咲かない茨のフィロソフィ

えの

第1章 その1


 ハッシュは毎朝目覚めると、左手に水を飲ませる。

 その日は左手のずきずきとした痛みのために目が覚めた。寝床から這い出し、水差しを傾けると、乾いた土に雨が染み込むように、春の空気でぬるんだ水が左腕に吸い込まれていった。

 残った水を今度は自分で飲み干す。痛みはだいぶマシになっていたが、手首にはまだ少し疼痛が残っている。

 ハッシュはベッドから立ち上がって窓際に寄り、外を見た。日が高い。普段よりもずいぶん寝坊をしていた。

 左手首を右手でさする。手のひらの少し下、手首の内側に、親指の爪ほどの大きさの、黒い胡桃くるみのようなものが埋まっていた。

 何かの種子に見えた。

 左手のひらに力を込める。肘から先は今日も動かない。頭がはっきりしてきたせいもあるだろうか、痛みはさらに強くなってきていた。

 水が足りていない。

 水差しは空っぽになってしまったので、ハッシュは寝室の扉を開け、廊下に出た。昨日は湯浴みの日だったから、残り湯が余っているだろう。

 疼きを訴える手首をなだめ、浴室の前にたどり着き、扉を開けた。

 先客がいた。

 浴槽には予想通り半分ほど水が残っており、しかしその中には人間が入っていた。

 身体を清め終わったのか、浴槽の縁に手をかけ、跨ごうとしていた。

 水に濡れ、額に少し張り付いた金髪。薄く細い体躯と、色素の薄い滑らかな肌。しかしその胸は控えめに膨らみを主張していて、持ち上げていた片足の根本には、ぷっくりとした――


「ひゃぁぁっ」


 見覚えのない少女がそこにいるのだと認識すると同時に、その少女が悲鳴を上げ、大急ぎで湯船に頭まで浸かった。飛沫が盛大に上がり、ハッシュの顔まで少し濡らす。

 湯煙が扉の外にまで溢れ出てきて、ハッシュは押し出されるように廊下に下がり、扉を閉めた。

 扉を見つめて考える。この屋敷に住んでいるのは自分ともうひとりだけだが、その子と今の彼女は別人に思える。悲鳴だったのでやや曖昧だが、声も違っていた。


「何をなさってるんですか」


 呆れたように声がかけられた。

 見ると、同居人の少女であるナルが、きな臭いものでも嗅いだような表情で立っていた。


「あれは、誰だろう」

 

 茫洋とした、という表現が当てはまりそうな、質問のようで単に思ったことをそのまま口に出したようなとらえどころのない言葉が落ちた。上背があり、精悍な顔立ちの彼からすると、やや若く聞こえるような声音だった。


「お客様です。ハッシュさんに」

「それは、珍しいな」

「ええ。まったく」


 ナルはセミロングの黒い髪を揺らして頭を振った。

 華奢な体躯の少女である。今はエプロンドレスに身を包み、手には女物の衣服を持っている。彼女の普段着だとハッシュは思い当たった。


「今朝方来られたんですが、ハッシュさんがまだお休み中でしたし、全身埃だらけでしたので、先にお風呂に入って頂いてたんです」

「そうか。手間を掛けさせたな。すまない」

「……べつに、大した手間じゃありません」


 もごもごと呟くように言うと、ナルは浴室の扉を開けて、中の人物に呼びかけた。


「リーザさん、お着替えはここに置いておきますよ? 潜水の訓練はまたの機会にしてください」


 浴室で再び水音がして、あたふたと弁解するような声と、ナルの声が幾度か交錯した。

 ハッシュは踵を返し、食卓として使用しているテーブルのある部屋へ入った。他の部屋は普段から使っておらず、客を通すのに使えそうなのはここくらいしかない。

 会話で多少気が紛れていたが、手首の痛みはますますひどくなっていた。ハッシュは屋敷の裏手に回り、いつも飲料水を組み上げている井戸に向かった。

 ハッシュは動かない左手を意に介さず、右手で釣瓶の縄を引いては左肘で挟み、桶一杯分の水を汲み上げた。先に自分の左手首に水をかけ、十分痛みが引いたことを確認する。

 そして残りの水を持って屋敷の部屋に戻り、戸棚にふたつだけあるカップのひとつを取り出してテーブルに置いた。ふいに気配を感じると、ナルが複雑そうな表情で部屋に入ってくるところだった。


「言ってくだされば、お水くらい、わたしが汲んできます。いつも言ってるじゃないですか」

「少し、身体を動かしたかった」

「もう……。ほら、お水、貸してください」


 ナルはハッシュから桶を奪うと、ふたつのカップに等分に水を入れ、少し余っていた蜂蜜を垂らしてライムを絞った。

 どうぞ、と差し出されたカップを受け取り、一口飲む。


「うまい」

「お粗末様です」


 もうひとつのカップは、客人用にナルがテーブルに置いた。


「ナルは飲まないのか」

「カップがありませんし、蜂蜜も今ので終わってしまいました。ちょうどいいです」

「これを飲めばいい」


 そう言って、ハッシュは半分ほど水が残った自分のカップを差し出した。

 ナルはちょっと押し黙り、


「……いただきます」


 素直に受け取って口をつけた。


「すみません、お風呂上がりました」


 その時、廊下から控えめな声がかけられる。

 先ほどの少女が、居心地悪そうに、部屋の中に入ってきた。

 少女は数瞬だけ躊躇うように口を開閉させると、意を決して言った。


「初めまして、リーザ・ライムグリーンといいます。ごめんなさい! 先ほどは、どうもお見苦しいものを……」


 少し顔を赤くして、リーザと名乗った少女が照れたように頭を下げる。ちらちらとハッシュを伺う彼女に、ナルが小さく舌打ちをしたのが聞こえた。

 リーザはナルガ持っていた衣装を身に纏っていた。自前の服を洗っている間、ナルの服を借りているらしい。

まだ少し水気を残したショートボブの金髪は柔らかそうで、手指や爪も、旅をしてきた者の割には手入れがされている。性格のためか、前髪は目を隠しそうなくらいに長く伸ばされているが、その深緑の色をした大きな瞳は幼さを残しながらも意志が強そうで、長い睫毛がそれを縁取っている。鼻筋が通って小作りな顔、細い手足、そしてナルに輪をかけて華奢な肢体。年の頃は十四、五歳だろうが、ハッシュの鳩尾くらいまでしかなさそうな小柄な少女だった。


「ハッシュだ。こちらはナル」


 ハッシュが先ほどのことなど忘れたように簡潔に自己紹介し、ナルも一応会釈をした。


「俺に用があると聞いた」


 リーザに椅子をすすめ、自分もその向かいに座りながら、ハッシュが言った。ナルはその隣に着座し、両手で抱えたカップの水をちびちびと飲んでいる。

 すると、リーザは目を輝かせ、意気込んで答えた。


「はい! 実は、武勇の誉れ高いハッシュさまに、わたしを弟子にしていただきたくやって参りました! どうか稽古をつけていただけないでしょうか!」

「で……」


 傍らのナルが、驚いたように声を漏らした。

 それに気づいたのかどうか、リーザは続ける。


「チーム《スノードロップ》の《剣士ソードユーザー》ハッシュさまといえば、身の丈ほどのバスタードソードを難なく振り回し、百のトロルを一人で倒したという剛の戦士! 冒険者界隈では有名ですが、こんな辺境にいらしたとは、恥ずかしながら先日までまったく知りませんでした! 不勉強をお許しください!」

「この屋敷に来たのは三ヶ月ほど前だから、知らないのは当然だ。それから、トロルは四十体ほどだったし、こちらは俺を含めて三人いた」

「そうでしたか! さすがです!」


 冷静に訂正するハッシュに、変わらぬテンションで相槌を打つリーザ。


「冒険者になりたいのか」

「はい! ギルドに登録もしてます!」

「《剣士ソードユーザー》志望か」

「はい!」

「俺は剣を握れない」

「はい! ……はい?」


 リーザの声の調子が変わった。

 それを意に介さず、ハッシュは自分の左腕を持ち上げてみせた。


「昔の戦いの後遺症だ。肘まではなんとか動くが、指はまったく役に立たない。剣を握るどころか、小石を掴むこともできない」


 手の甲をリーザには向けていたので、手首の種子を見られることはなかった。隣のナルが、一口水を飲んだ。


「……ですが、ハッシュさまが偉大な剣士であることに変わりはありません! 稽古をつけてほしいと言いましたが、直接剣を合わせたいなどと、おこがましい話でした。わたしは一人で稽古しますので、それを眺めていただければ!」


 リーザは一応驚きはしたようだが、すぐに話の方向をもとに戻した。

 鼻白んだように、ナルのほうが口を開く。


「リーザさん、わたしたちは、明日このお屋敷を引き払う予定なんです。旅に出るんです。ですので、あなたの弟子入りは無理なお話です。それを飲んでお引取りください」


 言われて、リーザは初めて自分の前にあるカップを認識したように、手に取った。

 口をつけると、


「あ、おいし」


 と感想が漏れる。

 それから十数えるほどの時間をかけてカップの中身を飲み干し、ほう、と息をついたところでリーザが言った。


「旅⁉」

「……そうです」


 疲れる人だとナルが表情で言っていた。


「どこへ行かれるんです?」

「タックベルだ」


 答えたのはハッシュである。教えなくてもいいのにと、ナルが横目で抗議している。


「タックベル⁉」


 リーザが輪をかけて驚愕したように目を開く。ナルはそろそろ耳を塞ぎそうな表情だ。

 タックベルはこの場所からだと、徒歩で半月ほどの距離にある。気軽に行き来できる距離ではない。

 リーザは、はー、と感嘆したように息を吐く。


「……それはまた、大変な」

「そうなんです。大変なんです。なので、わたしたちのことは放っておいて……」

「じゃあ、わたしもタックベルまでご一緒するということで」

「どうしてそうなるんです⁉」


 ナルが持っていたカップをぶつけるようにテーブルに置いた。

「じゃ、じゃあ、せめて、キャリブレにまではご一緒してもいいですか? どうせ寄りますよね? 耳寄りなお話があるんですよ!」


 怪しい詐欺師のようなことを言い出した。キャリブレはここからそう遠くない街で、交通の要衝でもあるため、旅人がよく立ち寄る場である。

 胡乱げなナルをよそに、リーザは熱っぽく説明した。

 いわく、キャリブレでは年に一回の祭りが二日後に行われる。

 この時期、《ねぶり猪》と呼ばれる魔獣が大量発生し、人里に下りてきて害をなすようになる。

 そのため、キャリブレでは冒険者から有志を募り、舐り猪の討伐を一大イベントとして催しているのだった。

 参加費は少額でよいが、討伐に参加した者全員には、通例として舐り猪の肉が振る舞われる。そして、最も多くの討伐数を記録した者には、賞金も出るという。


「賞金」


 ぶすっとした顔を引っ込め、ナルが鸚鵡おうむ返しした。


「ちなみにそれは、おいくらほどなんでしょうか」

「二千ゴルドくらいです」


 一般的な工匠なら、半年働いて稼ぐ額である。

 ナルはハッシュの顔を覗き込む。ハッシュはその視線に目を合わせ、


「出るか」


 とだけ言った。

 かつての有名冒険者ハッシュは、最近金欠だった。

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