「辻沢日記 31」(鬼子の分岐点)

 出発してから山道をずいぶん走った後、峠道の途中で車を降りた。


そこは舗装された道から山道へ入る所で、ここから歩いて行くと言われた。


同行はユウとあたしとしゃべるオトナの3人だけだった。


 しばらく行くと鳥居が見えた。


鳥居の上にカラスが止まっていて、カカカ、ココ、カカと語りかけるような声で鳴いている。


それを見上げながら鳥居の下をくぐり抜けようとしたら、突然右腕を引っ張られて転びそうになった。


見るとその鳥居は3本柱で道の真ん中の一本にユウの左腕が引っ掛かっていた。


そして柱の向こうからユウがいたずらっぽい目であたしを見て、


「ボケっとするな」


 と笑った。


鳥居をくぐり直しユウのいる側に回ってユウの左腕を見ると、二の腕の内側がこすれて赤くなっていた。


「ごめんね」


 と謝ると、またユウは笑った。


 ひたすら山道を行く。


整備されていない道を登るのは、子供のユウとあたしにはとても辛かった。


張り出した根っこに足を取られて何度も転んだし、グラグラ揺れる敷石のせいで足を挫きそうになった。


日も暮れてきて、足元はいっそうおぼつかなくなって進むに進めず、鬼子神社に着いたころには、辺りは真っ暗になってしまっていた。




 大学生になった今、久しぶりに来た鬼子神社の社殿はあの頃のままだった。


床に積もった埃の上に誰かが付けた足跡がいくつも残っている。


最近はやりの心スポ(心霊スポット)ハンターのものだろうか、新しい足跡もある。


そんな人でなければこんなところに近づくわけがない。


でも、この荒んだ場所こそがユウとあたしとの原点にして分かれ目なんだ。




 あの時、ユウとあたしはしゃべるオトナが鍵を探しに行っている間、社殿の階の前でしばらく待たされた。


暗闇の中、これから何が始まるのか不安しかないあたしに、いつもは無口なユウがたくさん話しかけてくれた。


それであたしは少し落ち着くことが出来た。


ユウに促されて深呼吸をした時、境内のすり鉢の底から見上げた夜空がとても明るかったのを覚えている。


「やっと見つかった」


 と鍵を持って現れたしゃべるオトナが階を上り社殿の鍵を開けて中に入った。


すぐに中で火が灯り階の下も明るくなった。


呼ばれて中に入ると、そこは祭壇のようなものもない、ただただ埃と土の匂いがする打ち捨てられた家屋のようなガランとした空間だった。


空間の真ん中に燭台が一本立ててあってユウとあたしはその燭台の下の埃っぽい板間に座らされた。


それから、しゃべるオトナは背にしたナップザックからアルミホイルで包まれた大人の握りこぶしくらいある丸いもの数個と魔法瓶を取り出して、


「お腹すいたよね。これ食べて」


 と言った。


 アルミホイルの中身は思った通りおにぎりで、中はどれもが塩にぎりだった。


「海苔、嫌いだよね」


 そうなのだ。


ユウもあたしも海苔の海の匂いが大嫌いだった。


そのことをしゃべるオトナが知っていることにユウとあたしは顔を見あったけど、すごくお腹がすいていたので気にせず一人で3つずつ平らげた。


 食べ終わって魔法瓶の麦茶を飲んでいると、しゃべるオトナが、


「あなたたちにとって大事な話をします」


 と言って立ち上がった。


それまで朗らかにしていた表情を硬くして、手に持った木の枝で鴨居の上の額絵を指した。


そして、これまで何度もそうして来たのかのようにある遊女の話を訥々と語りだした。


 薄汚れた、お世辞にもうまいとは言えない古臭いやまと絵。


しゃべるオトナが木の枝を少し強く当てただけで塗料なのかそれとも板面にこびり付いていた埃なのか、何かがパラパラと床に落ちて来る。


そのパラパラという音を聞いているうちに、いつの間にかあたしはⅤRヘッドセットを被っているかのように物語の中にいた。


 伊左衛門はあたしであり、全ての出来事はあたしの身に起こったことだった。


 火はあたしの心を焼き、水はあたしの肌を癒した。


 ヒダルの爪はあたしを恐怖に陥れ、夕霧太夫の微笑みはあたしを有頂天にさせた。


 そうだ、あたしはこの物語をずっと前から知っていた。けれど、それを人から聞くのは初めてのことだった。


 しゃべるオトナは夕霧太夫の物語を語り終わると、


「この話のことは知ってた?」


 と聞いて来た。


 ユウとあたしは言わずもがなの質問に憮然として頷いた。


それを見たしゃべるオトナは、表情を崩して笑顔に戻り、


「ちょっと待っててね」


 と言って社殿の奥に立ち去った。


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