12 幽霊が叫ぶ
それは本当に突然のことだった。
なのに彼の体は突き飛ばされて、階段の方に転げ落ちた。
驚き怯えたように見開かれた目が、横顔が、一瞬で視界から消える。
僕は反射的に駆け寄った。
「ウルフ!」
彼は階段の半ばほどで、ルーサー刑事に抱えられていた。無事だ。ここで僕はようやくセーフティーネットの意味を理解した。彼はこうなることを予期していたのだ。
知らぬ間に詰めていた息を吐く。まだ心臓が変な音で暴れ回っていた。
ウルフもまた大きく息を吐いて、ルーサー刑事の手を借りながら姿勢を正した。
「――などと、思い切り侮辱すると怒りだすわけです。見えましたか?」
問われたルーサー刑事は、目を思いきり泳がせていた。ちょっと離れている僕でもわかるくらいはっきりと泳いでいる。どちらかというと溺れているような感じだった。
その状態で、
「……み……見えた……」
喉の奥から絞り出すようにそう言った。
「見えた……赤い、服の……手だけ、確かに、見えた……いやでも、あれは!」
「証明になりましたか?」
ルーサー刑事は黙ってしまった。
「おそらく、何らかの理由で今のように怒りを買ったのでしょう。ちょっと悪態をついたのを勘違いされたのかもしれません」
いつものクールな口調に戻って、ウルフはゆっくりと階段を登ってきた。
「そういうわけです、サマーヘイズ警部。ジョナサン・ジュールとマックス・アンドリューズは元々仲が良くなかったのでしょうね。その辺りの話は、すでに聞いていらっしゃるのでは?」
「ああ、聞いてるよ」
「でしたら、アンドリューズが彼の名前を出したのも納得がいくのでは? 自分を突き飛ばすような人物、他に心当たりはなかったのでしょう。あるいは、そう思い込むように悪霊によって操作されたか」
元の場所に戻ってきて、ウルフはにっこりと笑いかけた。
「とにかく、事の顛末はそういうことだと思われます。私から言えることは以上です。まだ何かありましたら、いつでも聞きにいらしてください」
「……よく分かったよ、坊ちゃん」
サマーヘイズ警部はにやりと笑って、ウルフの肩に手を置いた。
「まぁアリバイの再確認くらいはさせてもらうけどな。さすがに、報告書に“悪霊が突き落としました”とは書けねぇし」
それから彼はぼそりと「足、養生しろよ」と付け足して、階段を下りていった。
二人の姿がすっかり消えてしまうと、
「こんなところですかね!」
ふぅ、と大きく息を吐いて背を伸ばして、ウルフが快活に笑った。それで僕らはようやく緊張の舞台から解放されたことを知る。本番は終わった。ウルフは約束を守った! 誰からともなく、わぁっ、と歓声が上がって、次の瞬間ウルフはもみくちゃにされた。
すっかり乱された髪の毛を器用に結び直しながら、ウルフはジョナサン・ジュールの部屋の床に座った。なんだか後始末があるのだと言う。その場にいるのは部屋の主とフィービー・クームズ、それと僕だけだ。
ウルフは僕に
「先に帰っていていいですよ。もう遅いですし」
と言ったのだが、僕は断った。ここまで付き合ったのだ、今さら途中で帰るなんて。それに、ウルフはさっき階段を落ちた時に、足首をひねっていた。痛む素振りは見せていないが、いつもの三分の一くらいのスピードでしか歩けないでいる。その彼を放っておくわけにはいかなかった。
そう言うとウルフは「覚悟してくださいね」と意味深なことを言った。何だよ覚悟って。怖いな。
「ではまず、妖精を追い払いましょう」
「妖精?」
「ええ」
眉を顰めたジュールに、ウルフはいつか刑事さんたちにした説明とほとんど同じことを繰り返した。
「最近、喧嘩が長引いたり、いつもなら気にしないことでも苛立ったりしませんでしたか?」
「そういえば……」
心当たりがあるような感じで、ジュールもクームズも頷いた。
「もちろん、そういうもののすべてがすべて妖精のせいと言うわけではありません。体調の変化や季節的なもの、ストレス、いろいろな要因が考えられます。その中の一つに妖精がいるというだけです。だから、常に妖精を疑うのはやめてくださいね」
ウルフの口調は一段と柔らかくて、慈愛のようなものが感じられた。
彼は床にチョークで魔法陣を描いた。三角と四角と丸、それと三つのアルファベット(O,C,H)で出来た図形。誰でも描けそうなほど簡単で単純なのに、なぜか僕には絶対に描けないと思った。似たようなものは出来たとしても、明らかに何か足りないものになるに違いない。
「窓を開けてもらえますか」
ジュールが黙って従った。窓を全開にする。すかさず冷たい風が吹き込んできてカーテンを翻した。僕は首を縮める。帰りはかなり寒そうだ。
ウルフは膝立ちになって、祈るように手を組み合わせた。
「小さき方々は月の御許に、小さき方々は花の根元に、小さき方々は風の舳先に、小さき方々は鳥の毛先に。太陽が昇れば朝が来る。月は去り花は枯れ風は吹き鳥は鳴く。太陽が昇れば夜は終わり。月は眠り花は目覚め風は揺れ鳥は飛ぶ。ゆりかごが落ちて赤子が泣く。その前に小さき方々よ、どうか静かにお帰りください」
唱え終えて、彼は手を解くと、陣に向かってふっと息を吹きかけた。
そこから後のことを、僕はいつ思い出しても興奮で眠れなくなる。吹かれた瞬間、チョークの白い粉が魔法陣の形を保ったままふわりと浮かび上がった。それは一瞬で金色の光に変わって、ぐるぐると竜巻のように渦を巻きながら部屋中に散らばった。ジュールの慌てふためく声。クームズの悲鳴のような歓声。僕はただ声を失って、金色の竜巻の中できゃらきゃらと笑う、誰のものでもない声を聞いた。甲高い少女の声――
「もういいですよ。窓を閉めてください」
はたと我に返ると、金色の光はすっかり消え去っていた。何も残っていない。床に描かれていた魔法陣も。ジュールがおぼつかない手つきで窓を閉めた。
「さて、次です」
「次?」
「はい」
僕は今見た魔法にすっかり興奮していた。寒さだって忘れていたくらいだ。だから、ウルフが憐れむような目付きになったことに気が付かなかった。
「この寮には
「へぇ……」
急に部屋の温度が下がったような気がした。窓は閉まっているのに。僕は寒気を誤魔化すように、思い付いたことを尋ねた。
「それじゃ、さっき君が刑事さんたちに話したことは、まったくの嘘だったわけじゃないんだね」
「私は嘘はつきません」
ウルフはゆっくりと立ち上がり、今度は椅子の上に魔法陣を描き始めた。僕のいる場所からはその模様は見えなかった。
「刑事さんたちにお話ししたことは、すべて本当のことです。寮の歴史的背景、悪霊が人間の足を引っかけるケース、すべて事実です。ただし、アンドリューズを突き落とした犯人に関しては、
そう言われて、僕は脳内の(そう性能はよくない)ボイスレコーダーを巻き戻した。再生――可能性があります、思われます、かもしれません――本当だ。覚えている限りでは見事に断定を避けている。なんてやつだ。
「あくまでミス・クームズのことを知らないという体で話をするなら、あの説明が最も合理的だと判断しました」
「君、きっと凄腕の詐欺師になれるぞ」
思わずそう言うと、「褒められたのだと思っておきますよ」と軽く睨まれた。
「さて。問題はこの後です。レディ」
ウルフに見られて、クームズはびくりと肩を震わせた。
「アンドリューズを突き落としたのも、厳密にはあなた一人の力ではなかったのだと思います」
「え?」
「アンドリューズと喧嘩になって、もみ合っているはずみで突き落としてしまった、と言っていましたね」
クームズははっきりと頷いた。
「ですが体格差から考えると、それはそんな簡単なことではなかったように思います。もちろん、お互いそうとう不運だったということで済ませてもいいのですが」
それからウルフは少し口ごもった。
「口論の最中、アンドリューズは何か、こう……口汚いことを言ったり、
「……したわ。何度も、思いっ切り」
「それが半ば原因になったかもしれません。なにせかの幽霊は聖人の魂ですので、そう言うことに関しては絶対に許せないのでしょう。結界が緩んだことで、彼らも少し活発に――」
ウルフは不意にぎゅっと眉を歪めて、中空を見やった。
「――失礼。言葉を間違えました。結界が緩むという一大事に奮起して、この寮を守ろうとしていらっしゃったようです。だから、物理への干渉能力、いわゆるポルターガイストという現象ですね。それが人を突き落とせるまで強くなったのだろうと思います――ポルターガイストではないですね。ええそうです、おっしゃる通り、奇跡です奇跡。失礼しました」
彼の言動は明らかにおかしかった。僕はおずおずと口を出した。
「あの、ウルフ……何か、いるの……?」
ウルフは僕の方を見てにっこりとした。僕は途端に、悪ガキにいじめられる蟻の気分になった。
「幽霊の見える見えないは人によって様々です。ルーサー刑事は見えやすい人。サマーヘイズ警部は見えにくい人。君も見えにくいのでしょうね。あなたは見える方では?」
と、ジュールに話を振る。ジュールは顔面を蒼白にしていた。それがすでに物語っている。見えているのだ。幽霊が、ここに、いる!
「ルーサー刑事を納得させるために、本当に突き落とされてみせる必要がありました。そのためにわざと聖人君子を怒らせました。その彼から、私たちにお話しがあるそうです。では、誰の目にもはっきりと映るように、お呼びしますね」
そう言うなり、ウルフは椅子の前に片膝をついてこうべを垂れた。何事か小さく呟いているが、僕の耳には聞き取れなかった。それよりも、どこからともなく聞こえてくる謎の破裂音の方が気になった。パチンッ、バチンッ! と、空気を叩き割るような音が、四方八方から聞こえてくる。心臓がばくばくと脈打っている。怖い。これはよくない。怖い!
――この後のことを、僕はいつ思い出しても眠れなくなる。
恐怖で。
「ひぃっ!」
バチンッ、とひときわ大きな音が聞こえたと思った瞬間電気が消えた。
暗闇に包まれた部屋に、青白く光る人影がぼうっと浮かび上がる。彼は椅子に座っていた。古めかしい赤い衣装を身にまとっていた。長いあごひげがあった。大きな杖を持っていた。
そして――腐り溶けた眼窩から、眼球がぶら下がっていた。それだけでももう卒倒ものだ。それに加えて、半分以上歯の抜けた口がガパリと開いたと思ったら、
『貴様ら、そこへ直れェェッ!』
恐ろしい声にぶん殴られた。音量とかそういう次元を超えた、謎の衝撃波みたいなものに脳味噌が揺さぶられて。
僕は声も出せずに倒れた。
だから彼らがどんなお説教をされたのか、後になってもまだ知らないままでいる。(聞くのも恐ろしくて聞けていない。)
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