赤の行方

ひよこネコ。

[1]

 今まで一切恋愛とは無縁に、平々凡々と過ごしてきた大輝たいきは、高二でとうとう彼女を作った。それも学園のアイドル的存在で容姿端麗、成績は学内トップ、生徒人気は高く、学級委員長でもあり教師からは厚い信頼を得ていた。そんな者が、なぜ全項目標準レベルの大輝と付き合うことになったのか。

 それはクラスメイトの彼女から、放課後に倉庫整理を手伝って欲しいと頼まれた事がきっかけだった。整理は数日かけて行うこととなり、その五日目の事である――


 壁伝いのラックには分厚いファイルが無造作に並び、床にはゴタゴタと段ボールやワゴンが嵩張る。

 一段落ついた茉莉奈まつりなは脚立を降りると、仕分けをする大輝の元へ歩み寄り


「いつもありがとう、大輝君。おかげで捗っちゃった」


 と、黒く艶やかな長い髪をふわりたゆたせ、ニコリと大輝の顔を覗き込む。大輝は清純な顔に見惚れつつ


「あっあぁ、このくらい別に。俺で良かったらいつでも」


「本当ありがとね。あれ、なんでそんなに顔赤いの?」


 大輝はサッと顔を背け


「えっ、そんなことないだろ、気のせいだよ」


 よもや片思いの相手が近くにいるからなどと言える訳もなく、慌てて誤魔化す。

 茉莉奈はそろりと顔を寄せ


「こっち向いて。熱あるかもしれないよ? 私が見てあげる」


 額をピタリと合わせた。

 大輝の鼻をくすぐる甘い香り。ふわり優しく頬に触れる細い黒髪、目先にはふっくらした胸元が飛び込む。

 大輝は一瞬固まるが、ビクッと慌てて距離を取り


「えっ!? だ、大丈夫だって!」


 裏返る声で、心臓の鼓動が喉まで上がってくるのを堪える。茉莉奈はシュンとした顔で


「あっごめんね、驚かせちゃったよね」


 と苦笑する。大輝は視線を泳がせたまま


「あ、その違くて。何て言うか……それより帰る支度するか」


 茉莉奈は頰に垂れる髪をすくい


「そうだね。何か、時間早く感じちゃうなぁ」


 と、部屋の片隅にあるカバンの元へ歩いていく。大輝はホッと下を向き


(マジでドキドキした。くそ、勘違いしそうな自分が情けない……)


 やるせなく項垂れ、足元のカバンを拾おう屈むが


 ――ガシャン!


 と、けたたましい音。振り向くと床の上では、倒れた脚立に足を挟まれる茉莉奈の姿。


「っおい大丈夫か!」


 慌てて駆け寄り脚立を起こす。茉莉奈は苦笑して


「ごめんね。引っかけちゃったみたい」


「それより怪我は?」


 と茉莉奈の背中に手を回し、起き上がるのを手伝う。


「うん、大丈夫だよ。ありがとう」


 と床に手をつくが


「痛っ!」


 と胸元に手を寄せ声を上げた。


「えっどした!?」


 胸の前で開く手の平からは、細く赤い線が手首に延びる。床にはカッターの刃が転げていた。


「マジか。さっき片付けてた時に……ちょっと見せて」


 と、茉莉奈の手を取り傷口であろう指先を吸い、自分のハンカチにティッシュを重ねて巻いた。


「よし、たぶんこれで止ま……」


 そこで言葉を詰まらせた。指を舐めてしまった事に羞恥心を覚えたからだ。


「っごめん! 小さい頃からの癖でその、つい……気持ち悪かったよな」


 自分の失態に肩を落とす。キョトンとしていた茉莉奈は目を細めて


「ううん、嬉しいよ。だって私のためにしてくれたんでしょ、ありがとう。でも、ふふ……ちょっとドキッてしちゃった」


 恥ずかしそうに指先で口を隠す。その可愛らしい仕草に見惚れつつ


「あぁ……なら、良いんだけどさ」


「凄いね手際よくって。尊敬しちゃうな私……」


 大輝を食い入る様に見つめる。大輝はあわあわとして


「あはは、ありがとう。そんな褒められると、俺みたいなのは勘違いしちゃうからさ、止めた方が良いよ」


 すると茉莉奈は不意に大輝の手を取る。そして二呼吸分の静寂が包み


「ねぇ大輝君。実は私、ずっと前から大輝君のこと……好きなんだ」


 大輝は思考停止に陥ったが、グッと我を引き戻し


「それっ、友達的な意味……だよな、あはは」


 茉莉奈は首を左右にふるふるして


「違うよ、異性としてだよ。だから少しでも一緒にいたくって、お手伝いも頼んだの」


 そして唖然とする大輝の手を、両手で包み自分の胸へと持っていく。


(へ……!? ま、まじかよ)


 大輝は失神寸前だった。茉莉奈は目を瞑り、俯き気味に


「私ね、初めて見た時に一目ぼれしちゃって……いつも明るくて皆に弄られても笑顔で対応して、自分のせいじゃないことで先生に怒られる時も素直に謝っててて、そんな闊達な姿がとっても素敵だなって思ったんだ」


 大輝は思った。嬉しいことだが、それは単純に俺が不器用なだけだと。


「だからね。倉庫のお手伝いの他に、もう一つお願いがあるんだけど……聞いてくれる?」


「お、おね、お願い……もちろん」


 茉莉奈はキリリとした目になり


「あのね、私と付き合って欲しいの……! お願いしますっ」


 大輝の手を握り締める。大輝は凄まじい高揚感の波に飲まれながら


「ほんと、に? え待って俺で良いの? 本当に?」


 茉莉奈は強く頷き


「大輝君ともっと一緒にいたいの。彼女にさせてくれないかな?」


 大輝は狂喜乱舞スしだす心をグッと落ち着かせ


(いやいや……答えなんて決まってるじゃんか。断る奴この世に存在しないだろ)


 と思いつつ、こちらこそお願いします、とその申し出を受け入れた。これが付き合うきっかけである――


 それからは毎日一緒に待ち合わせて登下校。付き合い始めた事は校内にあっという間に知れ渡った。

 これに大輝の取り巻きは皆、羨ましがったり応援したり。対して茉莉奈の場合、周囲は一様に茉莉奈を心配した。大輝に向けられる女子の目線はスズメバチ状態。これが俗にいう身分格差である。

 しかしそんな逆境など大輝にとっては、痛くも痒くもない。毎日が充実していたからだ。

 あれから、弁当は茉莉奈が毎日手作りし、屋上で二人で食べている。休みの日にはショッピングに映画、カラオケなど種々様々に遊び尽くし、大輝の心は常に満たされていた。


 ――そして今日。大輝は初めて茉莉奈の家に赴くこととなり、茶菓子を用意すると出ていった茉莉奈を、部屋で待っているところだ。

 ちなみに茉莉奈は両親が海外赴任のため一人暮らし。大輝も出張尽くしの親を持つため、実質一人暮らし状態。これは二人の共通点ともなり、より相互理解を深める形ともなっていた。

 初めて女子の部屋に入ったことや、密室である事が相乗し、ガチガチに緊張する大輝。


(どうしよ、手汗やば。まさかちょっと良い感じにとか……いや何考えてんだ俺――)


 深呼吸で落ち着かせ、グルリと見やる。勉強机は綺麗に本が収まり、きちっとペンケースなどが隅で重なる。ベッドはふわりとした雰囲気で、枕元にはぬいぐるみ。

 そして不意に目に飛び込んだのは、開きかけの引き出しからチラリと出た紙切れ。大輝は好奇心に動かされ、恐る恐る引き出しのもとへ。


(……まだ戻って来ないか。ちょっとだけなら)


 と引き出しを開けてみると、そこには以前巻いてあげたハンカチが綺麗に畳まれている。他には、箸やスプーンがギッシリ入ったクリアボックスにノートが数冊。


(返さないで良いって言ったけどわざわざこんなとこに。なんで使用感あるカトラリーがこんなに……あれ、ノートに俺の名前ーー)


 好奇心に負け、中をペらりとランダムに捲ってみると


『十月五日

 どうしよう、大輝のこと見てるだけで幸せ。いつもお弁当食べてくれる度にドキドキしちゃうよ。よしっ明日も頑張って作るぞ!』


(これ日記か。いつも指怪我してまで作ってくれて、感謝しかないな)


『十月十三日

 今日はすっごく嬉しいことがあった。大輝が私の膝の上で寝てくれた! すっごく幸せ。寝顔も好きになっちゃった』


(あっそうだ、あの時つい屋上で。恥ずかしかったな……)


『十月二十日

 今日も素敵だったなぁ、大輝がいない人生なんて考えられない。結婚してくれるって言ってくれたのが凄い嬉しくて、今日はたぶん眠れなさそう。お弁当のおまじない効いてるのかな』


(そういえば勢いで言ったんだっけ、夜景見に行った時。にしても……おまじないって何だ)


『十月二十八日

 今日、嫌なことがあった。坂本が大輝の事悪く言った。許さない許さない許さない。許さない!!』


(え……坂本ってあの生徒会の。転校するっていきなり消えたけど。にしてもこれ――)


 その異様な殴り書きが違和感を与えた。


『十一月五日

 やっと大輝がキスしてくれた! もう一生忘れられない。私は何でもする、大輝のためなら死んだって良い。

 大輝は全てを愛してくれる。私はもっと愛してあげたい。ずっとずっと。

 お弁当のおまじないの効果じゃない、きっと運命だよね』


 先ほどと違う脈を感じつつ頁を送る。


『十一月十七日

 大輝との邪魔してきた。あの子嫌い。前から嫌だったけど、なんであんなに大輝と仲良いの。大輝との時間を邪魔する奴は皆嫌い嫌い嫌い嫌い大嫌い!

 大輝のこと教えてくれたけどもう要らない、バイバイ』


 大輝はあの子に心当たりがあった。幼馴染の真衣が、ついこの前不登校になり連絡が取れなくなったのだ。


(嘘だろ。まさか何か関係し――)


 そこで足音が聞こえるので、慌ててノートを引き出しに。


(あ、さっきの紙切れが……)


 と落ちた紙切れを拾うと


「……っえ」


 弁当レシピが書かれていたのだが、その中の素材欄に目を疑った。


「何だ赤いお薬って――」


 そこでガチャリと扉が開く。大輝はビクッとなり背後に紙切れを隠した。


「お待たせ、色々持って来ちゃった」


 と、机にお菓子やグラスの乗ったトレーを置く。大輝は引き攣った顔で


「あ……あぁありがとう」


 すると口元を柔らかくして


「どうしたの? そんなところにずっと立って。これ、美味しいよ一緒に食べよ」


「あぁ……えと、ちょっとトイレ借りてい?」


 すると首を傾げ


「さっき行ったばかりだよね? どうしたの、気分悪いのかな、顔色も悪そう」


 と、不安げな顔でゆっくり歩み寄る。大輝は後退りして


「あっそうだったっけか、その……」


 あたふたする大輝の唇に茉莉奈の人指し指が触れた。そっとなぞるようにして


「っふふ……見たんだね? 良いんだよ、隠さなくって」


 と微笑む。大輝の呼吸は一気に浅くなった。


「いやごめん。見るつもりなかったんだけど……つい」


「いいの。わざとだもん。せっかくだから知って欲しかったの、どれだけ私が大輝の事愛してるか……」


 と虚ろ気な目で口元を凝視する。そして這うような視線が大輝の目を捉える。


「大輝が口付けた食器洗えなくって、ずっとしまってるんだ。わざと怪我して、構ってくれた時に貰ったハンカチも。思ったより深く切っちゃって痛かったけど。おかげで大輝と近づけた……」


 大輝は生唾を飲み


「え……ど、どういうこと」


「あ、今握ってるそれ。レシピ、気になったかな……?」


 バクンと心臓が音を立てる。手の中で湿った紙を握り直し


「いや、何て言うか、お薬ってなんだろ……みたいな」


 すると茉莉奈はデスクの上の文具箱からハサミを取り出した。


「へ……何、やってんの?」


 そして自らの指に刃先をサッと通す。大輝は呆然と手を宙で浮かせ


「っおい……なにして――」


 茉莉奈はニコリと笑い、その指を顔の前で見せながら


「ふふっ、ほらこれ赤いお薬。半年間ずっとお薬を飲んでもらうと、夢が叶うって聞いたから。

 でも……もう必要ないかも。叶っちゃっうから。っふふ、今からするんだよね? いいよ、したいようにして……」


 と言ってボタンを外し始める。大輝は一瞬固まったが、慌ててその手を掴み


「おい待てよ、やめろって――」


「っふふ、こっち来て……」


 と、ベッドへ手を引っ張る。大輝はその手を振り払い


「やめろって! どうしたんだよ――」


 茉莉奈は優しげな顔で振り返り


「もう結婚できる歳だよ私。もっと大輝が欲しいの」


 と深い瞳を半分閉じ、微笑みを浮かべた。大輝は恐る恐る出口に歩みつつ


「あの、ごめん。体調悪くなってちょっと今日は……」


「待って。何で、私のこと褒めてくれたよね。可愛いって、綺麗だって。何か足りない……?」


 縋る目つきで歩み寄る。


「いや、そじゃなくて……」


 とドアに伸ばした手は茉莉奈に握られ、そのまま指が口の中へ。生暖かい感触が指を包む。


「男の子って、こういうの好きなんだよね? 私なんでもするよ?」


 背筋を凍らせた大輝は瞬時に振りほどき、バタバタと部屋を出て階段を降りる。


(嘘だろ……もう訳わかんねぇよ!)


 玄関のドアを開けようとするが、ガタンと音を立てるのみ。


(そっか内鍵……どこだ鍵)


 と慌ててサムターンを二つ回すもまだ開かず。


(くそ、他にも。どこだ、はやーー)


「どこに行くの……?」


 と背後から抱き着かれる感触で全身が総毛立ち、思わず悲鳴を上げて振り向く。


「分かった。じゃあ私の気持ち、もっと教えてあげるね」


 そう言って大輝の手に包丁を握らせ、自分の手を重ねる。


「は……やめろよ何これ」


 包丁を手放そうとするも、強く両手で上から握られて離せず、茉莉奈の胸の付近で彷徨う。


「私死ぬほど大輝のこと愛してるんだよ。だからもっと証拠見せてあげるね」


 と満面の笑みを浮かべ、自分の体をグッと大輝に押し付ける。大輝の手に伝わる異様な生々しい音と感触。


「うあ嘘だろ……!」


 カタンと金属音がなり、ドサリ……と音が立つ。横たわる茉莉奈の腹部と自分の手を染めた真紅を目にして


「やってない……俺じゃない。こんな……うあぁぁ!」


 ☆


 翌日。大輝は失意を纏い学校へと歩いて向かった。

 昨晩は一睡もできず、ひたすら寝床で包まり震えるばかり。頭が狂いそうになるまで何度も何度も……あの真っ赤な床と柔らかいものを突く感触が脳内だけでなく全身に再現され……骨の内から凍える恐怖を与えて来たのだ。

 周囲に生徒は歩いていない。既に登校時間は過ぎている。大輝は光を失った目でよろよろと塀の囲う一本道を歩きながら


(なんで……なんで通報しなかったんだ俺。これじゃまるで――)


 当時は動転して救急を呼ぶなど考えられず。家に戻り考えはしたが、いまさらかけて意味があるのかと恐怖が勝ってしまい……時間が経つ程、沈黙すべきという考えに支配されていったのだ。


(どうする……俺どうすれば――)


 すると背後から


「おはよう、大輝。ずっと待ってたよ」


 と聞き覚えのある声。大輝はゾクっと立ち止まり


(え……この声。嘘だろ……そんなまさか)


 恐恐として徐に振り向くと……そこには制服姿の茉莉奈がいた。


「どうしたの、そんな怖い顔して。大丈夫?」


 と両手で後ろにカバンをぶら下げたまま首を傾げて歩み寄る。大輝は呆然として


「なんで……? 茉莉奈、だって昨日……夢?」


 すると大輝の手を取り


「昨日は驚かせちゃったよね、ごめんね。でもほら、本当だよ」


 そう言ってシャツをひらりと捲り、腹部の包帯を見せる。じわりと赤かった。


「じゃ、あ。どうして……」


「ふふっ、急所は外したの。凄く痛かった。でもこれで分かってくれたかな? 私は本当に愛してるんだよ」


 大輝の頬に柔い唇が触れる。茉莉奈は呆然自失の大輝の手を、そっと引きながら


「ほら遅刻だよ。早く行こ、今日もお弁当作ってきたの。食べてね」


「……あぁ、うん」


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