彼女のゆく道
十一
死者の想い
美和は背中を丸めて路側帯を歩いていた。秋口とあって側溝のグレーチングは朝露で濡れていたが、身体を縮こめるほどの気温でもない。美和の前方を歩く恭介の制服はまだ夏服だ。
恭介の後を足早に追う美和は、そこから目を背けるように俯いていた。しかし、交差点を渡りきった所でふいに足を止めて顔を上げる。
直後、背後の車道を猛スピードでステーションワゴンが通過する。区と区の境に走るその道路は、両側が住宅地となっていた。制限速度が設けられていたが、十分に車がすれ違えるだけの道幅があり、近隣住人の自家用車が往来する通勤ラッシュの時間帯であっても流れが滞ることがなかった。そのため、駅前の渋滞を迂回する抜け道として利用する者も少なくない。国道や幹線道路を飛ばしていた感覚のままスピードを落とさずに走り抜けていく車が、日に何台かはあった。
「どうしたんだ」
恭介が振り返ってそう訊ねる。
「ねぇ、いま何か声が聞こえなかった?」
正体を探るように辺りを見回していた美和の視線は、やがて交差点の一角へと向かう。
事故の爪痕は、もうブレーキ痕くらいしか残っていない。ポールのひしゃげた標識は新しい物に取り替えられていた。崩れたブロックも解体され、新設されたのは見通しの良いフェンス塀だ。新旧とりどりの家が立ち並んだ閑静な住宅街は、ともすれば交通事故があったと忘れてしまいそうな日常の風景だ。しかし、そこは一月前に交通事故のあった現場なのだ。電柱のかたわらに供えられた献花が静かにその事実を訴えている。
「聡子だ、ここには聡子がるんだ」
美和は、亡くなった幼馴染みの名前を口にした。
「まさか」
恭介は一笑に付す。しかし、彼の目もまた献花へと吸い寄せられていく。
「恭ちゃんには聞こえなかったの?」
恭介はかぶりを振るが、美和の主張は揺るがなかった。
「聡子だ。私にもはっきり聞こえたわけじゃない。けど、あの声は聡子だった。ここに聡子がいるんだ」
「落ち着けって」気圧されながらも恭介はパニックに陥りそうになる美和に噛んで含めるように言う。「きっと気のせいだって。風か何かだろ。ほら、さっき車が通っただろ。たまたまその音が声っぽく聞こえたとかさ」
「聞き間違いなんかじゃない」
なおも美和がそう言い切るのを耳にして恭介は諦めたようにため息を吐いた。
「百歩譲って、聡子の幽霊になるってのはわからなくもない。不慮の事故で未来を絶たれたんだ。そりゃ未練だってあるだろう。でも、なんでよりによってここなんだよ」
ジバクレイ、と美和が呟く。
「地縛霊ってあの地縛霊? 詳しくないけど、そういうのって恨みとかあって化けて出るんじゃないのか」
十三年前のひき逃げ事件とは異なり加害者は現場を立ち去らなかった。被害にあったのは通学途中の女子高生で、日中ということもあり目撃者もいた。ドライブレコーダーの記録もある。そして、なにより運転中に携帯電話を触っていて前方不注意だったと運転手は自らの罪を認めている。まず刑事罰は免れず、これから国により罰が下されることとなる。
幽霊の出る幕ではない。
「恨まれる理由ならある」美和は泣きそうな顔になっていた。「聡子が轢かれたのは私のせいなんだ」
「馬鹿を言うなよ。悪いのは犯人だ。美和が気に病むことなんて何もないだろ」
「でも私が先に行くなんて言わなければ。聡子を待ってればあんなことには」
その日、聡子は寝坊した。いつものように迎えに来た美和が呼び鈴を鳴らした時、聡子はまだ着替えてすらいなかった。パジャマのまま戸口に出てきた聡子に、美和は重く垂れこめた雲を仰ぎ告げる。「雨降りそうだから先行ってるね」と。
「別にギリギリだってわけじゃないのに。ちょっとくらい待ってればよかったんだ。遅刻なんて気にせず一緒に行ってれば。きっと私を追いかけて急いだせい。だから聡子は自分だけ事故にあうのはおかしいって思って私を恨んでるんだ。同じ目に私もあえばって。私を道連れにする気なんだ」
「そうだとしたら俺だって同罪だ。あの日もここで美和にあったじゃないか。あれ、聡子は? って訊いただろ。だから俺も聡子が寝坊したって知っている。先に行くって判断を下したのは俺も同じだ」
「でも! 聡子はそれを知らないじゃない」
美和の言葉に恭介がハッとした表情を浮かべる。
「なぁ、もしここに聡子の霊がいたとしたらこれも聞いてるんだよな」
あの世に行くときは一緒だな。
冗談めかして恭介は笑うが美和の顔はひきつったままだった。
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