知らない果物

@takahashinao

知らない果物

 熱っぽくて早退した学校からの帰り道。

 僕は1人で通学路を逆戻りしていた。

 どうして体調の悪い子どもが1人でいるかというと、今、僕の家には腰痛持ちの祖母しかいないからだ。

 一応、学校側も、母の勤め先にも連絡してくれたようだったが、「ちゃんと帰るのよ」と念押しされただけで、1人、校門から送り出されたのだ。

 今考えるとおおらかな世の中だった。


 寒い。いや、暑い。

 顔や目元はカッカしてるのに、首の後ろはゾクゾクする。風は冷たく乾燥していて、マフラーを口元まで引き上げた。

 潤んだ目で見上げた空は紙みたいに真っ白だった。

 僕はとにかくいつも以上にぽうっとしていた。


 いつも通っている道は子どもたちの姿がないだけで様変わりする。

 僕の住む地域では通学路がピンク色で舗装されていて、はっきりと子どもの世界が区別されていた。

 子どものための世界に主人がいないような感覚になった。


 僕はこの町で生まれて育った。

 商店街という活気にあふれたものはなく、チェーン展開するスーパーといくつかの飲食店、洋菓子屋と本屋、靴屋、100円均一店が合わさった小さなモールがあるだけの住宅地だ。

 田んぼもなければ、川も山もない。

 よく音楽の時間に歌うふるさとの曲には出てこない町。

 大きな自然はないから、きっと町のあれこれは速いペースでなくなっていくのだろう。

 僕はこの変わりゆくことが決まっている町をいつか本当に故郷と呼べるのか不安だった。


 最近はすでに僕の周りもなんだか微妙に変化しているようだった。

 お化粧なんてしていなかったのに、最近は赤やピンク色の爪で仕事に行く母。

 一緒に外で追いかけっこをしていたはずなのに、今は動くたびに腰や膝を痛そうになでる祖母。

 外に行けばいつでも会えた幼なじみも、習い事で忙しくなってしまった。

 学校の友だちも、クラスメイトというだけで楽しかったのに、その中で遊ぶ仲間を分け始めていた。


 寂しかった。


 時間さえ前に進まなければ、こんな思いしなくて済んだのに。

 僕はこのままを望んでいた。何よりも望んでいた。


 しばらく無意識に歩いていると、辺りが妙に静かなことに気がついた。

 人がいない。誰ともすれ違わない。

 子どもはもちろん大人とも、野良猫とも。そういえばカラスやスズメの鳴き声もしない。

 熱のせいで注意力が散漫になっているのか。

 それとも、感傷に浸っていたからそう感じるだけなのか。


 自分の浅い息づかいと鼓動だけが耳をつく。

 ハッハッハッハッハッ…。

 どくっどくっどくっどっどッドッドッドッド。

 気がついたらピンク色の道を全力で走っていた。


 家にたどり着くには、通学路を外れて、細い石畳の短いスロープを上り、いくつかの団地の棟の脇を通り過ぎる必要がある。

 スロープを全力で駆け上り、1つ目の棟を通り過ぎたとき、見慣れたトラックが目に入った。


 よかった、いるじゃん、人。


 近所で1番ひらけた駐輪場の脇に、移動販売の八百屋のトラックが停まっていた。

 そして、駐輪場の前の石のポールに八百屋のおじさんが腰かけていた。おじさんの定位置だった。


 おじさんは筋肉質でがっしりとした身体つきで、身長は低い。声は地下から響くような低さで、しゃがれている。

 態度もぶっきらぼうで見た目と同じくらい怖い印象だけど、野菜に付けるブランドシールが余ると近くにいる子どもにくれるので、意外と子どもから好かれていた。


 おじさんは僕を見つけると驚いた顔をして、珍しく近づいてきた。

「おい。どうした、こんなとこで」

 2時間目を終えた後しばらくしてから学校を出発している。

 確かに子どもがうろつくには変な時間帯だ。

 だけど、おじさんが指摘しているのは〝こんな時間‘’ではなかったことが耳に残った。

「しんどくて」

 僕は頭がうまく回らず、言葉がそれしか出なかった。

 すると、おじさんは僕の額に大きな手のひらをあてて、

「熱あるんか。そうか」

 と納得した。


 見知った人と会って気が緩んだようで、目まで回ってきた。

 早く帰ろうとおじさんの手から離れようとしたとき、おじさんは僕を見て言った。


「今、相当しんどいんやろうなあ。でもな、とにかく動き続けろ。動かない水は淀んで腐る。まだそこに集まるもんになるな」

 正直なところ、意味はわからなかったが、僕を気遣ってくれたことだけはわかった。

 うん、とだけ返事をしたら、おじさんは僕の頭に分厚い手のひらをボフボフと乗っけて薄く笑った。進もうと思った。


「ちょっと待ち」

 行こうとすると、おじさんはこれまた珍しく僕を引き止めた。

 そして、野菜が積み上がっている木箱の上から見たこともない青緑の果物を取り出し、僕に差し出した。

 そういえば、いつものトラックだが、載っている野菜や果物はいつもと違うようだった。

「これ食べ。気分が良くなる。特別に無料や。周りには内緒やで、僕も私もってなるからな」

 そう言ってニッと笑った。

 これもやろか、と見たことのないブランドシールをくれた。恐らく僕にくれた果物のシールなのだろう。

 僕は改めてその果物を見た。鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、みずみずしく青臭かったが、確実な甘さも漂っていた。初めて見た食べ物だが、たぶん果物だった。


 表面はすべすべとざらざらの中間。

 皮をむくのかもわからない。

 おじさんは、がぶっといけと言って、目を細くして笑った。

「もうすぐお客が来る。食べたら、はよ帰り。気をつけてな」


 思いっきりかぶりついてからの記憶が僕にはない。


 それからも八百屋はいつもどおり来ていた。おじさんは定位置に座っていた。

 おじさんと僕や僕らの距離感は変わらなかった。

 そして、数年経って、あのトラックを見かけなくなったことに気づくくらい、ひっそりと来なくなった。

「おいさん(おじさん)ももう年やったで。お店閉めたんかもしれんね」

 いまだに忙しい母も髪に白いものが目立つようになった。

 八百屋の話を聞いていた祖母も寂しそうに笑っていた。

 僕はあの頃から比べると図体が大きくなったが、中身はいつから大きくなるのだろうと少しワクワクしている。

 でも、これからも変わらないかもしれない。

 そのことが怖くなると、あの時、おじさんからもらった果物のシールを取り出して眺めることにしている。

 僕はまだその果物の名前を知らないし、どこでも見かけたことはない。

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