私の影

神戸 茜

私の影

 夜子が悪い。

 変な髪型、変な話し方、暗い表情。地味で眼鏡なのに成績が悪いなんて、神様が設定をミスしたとしか思えない。

 朝美は教室の真ん中あたりの席から、窓際前方の席を眺めた。傷んだ髪と、丸まってずんぐりした背中が目に入る。見なければいいのだけれど、見てしまうのには理由がある。夜子の隣は陽太の席。陽太は、人当たりが良く優しくて、成績は真ん中くらいの親しみやすい人だ。彼氏として連れて歩くなら、もう少し見栄えがいい人がいいけれど、朝美は今のところ陽太が気になって仕方ない。

「では、隣の席の人と今の問いについて話し合ってみてください。」

 現代文の教師の呼びかかけが耳に入り、はっと顔を上げた。教室中がいっせいに話し声で騒がしくなる。朝美は隣の席をちらっと見たけれど、空席である。今日は隣の席の人は休みのようだ。

 朝美は再び、窓際の前方に視線をやった。夜子は前を向いたまま、首を縦に動かしたり、横に動かしたりして陽太の呼びかけに答える。

(陽太は優しいから、気持ち悪い子でも差別しない。)

陽太が何かを言ったとき、夜子が顔を陽太の方に向けて笑った。

 朝美は思わず顔をしかめた。

(気持ち悪い顔で笑うな。)


 休み時間、夜子が席を外している間に、朝美は陽太の席に近付いた。

「よっ。」

「よっ。どうした。俺の顔が見たくなったか。」

「馬鹿言うなー。」

 陽太君は朝美がゆっくりと突き出した拳をてのひらで受け止めた。

「そうか、隣の席の欠席が多くて寂しいんだな。かわいそうに。それで、元隣の席の俺が懐かしくなったわけか。」

「まあ、そういうことにしておいてやろう。ところで、数学の宿題やってきた?」

「それが目的だったのか。したたかな女よのう。」

「何キャラだし。どうせやってないんだろう。」

「うん、やってない。」

「だよなー。ところで、今の隣の席は大変そうだな。お互い頑張ろうぜ。」

「え、俺の隣は毎日来るので大変助かっているよ。」

「陽太君は優しいなあ。疲れないの。」

「いやいや、同じアーティストを好きだと知って、大興奮よ。配信されていないアルバムのCDを貸してあげたところだ。家から出したくないくらいの宝物だけど、きっと大事に扱ってくれると思うんだ。同志なのでね。」

「ふーん、そうかよ。」

 朝美は頭を振って、長い髪の先に指を通しながら机の間を歩いて自分の席に戻った。

 夜子の机の横に下がっている鞄を横目で見た。埃だらけの汚い鞄に陽太の宝物が汚されるような気がした。


 放課後、正門を出ようとしたとき朝美は机にスマホを忘れてきたことに気づいた。一緒に帰ろうとしていたクラスメイトのアキを呼び止めた。

「ごめん、教室にスマホ忘れた。取ってくる。」

「馬鹿だなあ、仕方ない、鞄を持っててやるよ。」

「ありがとう。行ってくるね。」

「幽霊に気をつけろよ。」

「心霊写真か。バズるかな。」

 そんな会話が冗談にならないくらい、校舎の中は人がいなくて不気味だった。夕暮れ時の校舎は色の濃い光に照らされて、むしろ、完全に日が暮れた後よりも見通しが悪い。

 アキに着いて来てもらうべきだったと後悔しながら教室にたどり着くと、まっすぐに自分の席に向かった。机の中を探ると、スマホはすぐに見つかった。

 ほっとして、アキに「あった」とメッセージを送った。

「よかった」

「幽霊は……」

 アキはすぐに返事をくれた。

「撮れたらインスタにあげるわ」

 朝美は無表情のまま返事を送信して、

「いいね♡」

 というアキの返事に既読をつけると、画面をロックしてスマホのライトを点けた。

 ライトが偶然、夜子の鞄を照らしたのに気づいた。

(あの中に、陽太君のCDがあるんだ。)

 朝美は好奇心を抑えきれずに鞄に近付いた。カーディガンの袖を引っ張って、ニット越しに鞄の持ち手をつまんだ。そして、2本ある鞄の持ち手のうち1本を、鞄掛けから外した。ライトで中を照らすと、CDが見えた。朝美はアーティストの名前だけ確認するつもりで、CDを鞄から取り出した。

 そのとき、廊下で物音がした。朝美は慌ててCDを鞄に仕舞おうとして、床に落としてしまった。教卓の下に滑り込んだCDを拾おうと身をかがめたとき、夜子の鞄の中で、何かが光った。ライトを向けると、それは人形であった。学校の制服を着て、長い髪をした女の子の人形である。光ったのは、その人形のビーズでできた両目だった。

「なんで人形何か持ってきてるんだよ。気持ち悪。

 来なくなればいいのに。」

 そう呟いて顔を上げたとき、ちょうど夕日が沈み終わるところだった。教室の隅のオレンジの光が消える瞬間、そこに、長い髪の女の姿がぼおっと浮かんだ。

 朝美が息を飲んで後ずさったとき、廊下の電気が点いた。足跡がして、今度は教室の電気が点いた。ぱっと明るくなった教室に、もう、女の姿は無かった。

「ごめんなさい。」

 代わりに姿を現したのは、夜子だった。

「何謝ってるの。」

「いえ、なんでもありません。」

 夜子に比べたら幽霊の方がましだ。朝美はそう思いながら教室を出ようとして、教卓の前を通りかかった。教卓の下には、CDが落ちている。

 朝美は黙って帰ろうかという意地悪な気持ちをこらえて、それを拾い上げた。

「あなたの鞄、床に落ちてたから荷物を拾っておいたよ。これも、あなたの?」

 夜子は、片方の紐だけで鞄掛けにぶら下がっていた鞄を持ち上げた。

「すみません。私のです。」

 受け取ろうと差し出された夜子の手は、すべての指にささくれがあるみっともない手である。朝美は少しでも距離を取ろうと腕を伸ばしてCDを手渡した。夜子の指が朝美の指に触れそうになって、朝美はぱっと手を離した。夜子はCDを受け止めきれずに、床に落としてしまった。角が床に当たって、ケースにヒビが入るのが見えた。

 朝美は泣きそうな夜子をそのままに、教室を後にした。

 (来なくなればいいのに。)

 朝美は再び、心の中で強く念じた。


「インスタ更新されなかったぞ。」

 正門で待っていたアキは笑いながら鞄を朝美に手渡した。

「ありがとう。幽霊よりも嫌なものに会ったぜ。」

「何よ。」

「夜子。」

「あはは、どうしてそんなに嫌うかなあ。」

 アキはからからと笑い声を立てた。

 朝美は、アキとつるむのが好きだ。さっぱりした明るい性格はもちろん好きだが、きちんとお手入れをした肌と清潔感のあるショートボブが大好きだ。

 体型が似ているところも好きだ。朝美とアキは同じくらい身長が高くて、脚も同じくらい細い。美容情報も共有しているから、遊びに行きたい場所も、食べたいものも似ている。

 朝美はアキと並んで歩いているとき、どんなに見栄えがするかと考えると誇らしい。


 夜は少し寒い。一人になって暗い住宅地を歩いていると、夕方に見た女の幽霊が思い出されて不安になった。朝美は急ぎ足で家路を辿った。

「ただいまー。ごはん。」

「おかえり。」

 キッチンから、母が答える。

「外、寒かった?」

「うん、普通。」

「普通じゃ分からんわ。もう食べるでしょ。お母さんはお父さんを待つけども。」

「常識でしょう。遅い時間に食べるとデブになるもん。」

「はいはい、じゃあ、準備するね。」

「着替えてくるわー。」

 朝美は階段を上って自分の部屋に入り、荷物を片付けた。ブランドのロゴが入った部屋着に着替え、栗色のストレートヘアを結い上げて食事に向かった。


 翌朝、朝美はいつもどおり遅刻ぎりぎりで教室に入り、自分の席から窓際前方に目をやった。そして、陽太の隣の空席に気づいた。

 やった、夜子が来ていない。念ずれば通ずというやつだ。

 夜子の欠席の理由は、帰宅途中の怪我だそうだ。朝美は浮かれた。朝美の隣の席は今日も欠席だ。鞄を持って、陽太の隣の席に移動した。

「やあ、元お隣さん。そちらも今日は1人じゃないですか。」

「やあ、やあ、お互いなんとか乗り切りましょう。」

「まあ、そう言わず。今日一日よろしく。」

「仕方ないなあ。」

 朝美は今日の授業で使う教科書などを机の中に入れることにした。ノートを机の奥まで押し込むと、何かやわらかいものにノートの先がぶつかった。丸まったプリントでもあるのだろうかと机の中を覗くと、昨日、夜子の鞄の中で見つけた人形と目が合った。

「ひゃっ。」

「どうした。クモでもいたか。」

「ううん。見間違いだった。」


 放課後、朝美は教室に人がいなくなったのを確認して夜子の席に近付いた。曇り空がどんよりしているが、まだ陽のある時間である。朝美は机の中の人形を指先でつまみ上げた。

「気持ち悪い。ずっと来なければいいのに。」

 そう言った瞬間、朝美は背筋が寒くなって、昨日のことを思い出した。急に、厚い雲が太陽を隠して教室の中が暗くなった。

 見ないぞ、と意識しても、思わず教室の隅に視線をやってしまった。そこには、昨日と同じ髪の長い女の姿があった。

 朝美は声も上げずに教室から逃げ出した。


 帰り道の途中で、朝美は駅のゴミ箱に人形を捨てた。

 夜、シャワーを浴びるとき朝美はさすがに少し怖かった。

 (あれはきっと、あの教室についている霊だから、私には関係ない。)

 自身にそう言い聞かせて、朝美はシャワーを済ませた。丈の長いトップスにショートパンツを身につけて脱衣所を出ると、すぐに自分の部屋に上がった。

 お風呂上りは朝美の大事な時間だ。きれいな両脚に好きな香りのオイルを塗り、ストレッチをする。脚の手入れが終わったら、今度は頭に巻いていたタオルを取って、毛先にトリートメントを塗り、ドライヤーで乾かす。

 いい香りに包まれて、心地よく夜の時間を過ごすのだ。


 翌日も、夜子は来なかった。

 朝美は喜んで陽太の隣の席に座った。

「今日もお世話になります。」

「おお、わざわざお越しいただいて、大変ですね。」

「ええ、長旅でした。」

 (陽太となら、一日中冗談を言い合うことができる。毎日隣でおしゃべりしていたい。)

 朝美は、次に思ったことを口に出してしまった。

「このまま夜子が来なければいいのに、ね。」

 陽太君はそれを聞いて、急に表情を険しくした。

「そんなことを言ってはいけない。それに、ずいぶん腫れが引いたから、明日からは学校に来ると言っているよ。」

「夜子と連絡をとってるの?」

「ああ、同志だからね。」

「そうか。」

 朝美の気持ちは暗く沈んだ。嫌な気持ちを振り払おうと頭を振り、揺らした髪の毛先を指でもてあそんだ。


 その日の帰り道、朝美は足取り重く歩いていた。

 (明日から夜子が来る。それだけではない。朝美といるのが楽しいはずの陽太は、夜子なんかと仲良くしている。そんなに友達の趣味が悪い人だとは知らなかった。

 やっぱり、趣味の合う友達はアキだ。)

 シャワーとお手入れを済ませた朝美は、アキにメッセージを送った。

「何してる?」

 返事はすぐに帰ってきた。

「めずらしいね。夜に連絡来るの。」

「前のクラスのクラス会@マクド」

 続いて、画像が送られてきた。

 アキの目線でテーブルの上を撮影した画像だった。

 それを見た途端、朝美は思わずスマホを床の上に伏せた。

 そして、おそるおそる画面を見た。

 机の上に置かれた食べ物のトレーの間に、あの人形がいた。


 翌日、朝美はいつもより少しだけ早く学校に着いた。

 昨日の人形のことをアキに聞きたかった。

(アキ、早く来い、早く来い。)

 教室の入口を見ていると、アキの明るい笑い声が聞こえた。

 朝美は立ち上がってアキの登場を待った。

 アキは、夜子と並んで歩いていた。びっこを引いて歩く夜子の鞄を持ってやり、転ばないように背中に手を添えている。

 アキのすらりと長いきれいな脚の隣で、夜子のむくんだふくらはぎが醜く動く。

「おう、おはよう朝美。今日は早いね。」

「おはよう。」

 朝美は呆然としたまま、挨拶を返した。

 アキが夜子の机の上に鞄を置いてやると、夜子はお礼を言った。

「昨日からありがとう。元気出たよ。」

「礼には及ばない。ずっとクラス会したかったし。」

 昨夜のクラス会で、アキは夜子と遊んでいたのだ。

 朝美は、言いようのない怒りに支配された。


 休み時間に夜子は机の中を何度も見た。

 陽太が夜子に声をかけて何か話し合った後、朝美の方にやってきて、

「あの机の中に、人形があったらしいけど、見てない?机の中に教科書入れたりしてただろ。」

「知らない。結局、机の中は使ってないし。」

「そっか。手芸部で作ってた人形が無くなったんだって。」

「へえ。」

 興味がなさそうにスマホに視線を落とす朝美に、陽太は言った。

「ことの重大さを終えてやろう。あの人形は手芸部員が分担して作っているのだよ。パーツごとに担当して完成させる。つまり、誰かが紛失すればそれ以前のパーツを仕上げた他の部員の労力が無駄になるわけ。」

「じゃあ、同じものがいくらでも作れるってことじゃん。」

「全く、言っても分かんないならいいや。」

 陽太は朝美に背を向けた。

 朝美はその背中をちょっと見送ってから、うつむいて髪を振った。

 (私は悪くない。)

 朝美は膝の上で揺れる髪の毛先に指を通した。


 帰り道、朝美は歩きながら昨日の画像を開いた。

「ほんとだ。」

 よく見ると、朝美が処分したものと同じ人形だが、胸にネクタイが付いていない。夜子の担当以前のパーツを任された部員が、クラス会のメンバーにいたのだろう。

「あーあ。」

 朝美はため息をついた。

(今日は最悪だった。アキには期待を裏切られるし、陽太君にもがっかりだ。全部、夜子が悪いんだ。)

「私の前から消えろ。」

 足元の石ころを蹴飛ばした。石は、T字路に突き当たって止まった。石の行方を目で追っていた朝美が正面の壁に見たのは、例の髪の長い女だった。前よりもはっきりとした輪郭で姿を現している。同じ学校の制服を着ているのまではっきりと見える。

(教室から、着いてきたの?)

 朝美は、ぞっとして走り出した。この角を左に曲がればすぐに家だ。朝美は一目散に家の中へ飛び込んだ。

「ただいま!」

「おかえりなさい。どうしたの。」

 玄関で座り込む娘を見て母は心配した。

「何でもない。着替えてくる。」

 朝美は部屋に入って、床に鞄を置いた。

 制服のまま、鏡の前に立って自分の姿を確認した。すらりと綺麗な外見は、日々の努力の積み重ねでできている。何の努力もしていない人が、朝美の好きな人たちに親切にされるのは不平等だと思った。

「目障りな女。」

 そのとき、どどーんと、大きな音を立てて雷が落ちた。部屋の明かりが消える。

(停電か。)

 暗い部屋の中で、朝美は女の姿を発見した。

 女は、長い髪の間から、じとっと嫌な視線を向けてくる。

 足が震えて、逃げることもできない。

 落ち着け、落ち着け。

 女が頭をゆらゆらと動かし、長い髪の毛先に指を通した。

 朝美は部屋から逃げ出して、階段の途中で足を滑らせた。階段を転がり落ちながら、朝美はついに気づいた。

(あれは、私だ。

 飾った表面の反対側にある、私の影なんだ。)

 朝美は床の上で目を見開いて、不気味な視線を持つ醜い女を直視した。

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私の影 神戸 茜 @A_kanbe

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