尋ねてきたのだろうかと困惑しながら、私はゆっくりとドアを開けた。
「もう。待たせすぎよ」
ドアを開けるなりその女は玄関に入り込み、そのまま靴を脱いでずかずかと部屋に上がり込んできた。
すれ違う際に、彼女のつける香水だろうか、強烈なバラの香りがツンと鼻奥を刺激してきた。
「ちょ、ちょっと……」
身勝手な女の振る舞いに戸惑いながらも私は彼女の後を追うように奥の部屋へと向かった。
「ふーん、なるほどねぇ」
部屋に入るなり隅から隅まで舐めるように見回して、女は一人呟いた。
正直、あまり良い気はしなかったが彼氏の母親とあっては強くは出れない。
「あの……、今日はどうされたんですか?」
台所の棚や冷蔵庫を不躾に開けて観察している女に向かって恐る恐る問いかけた。
「ん? そりゃ大事な息子がどんな人と付き合ってるか気になってよ」
こちらを向きもせずに女が答える。
女が部屋をうろつくたびにキツイ香水の匂いが襲ってくる。
むせそうになるのを我慢しながら、私は「はぁ」と曖昧に答えた。
正直、この時点でヤバイ母親だということは感じていた。
「あ、あれ。うちの子のプレゼントね」
女が指さしたのはベッドの付近に置いてあった有名キャラクターのぬいぐるみだった。
二人で行ったゲームセンターで二千円もかけてようやくゲットしたものだった。
――誠くん、そんなことまで母親に報告してるの?
付き合っている男の正体がマザコンだったことに軽く衝撃を受ける。
「ところで、今日は話があって来たの」
女が許可も得ずにベッドに腰掛ける。
後でファブリーズをかけまくろうと私は思った。
「話、ですか?」
私は部屋の真ん中に突っ立って、女に聞き返す。
「アナタ、浮気しているそうね」
ここでようやく女と目が合った。
どこか空洞を思わせるような黒目が、私の姿を捉えている。
私はなぜかその目を見た途端、背筋が寒くなるのを感じた。
「う、浮気なんてしてません! 私は誠くんだけ――」
――バン!
私の言葉を遮るように女がベッドに自分のカバンを叩きつけた。
「――誠くん、ですって?」
女の表情がみるみるうちに憤怒の色に染まっていく。
歯をきつく食いしばり、こめかみには血管が浮き出ている。
私はその怒りの意味が分からずただただ困惑してしまう。
「そうです! 私が好きなのは誠くんだけで浮気だなんて――」
「アナタの彼氏はユウくんでしょうがぁぁぁぁ!!!」
突然浴びせかけられた大声に私は身体をびくんと揺らす。
「な、は? ……え?」
「やっぱり浮気していたのね、このアバズレ女がぁぁぁぁっ!」
女が勢いよく立ち上がり私の首を絞めてきた。
私は女の手を掴みながら必死に抵抗する。
「アナタの彼氏はユウくんだけでしょう! ユウくんがどんな気持ちで毎日毎日アナタのことを見ていたと思っているのよ!」
女の顔はもう正気を失っていた。
目は血走り、ぎりぎりと力を込めて私の首を絞めてくる。
――ユウくん? 誰? 毎日見ていた?
意味の分からない状況に私の頭はパンク寸前だった。
しかし、このままでは本当に殺されると思った私は最後の力を振り絞り、女を蹴り飛ばした。
ベッドに背中を打ち付けてもんどりうっている女を横目に見ながら、私は部屋を飛び出した。
最寄りの交番に飛び込むまでの記憶は曖昧だった。
女性警察官の人が震える私に優しくブランケットをかけてくれた。
部屋に駆け付けた警官によると、女はすでに姿を消していたそうだ。
――しかし、問題はこの後だった。
警察が調べてくれた結果、私の部屋からは三つの盗聴器と一つの小型カメラが見つかった。
カメラはぬいぐるみの中に隠されていたそうだ。
あの女が言った「うちの子のプレゼント」とはこのことだったのだ。
あの日以降、私は普通に道を歩くことが出来なくなった。
少し歩くたびに振り返り、辺りを見回すようになった。
――毎日毎日アナタのことを見ていた。
女の言葉が頭の中でぐるぐる回っている。
そしてさらにやっかいなのは、花の香りを嗅ぐとパニックを起こしてしまうようになったことだ。
あの女のキツイ香水の匂いが未だに私の心に染みついて離れてくれない。
そしていま、私はここにいる。
鳥越総合病院、精神病棟。
――307号室が、いまの私の部屋だ。
深夜の来訪者 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
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