6 深淵の底を覗き込め
翌日の昼休み。僕は重たい目をこすりながら、パソコンの前に座っていた。昨夜はまったく寝付けなくて(昼間あれだけ寝てたんだから当然なんだけど)、夜通し考え事をしていたのだ。
マックス・アンドリューズ。彼を階段から突き落としたのは誰か? 現場で目撃された赤い服の人間は誰だ? この寮に来た彼はなぜルームメイトの名前を隠した? ウルフが犯人だとしたら、どうなる? 本当に彼が呪いをかけていたら? 僕が寝ている間に寮を出ていって、アンドリューズを突き落としていたら? 呪いはかけていなかったとしても、かけたと疑われた腹いせに、という可能性は?
どれだけ考えても仮説すら立たなかった。疑問点ばかりがぐるぐると同じ場所を巡っていて、まったく建設的じゃない。情報が足りないのだ。たぶん。きっと。
大学には早速、『魔法使いが殺人未遂をしたらしい』という噂が広がっていた。
僕がルームメイトだと知っているやつは、僕ごと遠巻きにしたり、反対にずけずけと聞き込みにきたりした。
――なぁなぁロドニー、お前のルームメイト、人殺しなんだって?
そこまであけすけに言ってくるやつは一人くらいだったけど、要約すれば誰の質問も皆同じようなものだった。
僕が何て答えたか? 知らないよ。その一言。知らないよ、僕は何も。彼のことなんか名前と顔と趣味以外何も知らないんだ。それってほとんど他人だろう?
そうやって機械的に答えるたびに、僕の心にはモヤモヤしたものがどんどん溜まっていった。
サマーヘイズ警部がウルフを疑わない理由。それが分かれば少しは気が晴れるような気がした。
といっても、これもまた情報があまりに少ない。二年前。父親。警察との接点になるのだから、たぶん何らかの事件。
本人に直接聞く気にはなれなかった。
それで今、パソコンの前に座ったのだ。
検索画面に打ち込む。
『二〇〇八年 事件 ウルフ』
こんな適当な検索で引っ掛かるとは思っていない。まぁ、駄目で元々、だ。何かあれば万々歳――とか思っていた僕は、真っ先に出てきた二年前のニュース記事を見て瞠目した。
『エイブラハム・ウルフ、殺害される』
「そうか、二年前で“ウルフ”っていうと、これか……」
この事件を僕は知っていた。いや、知らない人なんていないだろう。エイブラハム・ウルフ――英国トップを争う名俳優。十八歳でデビューしてから約三十年間、ずっと第一線を走り続けていた大スター。
その彼が突然、何者かに殺されたのだ。
もちろん大ニュースになった。連日のように報道がなされ、学校でも話題は尽きなかった。あまり映画や俳優に興味を持っていなかった僕でも、毎日ニュースを見たくらいだ。ちょうど世代で大ファンだった先生が何人かショックで寝込んだ。またその中に学校一怖くて冗談の通じない女教師がいたから、ものすごくびっくりしたのをよく覚えている。
『享年四十七才 犯人はいまだ捕まっていない 一説では魔法使いによる犯行とも言われている』
そうだ。珍しく魔法庁が会見を開いたのを記憶している。確かそこでは、魔法使いだとしても正規のものではない、とかなんとか、はっきりしないことを言っていたのではなかったか。それでキャベンディッシュ貴族院議員に非難されて、ばちばちの大論争になっていた記憶がある。
ページをスクロールしていく。事件の概要のあとに、エイブラハム・ウルフの簡単な経歴と写真が数枚載っていた。黒い髪に黒い瞳。オリエンタルですっきりとした顔立ち。イケメンというよりはハンサムって感じ。背が高くてスマート。絵に描いたような二枚目俳優。優しそうな微笑。ぶすっとしたふくれっ面。顔を歪めた冷笑。歯を見せた満面の笑み。悪役もヒーローも、スパイも魔法使いも、幅広く演じてみせた大俳優――
「あ」
――どくん、と心臓が跳ねた。
最後の一枚。カメラに向かって舌を出して笑っている壮年の彼は。
どこかで見たことがあるような、真っ赤なロングコートを着ていた。
もう一つ気になっていたことを調べてから、パソコン室を出た。向かう先は図書館だ。
彼はいつものように、テーブルの隅を占拠して本を読んでいた。着ているのは鮮烈な赤色のコート――間違いない。形も完全に一緒だ。
改めてその横顔を見ると、エイブラハムにそっくりだった。なんで気が付かなかったのか、よく分からないくらい似ていた。眼鏡と髪形のせいだろうか。確かに印象は違うけれど。でもやっぱりよく似ている。
二年前。父親。魔法で人を傷付けない理由。
それは、お父さんが――エイブラハム・ウルフが殺されたから?
広い図書館にはそれなりに人がいて、みんなあの赤いコートをちらちらと見ながら通っていった。噂は広がっていく。本人の意思も、事実とも関係なく。ひそひそ話が全部彼のことを話しているように思えてきた。不安と懐疑の渦。
ウルフはその中心に座している。
厭味な注目が集まっているのに、彼の横顔はどこまでも静謐だった。彼の背中はピンと伸びていた。冷たくて近寄りがたくて、自信に満ちていた。まるで鋼鉄の鎧をまとった騎士。一人で立って歩いていける。誰の助けもいらない。何も怖くない。そんな声が聞こえてくるような気がした。渦ごとすべてを飲み込むブラックホール。彼の前では悪意と善意に差などない。
僕はずっと、彼の近寄りがたさは魔法使いだからだと思っていた。魔法使いで普通の人間と違うから、無用な交流を避けるようにしているのだろう、って。
向こうは隠したがる。
こちらは関わりたくない。
互いに距離を取り合って、そうして彼を近寄りがたい異質な存在に仕立て上げた。
でもその態度が本当は、父親の死を土台にしているものだとしたら?
魔法使いであるかどうかなど、関係なかったら?
『私は魔法で誰かを傷付けるようなことはしません。――絶対に』
僕は唇を噛んだ。踵を返す。
夜になって部屋に戻った。ウルフは珍しくベッドに寝転がって本を読んでいた。彼は僕の方をちらりと見て、すぐに本へ目を戻した。
僕は紙袋をデスクの上に置いて、座った。
深呼吸を一つ。
「なぁ、ウルフ」
彼が本から目を離したかどうかは定かでない。彼の顔を見ながら話す勇気はなかったのだ。その代わりに耳を澄ませる。
「なんですか」
やや間を開けての返事は、いつもよりわずかにトーンが低いようだった。
唾を飲み込む。
「君のお父さんって俳優のエイブラハム・ウルフ?」
沈黙。沈黙に鼓膜を破られそうだと思う日が来るなんて。喉が渇く。胃が軋む。さっき食べたばかりのミートパイがブラックホールへ飲み込まれたみたいだ。そして僕自身も。
ギシ、とベッドが鳴った。ウルフが起き上がったのだろう。
それからさらに沈黙が。僕は何度瞬きをしたか分からない。何だかずーっと目を瞑っていたようにも思えるし、ひっきりなしに開閉していたようにも思える。
ええ、そうです。
小さな肯定が聞こえた。それを皮切りに、流星群みたいに言葉が流れ落ちてきた。
「君が言った通り、私の父はエイブラハム・ウルフです。俳優をやっていて、二年前に殺された、その人です。そうか、そうですね。調べれば出てきますよね。サマーヘイズ警部が余計なことを言うから――いえ、すみません。隠したかったわけではないんです。もちろん、無闇に知られたくないというのはありましたが。明るい話題でも、楽しい思い出でもないので」
剣をめったやたらに振り回しているような、いや、剣に振り回されているみたいに思える速い口調だった。
それから彼は鼻で軽く笑った。
「それで、それを知ってどうするんです?」
言葉が一気に色と温度をなくす。流れ星は燃え尽きた。星の燃え滓。
「ネットにでも流しますか? 週刊誌に売りますか? ああ、それなりに良い値段が付くでしょうね。エイブラハム・ウルフの息子が殺人未遂の容疑者になっている、なんて!」
「そっ」
スコンッとバケツの底が抜けたような感じがした。
「そんなことするわけないだろう?!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。いつの間にか立ち上がっていたし、振り返ってもいた。ウルフはベッドに腰掛けていた。わずかに目を広げている。相変わらず怖いくらいに黒い瞳。でも今の僕はそんなもの何も怖くなかった。
だって、そんなことするわけがない。彼の情報を売るなんて!
許されるならば殴ってやりたい気分だった。そんな馬鹿なことを考え出して僕に当てはめた彼の頭を、思いっ切り! けれど僕の平和主義がそれを許さなかった。
息を吐きながらゆっくりと座り直す。
「ごめん。大声出して」
「……いえ」
ウルフはゆるりと首を振って目を伏せる。
「悪いのは私です。言い過ぎました。申し訳ありません」
「あのさ」
僕は椅子に逆さまに座って、出来るだけ軽い口調になった。持ち上がった瞼の向こうの黒い瞳。僕はもう目を逸らさない。
「聞いてほしい話がある。君の意見を聞かせてくれよ、ウルフ」
「意見、ですか?」
「そう。マックス・アンドリューズ転落事件について」
彼は意外そうに眉を持ち上げた。僕は笑って言った。
「黙ったままでいるのは駄目だよ。一緒に、君の潔白を証明しよう」
平和主義者だってこれぐらいのことはするべきだ。自分の安穏な生活を守るために。そうだろう?
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