6.5−10 教えてくれ
「お部屋はまでは距離がございましょう。こちらの空室をご利用ください」
「ええ、ありがとう」
甲板露天風呂での騒動からしばらく。エルシーと仲間の騎士は、ひとつ下の階にある静かな客室へと案内されていた。
「着いたわよ、リンさん。少し休ませてもらいましょ」
「……」
頭から酒をかぶったリクスンはフラつく足でなんとか自立しているものの、今だにうなだれて黙している。背の高い彼を反対側から支えてくれているのは、“たまたま”湯の定期管理に来たという従業員の男だ。狐面から飛び出した大きな黒い三角耳は気になるが、彼の手を借りなければ湯に沈んでいた仲間の身を整えることは不可能だっただろう。
「お布団に横になるお手伝いをしても?」
「はい、お願いします。あたしは、どこかからお水を――」
「もう係の者を呼びつけておりまする。ああほら、やってまいりました」
男の言葉通り、廊下の奥から急いで銀色のカートを押して向かってくる他の従業員の姿が見える。部屋の中へと運ばれていく仲間から目を離さないようにしつつ、エルシーは見覚えのある恰幅の良い従業員に手を挙げた。“ユノハナ満喫つあー”で世話になった女だ。
ぷるぷるとしたピンク色の肌を震わせ、女は深々と頭を下げる。
「奥様っ! この度は大変なご迷惑をおかけいたしまして」
「い、いいのよ。きっと何かの……ヘンな事故だったんだし」
「旦那様のお加減は」
「少しぼーっとしてるわ。あまりお酒が得意じゃなかったみたい」
薄暗い部屋を心配そうに見遣り、女は水掻きのついた手をぱたぱたと動かして言った。水のボトルとコップが乗ったカートを指差しているらしい。
「こちら自由にお使いくださいませ。下段にはタオルなども入っております」
「助かるわ。あと悪いんだけど、“白滝の間”にいる仲間たちに状況を伝えてくれる?」
「ええ、ええ、もちろんでございます。明日の朝には合流できると、しっかりお伝えしておきますとも」
「へっ!?」
「あら。今夜はご一緒に、この部屋にお泊まりになるのかと……」
「そっそんな不埒なことしないわよ!!」
思わず口から飛び出した反論がまるで“旦那様”と瓜二つのものになってしまい、少女はひとり赤面した。急いでカートから必要なものを取り、手短に礼を繰り返して部屋に飛び込む。
「!」
暗い空間からぬっと細身の影が現れ、エルシーはぎょっとして水差しの柄を握りしめた。狐面の従業員が涼しげな口元で微笑み、静々と礼をしている。
「ご用意、整いましてございます。ごゆるりとどうぞ」
「あ……ええ。彼の様子はどうかしら?」
「当旅籠の酒は少々、ヒトには刺激的だったのやもしれませぬ。どうか今夜はお気をつけくださいませ――と申し上げるべきところですが、貴女様には不要な忠告にございますな」
「どういうこと?」
音もなくエルシーの脇をすり抜けつつ、男は夜風のように軽やかな声を響かせる。
「そりゃあもう、酔った男というのは等しく皆けものになりまするから」
「けっ……!?」
「しかし貴女はすでに“奥方”であらせられる。心配するほうが不躾というものでございましょう」
「な、何言って――!」
声を裏返しつつエルシーは振り向いたが、男はすでに空になったカートに両手をかけていた。口元だけで愛想良く笑み、そつのない挨拶をして廊下の先へと消える。黒い尾が機嫌良く揺れていたように見えたのは気のせいだと良いのだが。
「もう。何なのよ」
不服を込めた呟きが、しんとした部屋に吸い込まれていく。エルシーは短く息を落とし、履物を脱いで座敷へと上がった。小さな間を挟んだ向こうで待っていたのは、二人客には余るほどの広さがある上品な部屋だ。
「素敵なお部屋ね……こんな時じゃなかったら、だけど」
休憩人を気遣ったらしく、明かりは小さな文机に置かれた蝋燭のみ。どこかに生花でも飾られているのだろうか、甘ったるい香りが鼻をくすぐってくる。草を編み込んだおなじみの床の中央に大きな布団が敷かれ、仲間が寝かされていた。
「寝ちゃったのかしら」
浴衣の裾を押さえつつ、布団の傍らにそっと膝をつく。豪華に切り取られた大窓から差し込む月光が、想い人の横顔を静かに照らし出した。もう苦しくはないのだろう、落ち着いた寝顔だ。
「ごめんなさい。あたしがもう少し、早く駆けつけてたら……」
エルシーの脳裏に、自分の姿をした何者かに言い寄られている想い人の姿が浮かんだ。なんの“演出”かは知らないが、あれは絶対にやりすぎだ。思えば自分の入浴中に現れた彼のニセモノだって――。
「〜〜っ!! あー、だめ! あんなの忘れなきゃ」
ぱんっと両手で頬を打ち、湯けむりの中で揺らめく男の幻影を追い払った。湯殿で戯れていた水の精霊が即座に騒がなければ、色々と危うかったかもしれない。そんな危機を想像したことにハッとし、エルシーはぶんぶんと頭を振った。
「い、いやいや、何が危ういってのよ!? あんなの、誰が見たって――」
「……」
「あっ」
金髪頭が突然、むくりと起き上がる。片手で身体を支え、もう一方の手を重々しく額に当てた仲間の背をさすり、少女は慌てた。
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「……いや、そうではない」
「大丈夫? 気持ち悪かったら言ってね。色々と道具を借りてあるから」
「必要ない」
「きゃっ!」
低い声と共に、エルシーの視界がぐるんと回る。痛みはなく、むしろ柔らかい上等な綿の触感が浴衣の背を包んだ。
「え……?」
天井の美しい木目を見、ようやく自分が布団の上に仰向けに倒れていることを知る。目を白黒させているうちに、見慣れた顔がその視界を独占した。
「俺にとって必要なものは、すでに揃っている」
未だ少し髪を湿らせた男――リクスンは、臆することなくそう呟いてこちらを見下ろした。自分の肩を掴んでいる手の大きさを意識すると、エルシーの頬が一気に熱を帯びる。
「り、リンさんっ!?」
のしかかっている訳ではない。しかし浴衣の裾は彼の膝によってシーツに縫いとめられていた。逞しい両腕は自分の顔の左右に突き立てられ、逃げ道を塞いでいる。少し身じろぎをすれば浴衣の裾から腿がはみ出てしまうことに気づき、エルシーはますます狼狽した。
「な、何してるの! ふざけないで――」
「至極真面目だ」
「えっ……」
月の光がなぞるように照らし出す、精悍な顔。誠実さを表すようにまっすぐと通った鼻筋の上で、琥珀色の瞳が熱っぽく燃えている。その輝きはつい先日、彼が命を賭して身につけたあの炎のように強く――。
「!」
思わず勢いよく顔を背ける。どたばたのせいで雑に束ねていただけの髪から留め紐が外れ、若葉色の髪が白い海の上に散らばった。
「よ、酔ってるのよね。リンさん」
「さあな……分からん。酒はあまり口にしたことがない」
「絶対そうよ! だから落ち着いて。きっと普段のあなたに戻ったら、色々」
「普段の俺とは何だ?」
「!」
眼前の手が床から静かに離れ、少女の髪のひと束をすくい上げる。エルシーは息をするのも忘れ、火傷が残る騎士の大きな手を見つめた。彼は手中にある緑色の輝きをしばし眺め、愛おしむように唇を寄せる。
「君の目に、俺は――どのような男として映っている?」
「リン、さ……」
「教えてくれ」
優しく髪を床に戻した男は、そんなささやきと共に顔を寄せてきた。呼応するように高鳴る心臓の音に、エルシーは胸の前に置いた両手をぎゅっと組み合わせる。
「あ、あたしは、あなたのこと……信頼、してるわ」
「それは……どのような?」
「っ!」
乱れて頬の上に落ちていた髪を器用に取り払われ、エルシーはびくりと身を震わせた。剣を扱うための太い指なのに、青年の所作は繊細だ。まるで特上の硝子細工を扱うかのような優しいその仕草に、少女の胸は甘い鼓動を打ち鳴らす。
「あなたは絶対に約束を、守るし……いつだって有言実行、だし……」
「そうだな」
「い、今だって、“騎士の規範”を守ってるから、あたしには指一本触れないし……」
「――そうか。なら」
どこかから舞い込んできた夜風が、ふっと机上の蝋燭の光を奪う。いっそう濃くなった闇の中で硬直したエルシーの耳に、ひそやかな声が届いた。
「俺が今から、その規範を破りたいと言ったら……君は幻滅するか?」
「!!」
身体をめぐる血が、一斉に沸騰してしまったような気がした。いつも瞬時に的確な言葉を紡いでくれる唇が、今は弱々しく震えだけを生み出している。彼の真意を確認したくとも、強い光を灯した瞳をまともに見ることはできなかった。
「そん、な……」
言葉と共に彷徨った視線が捉えたのは、浴衣から覗くしっかりとした身体だ。包帯を巻いていないその身体は頑強で、自分との性の違いを認識せざるを得ない迫力がある。エルシーはできる限り目を伏せ、必死に思考を巡らせた。
「や、やっぱりあなたは偽者だわ! あたしの知るリンさんは、酔いに任せて規範を破ったりしないッ!」
叫んでみて初めて、少女は自分が有望な論を立てたのではないかと思った。相手の動揺を確かめるべく、キッと青年の顔を睨みつけてみせる。すぐに黒い三角耳と尻尾が姿を現すはずだ――。
「本物かどうか……確かめてみるか?」
変わらずこちらを見つめる、真摯なまなざし。よく知っているはずのその瞳には、今まで少女が見たこともない艶やかな色が揺れている。彼の足が動き、浴衣が擦れる音が異様に大きく響く。
熱に浮かされたようにぐわんぐわんと揺れる思考が、本能的に救助者――精霊の姿を探す。しかし暗い部屋のどこにも、ひとつの光さえない。この部屋に入る前まではたしかに、ついてきてくれていたはずなのに。
「な、何を……する、の」
「怖がらないで良い。すべて俺に任せてくれ」
すがるように布団に押し付けていた顎をそっと持ち上げられ、エルシーはとうとう想い人の目から逃れられなくなった。
「んっ……」
偽者ならば全力で突き飛ばし、この状況から脱しなければならない。組んでいた両の指をぱっと放した少女だったが、その細い指は宙で迷うように震える。
でも――本物、だったら?
「リン、さん……」
どくん、どくん、と自分の奥から跳ねてくる音。先ほどから、これはどうしてこんなにも大きく鳴るのだろう。
怖いから?
緊張しているから?
――それとも。
「あたしは……あなた、なら」
「彼女から離れろ、この不届き者めがッ!」
「っ!?」
どがん、という鈍い音が響き渡り、エルシーは目を見開いた。同時に自分に覆いかぶさっていた影が、傍らにさっと飛び退く。
「リンさん――本物!?」
部屋の“フスマ”を蹴破って駆け込んできたのは、浴衣姿のリクスンだ。憤怒の表情をしている青年が思い切り突き出した拳を、布団に膝をついている人物が顔の前で受け止めている。
「うわっ、びっくりした。あーあ、耳出ちゃったじゃん」
それは先ほどまでエルシーに数々の言葉をささやいていたリクスンだ。しかしその金髪頭からはぴょこりと黒い三角耳が立ち上がっている。エルシーはがばっと身を起こし、顔を真っ赤にして叫んだ。
「やっやっ、やっぱり偽者じゃないーッ! 最ッ低!」
「さ、最低!? 一体俺に何をされたのだ、ホワード妹!」
「訊かないでよ馬鹿!」
「そーだそーだ。乙女にだって、隠したい欲望のひとつやふたつあるもんだぜ? フフ!」
「何だと、貴様――……っ!」
素早く窓まで辿り着いた偽者を追いかけるべく一歩踏み出した騎士が、大きくよろけて壁に手をつく。エルシーは羞恥を忘れて駆け寄った。
「リンさん!?」
「すまない、まだ身体が……」
「あのお酒のせいね」
「くそ……。これでは、明日からの任務に差し障るでは、ないか……」
「!」
こめかみを抑えて渋い顔をしている青年を見下ろし、エルシーは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。どういうわけか次に少女の唇に咲いたのは、小さな笑みだ。
「今度は、本物のあなたみたいね」
この間に“不届き者”はからりと軽い音を立てて窓を開け放ち、面白がるようにエルシーを見た。いつの間にか白い狐面を身につけた従業員の姿に代わっている。この部屋までついてきてくれた者とも、自分の浴場に現れた者とも違う。しかしおそらく甲板を去る頃には、本物の騎士と入れ替わっていたのだろう。
「もう、一体何人いるのよ!?」
「我らは九つの魂にして、ひとつの魂に等しく――なんてね。いいじゃん、キミにとっても、悪くはない時間だったでしょ?」
「な、何ですって! あんなへんな幻の、どこが」
「はてさて、本当に幻だったのでしょうか」
芝居じみた声音。しかしエルシーの胸はどきりと奇妙に揺れ、思わず口をつぐむ。
「そこに欲も望みもなければ、ヒトは夢を見ることすら叶わない。むしろ夢幻の中に浮かぶものこそ、時には真実たり得るとも言えましょう」
「……!」
胸の奥でざわめくその気持ちを隠すように、少女は浴衣の襟元を知らずと握りしめる。妙に満足した笑みを落とした狐男は、着物を翻して夜闇に溶けていった。
ずるずるという衣擦れの音に気づいて振り返ると、ついに床に崩れ落ちた想い人の姿が目に入る。
「去った……か」
「リンさん! さあ、こっちへ――本当に休まなきゃ」
大きな体を支え、中腰のまま布団へと向かう。無理に動いたのが堪えたのだろう、騎士の顔は酔いと疲れによって青ざめている。
「今までどこにいたの?」
「甲板露天の、脱衣所だ……。身なりは整えられていたのだが、記憶が混乱していてな……。だがしばらくして、君の精霊がやってきたのだ」
「!」
「ついてこいとばかりに飛び回るから、君に何かあったのだろうと……まだ、部屋の前にいるのではないか」
「あ……」
見れば、戸を失った入り口の向こうで心配そうに飛び回っている精霊の姿があった。こちらを見て嬉しそうに跳ねているが、入ってこない。まさか、とエルシーは室内を見回した。花のものだと思っていた甘ったるい匂いは、部屋の隅に置かれた陶器の置物から漂ってきている。どうやら精霊が嫌がる種類の香であるようだ。
「つまり、また嵌められたってわけね。もう、悔しい」
「すまない……俺が、ついていながら」
「ううん、あたしも迂闊だったわ。皆に遅れることは伝えてあるから、ちゃんと休んで――元の顔に戻してから、行きましょ」
「ああ……」
生真面目な彼は這ってでも主君の元へ向かうのではないかと危惧していたエルシーだったが、大人しく休むつもりなのを見て安心した。静かに横になっている青年の枕元に正座し、少女はぼんやりと窓の外を見る。
「綺麗ね……」
今日のすべての珍事を見ていた、丸い月。この夜空の女王がお喋りな口を有していないことだけが幸いだ。疲れた頭でそんな滑稽なことを考えていると、唯一の話し相手から小さな声で返事が寄越される。
「ああ……美しい、な」
「いつもより大きく見えると思わない? 空の旅って感じよね」
「いや……大きくは、見えないが……」
「リンさん?」
妙に会話が噛み合わない。首を傾げたエルシーに、騎士はのそりと緩慢な動作で身を捻って言い加えた。
「その着物は君に……よく、似合っていると思う」
少し赤らんだ顔を珍しく弛緩させ、青年はエルシーを見上げた。しばらく呆然としていた少女だったが、言葉を咀嚼してようやく驚く。忘れていた熱が、一気に身体を駆け上がった。
「なっ、えっ!? あ、あの、それ」
「今日のどこかで……言おうと、思っていたのだが……遅く、なった」
「まっ、まさか、また偽者――!」
「いいや……。これは、“配役”ではなく……俺の、本心だ」
もちろん酒の影響もあるだろう。あるいはやはり、この男も偽者なのかもしれない。しかし少女の心はぎゅっと音を立て、心地よく軋んだ。
「ほ、ほんと……?」
「ああ。今夜の君は……本当に――……」
「リンさん?」
「……」
そこで想い人のまぶたがすとんと落ち、言葉は静かな寝息に変わる。投げ出された彼の手、その薬指で月光に輝いたのは小さな仮初の指輪だ。
自身の薬指に光る同じ意匠の宝飾品――その輝きをそっと撫で、少女はひとり形の良い唇を尖らせる。
「今の言葉まで“ニセモノ”だったら……ほんとのほんとに、許さないから」
***
あとがき近況ノート(挿絵つき):
https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330654297418500
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