第20話 俺が彼女を知らない世界(5)

「ただの陶器だから光らないと思うけど……」


 彩は取り出した人形を拓馬に手渡す。


「本当だ。気のせいだったのかな……」

「でも、本当に光ったのかも知れないね。拓ちゃんの記憶を戻そうとしてくれてるのかも」

「この人形が……ですか?」


 拓馬は人形を目の前に持ってきて不思議そうな顔で眺める。


「この人形は大事なお守りで、車に吊るしていたの。あれだけの事故だったのに無事だったのはきっとこの人形が守ってくれたのよ……この人形が絶対に拓ちゃんを死なせたくないって……」


 彩は疑いなくそう信じているようだった。


「この人形は何か特別な物なんですか?」


 拓馬がそう聞くと、彩は「あっ、いやなんとなくそう思っただけ」と言葉を濁した。

 その後もまた部屋を見て回ったが、結局、拓馬の記憶にある物は何も無かった。


「すみません、何も思い出せなくて……」

「大丈夫よ。きっと元に戻るから、焦らずゆっくりいこう」


 申し訳なさそうに下を向く拓馬の手を取り彩は励ました。


「でも、凄く落ち着く部屋です。俺はこんな気持ちの良い場所で暮らしていたんですね……」

「私達はここで、毎日笑顔で暮らしていたのよ」


 拓馬はここでの暮らしを想像するだけで幸せな気分になれた。


「じゃあ、私は晩御飯の用意をするからゆっくりしていて。退院したてで疲れたでしょ」

「あっ、俺も何か手伝います」

「今日は午前中に掃除も済ませたから大丈夫よ。また明日からは分担しよう」


 彩はそう言って拓馬をリビングに押し込み、寝室で部屋着に着替えて料理を始めた。拓馬は仕方なくローソファに座り、テレビのスイッチを入れる。実家のテレビより大画面で映像が綺麗な事に驚いた。

 彩から自分の家だと言われたが、初めての場所で拓馬は落ち着かなかった。しかも新婚夫婦のように二人きりだし、どうしても彩を意識してチラチラと横目でキッチンの様子を窺ってしまう。

 キッチンから彩の歌声が聞こえてくる。小さな声であったが、拓馬には楽しそうに聞こえた。拓馬はテレビのスイッチを切り、意識を集中して歌を聴く。どこかで聞いた事のある歌だったが、歌手も曲名もわからない。でも、拓馬自身も楽しい気持ちになる、ノリの良い歌だった。


「さあ、出来たよ。晩御飯を食べよう」


 一時間半ほど経って、彩が拓馬に声を掛けた。テーブルに向かった拓馬は料理を見て「おおっ」と驚きの声を上げた。牛肉と野菜の炒め物と魚の煮付け、野菜サラダにみそ汁、小鉢にシラスと大根おろしを和えた一品などテーブル一杯に並んでいる。拓馬の実家の母は仕事が忙しいのもあってか一品を大量に作っていた。なので、何品もおかずがある事だけでも凄いと思った。


「美味しい!」


 野菜炒めを一口食べて美味しさに感激した拓馬は、次々に料理を口に運ぶ。


「どれもこれもみんな美味しい! 彩さん凄いよ! 本当に料理が上手だね」

「ありがとう。でも拓ちゃんも料理が上手なんだよ。高校時代に部活を引退してから中華調理店でバイトして覚えたって言ってた。炒め物なんか、私が作るより本当に美味しいよ」

「あっ……そうなんですか……」


 今の拓馬にはその記憶も無かった。彩に悪気が無い事はわかっているが、どうしても大人の自分の話が他人のように思えて辛い。拓馬は雰囲気を壊さないように、笑顔を作ろうとしたが上手く出来ない。高校生の拓馬はそこまで大人になれなかった。


「ごめん……焦らずゆっくり行こうって言った私がこんな風じゃ駄目だよね……」


 自分の失言に気が付いた彩が謝ったが、拓馬は落ち込んだまま表情が暗い。彩は席を立ち、拓馬に近付き頭を胸に抱きしめた。


「大好き……」

「ありがとうございます。もう大丈夫だから、ご飯食べましょう」


 拓馬は笑顔で大丈夫と言ったが、それは強がりだった。大好きと言う彩の言葉も自分に対しての言葉とは思えない。だが、その気持ちを悟られないように「美味しい、美味しい」と作り笑顔でご飯を頬張った。

 食後は洗い物を拓馬が片付けた後に、リビングでテレビを観ながらくつろいだ。普段ならソファで体を寄せ合う二人だが、この日は人ひとり分の間を空け、体を触れ合わずに過ごした。


「拓ちゃん、お風呂の用意が出来たよ。先に入ってくれる?」


 夜十時を過ぎて、交代でお風呂に入る事となった。気持ち良く湯船に浸かっていても、拓馬はこの後の事が気になってリラックス出来ない。寝室を見たのでベッドが一つしかない事に気が付いていた。当然この後はあのベッドで一緒に寝る事になるだろう。考えるだけで、心と体がたぎってくる。それは女性経験の無い高校生の拓馬にとって、もの凄い期待でもあるが、同時にもの凄い不安でもあった。


――上手く出来るのかな……がっかりされたらどうしよう……。


 拓馬は考えすぎてのぼせ気味になりながら風呂から上がった。火照った顔でパジャマに着替えて脱衣所から出る。


「お先です」


 拓馬は自分が風呂から上がるのをリビングで待っていた彩に声を掛けた。


「じゃあ、私もお風呂に入ってくるね」


 拓馬の緊張が伝染したのか、彩もぎこちない様子で、着替えを持って脱衣所に向かった。

 彩をどこで待つべきか拓馬は悩んだ。


――このままリビングで待つと、一緒に寝室に向かう事になる。それは緊張しそうだ。やはり先にベッドに潜り込んで彩さんが来るのを待つのがベストか。でも本当に来てくれるのだろうか? 来ないとショックだよな……。


 拓馬は緊張しながら寝室に行ってベッドに潜り込んだ。目が合うと照れるので、入口に背を向ける形で壁に向いて横たわる。期待しているのを悟られたくないので、寝たふりをしたが、当然眠れる訳は無くドキドキしながら彩を待った。

 拓馬が思っていた以上に彩のお風呂は長かった。

 ずっと緊張しながら待ち続けて気持ちが限界に達しようとしたその時、浴室のドアがガチャリと開く音がした。今脱衣所で彩が全裸で着替えていると想像するだけで、拓馬は気持ちが高ぶってくる。ドライヤーの音がもどかしい。彩にそのつもりはないとはわかっているが、拓馬は焦らされているかのような気持ちになった。

 着替えも終わり、彩が脱衣所から出てくる。一旦リビングの方に行ったようだが、また戻ってきた。

 ガチャリと寝室のドアが開く。豆球だけ点けた薄暗い寝室に彩が入ってくる。彩は無言のままで、ベッドの上の掛け布団をめくり、体を滑り込ませた。

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