「辻沢日記 32」(鬼子のエニシ)
社殿の奥から戻って来るとき、しゃべる大人は帆布生地で出来た布団袋を引き摺っていた。
そして部屋の隅に立てかけたあった片手帚で埃が立たないように床を払うと、開いた布団袋の上に中の一組の布団を敷き、
「今日はここで寝てね」
と言った。
ユウとあたしは理由を説明されるのを待ったが、しゃべるオトナは、
「ごめんね。それは答えられないわ」
ユウが二人だけかと聞くと、
「あたしもここにいるわ」
と答えた。そしてしゃべる大人は、
「さあ、お布団に入りなさい」
と言うと燭台の灯を消し片手帚の立てかけてある社殿の右手の隅まで行き、そこにそのまま端座した。
布団はこの日のために用意されていたものか、冷たくはあったが黴臭くもなくふかふかで心地よかった。
社殿の外では虫の音が単調に響いていた。
格子戸の隙間から差し込んだ月の光が床を照らしていて、何か分からない小さな生き物が蠢いているのを映し出す。
格子天井の不気味な模様がぞわぞわと動いて見える。
そのうち、いつものようにユウが先に寝息を立て始めた。
それを聞いてあたしも眠りについたのだった。
夜半に目が覚めるとひどい汗をかいていた。
ユウもあたしと同じように寝苦しいのか、早い呼吸をしていて握っている手がジトッとしている。
あたしは半身を起こしてユウの顔を見た。
ユウは目を閉じていてまだ寝ているようだったけど顔色がひどく悪く見えた。
肌が透き通るようで血の気がなくなっていた。
射しこむ月の光のせいかとも思ったけれど、そうではないようだ。
息も荒くなっている。
あたしはユウの名前を呼んで肩を揺すってみた。
ユウが目をゆっくりと見開いた。
その瞳は金色をしていて、あたしをギュッと睨みつけた。
あたしが息をのんで身体を固くすると、ユウが布団を蹴って飛びし去り、その勢いで社殿の天井にへばりついた。
そのユウを暗がりの中でよく見ると、その姿はすでに化け物に変わっていた。
あたしはあの日のことを思い出した。全身血に染まったあの公園のことを。
そして恐怖。
あの時はたまたまあたしは殺されなかった。
それをオトナはエニシと言ったけど、今はそんなものを信じることなどできなかった。
ユウの金色の眼はあたししか見ていなかったから。そしてその目は確実にあたしを屠らんとする眼だった。
刹那、ユウは天井を蹴ってあたしに飛び掛かってきた。
真っ赤な口を目いっぱいに開いて銀色の牙であたしの喉笛にかぶりつこうとした。
あたしは死ぬんだと思った。
あの時に死ぬはずだったのが今やって来たと覚悟した。
ところが、ユウの動きが突然止まった。
ユウはあたしに跨ったまま苦しそうに背を逸らしてもがいている。
もがきながら口の周りを手でまさぐって何かを取り除こうとしている。
よく見るとユウの口に赤い糸が猿轡にように絡みついていた。
その糸の先はユウの背後でしゃべるオトナが手で引き絞っていた。
しゃべるオトナは、その赤い糸をゆっくりと手繰りはじめ、化け物のユウを自分の元に引き寄せると一瞬でユウの体を糸車のようにぐるぐる巻きにしてしまった。
社殿にころがった赤い糸巻きの化け物がうめき声をあげていた。
しゃべるオトナが、
「こっちに来なさい」
あたしに向かって言った。
あたしは怖くて足がすくんで立てなくなってたので、しゃべるオトナのいる社殿の隅まで両手でずって近づいた。
その時、右手に違和感があったけれどそれが何かすぐには分からなかった。
「薬指を出して」
言われるままに薬指を差し出すと、
「そっちじゃないわ。右手よ。この子のことを握っていた方の手の」
そう言われて初めて自分の手がユウの手を握っていないことに気が付いた。
右手の違和感はこれだったのだ。
右手を差し出すと、掌にがっつり付いたユウの手形のところが、まるで生まれたばかりの赤子のようにふやけて白かった。
しゃべるオトナは左手に握っていた血のように赤い糸の端をあたしの薬指に括り付けた。
そして、右手に握った赤い糸の端を赤い糸車から出ているユウの、やはりあたしの手形で白くなった左手の薬指に括り付けた。
すると、その赤い糸は霞のように消えてしまい、糸巻きの中から気を失った、もとの姿のユウが現れた。
あたしがしゃべるオトナに、
「あなたは誰?」
と聞くと、
「鬼子使いよ。あなたもこれからはそう呼ばれるわ。そしてこの子は鬼子。この子とあなたとは永遠のエニシを結んだわ」
と言った。
そのしゃべるオトナが紫子さんだった。ただし紫子さんはオトナの仲間ではなかった。
久しぶりの夕霧物語の額絵馬は塗料の剥落が広がった気がする。
彩色も色あせたんじゃないだろうか。
その中で胡粉で塗られた夕霧太夫の白い顔だけが際立っていて、それがユウの透き通るような肌に重なって見えた。
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