第21話

 エミリアがセストと共にバージェフ侯爵家の馬車で学園を出る時も、まだほとんどの生徒が教室を出られない状態だった。

 教師の身元が確認出来なくては彼らの証言も信用出来ないということで、何をするにも時間がかかってしまうようだ。学園長はエミリアから護衛を外した経緯を説明するために王宮に連れて行かれ、学園で今動いているのは王宮関係者だけだ。

 教師陣や高位貴族の生徒の身元の確定はすぐに終わるだろうから気にするなと、エミリアを一足早く帰してくれたのはランドルフだ。

 証言ならリベリオが代わりに出来るので、ともかくエミリアの安全確保が最優先だった。


 帰りの馬車は、護衛のフローラとジーナも一緒だ。

 水が跳ねてところどころ濡れて汚れたドレス姿の三人は、髪も乱れてかなり悲惨な状態だったのだが、襲撃を受けて戦った反動かテンションが高かった。

 エミリアは屋敷につくとすぐ、あまりに悲惨な様子に悲鳴を上げた侍女達に大急ぎで連れられ、湯浴みをして服を着替えさせられた。

 幸いどこにも怪我はなかったが、最初の興奮が過ぎ去ると、今度はどっと疲れが襲ってきた。


 寝椅子の端に座って膝を抱え、ストールを肩にかけても肩や背中が寒くて震えてしまう。ショック状態なのだと理解は出来ても、どうしたらいいのか頭が働かない。

 まだバージェフ侯爵家に来て日が浅く、自分の荷物の少ないこの部屋では、住み慣れた実家の部屋のようにリラックス出来ないのも原因かもしれない。大事にされているのはわかるが、侍女達とも知り合ったばかり。実家の親しい侍女とは違う。

 セストは侍女を連れて来てもいいと言ってくれたのだけど、エミリアが断ったのだ。彼女がいなくなり父親と弟だけになったあの屋敷のことを考えると、彼らのことをよくわかっている侍女にひとりでも多く残ってほしかった。


「そうだ。隣の部屋にセストが……」


 そう思っても立ち上がる気力が湧かず、同じ姿勢のまま震えている自分が情けなくて、泣きそうになっていると扉がノックされた。


「開けるぞ」


 エミリアにとっては今一番聞きたかった声だが、開けるぞと言った時には扉は半分開いた後だ。それがセストらしくて笑ってしまった。


「よかった。意外と元気だ」

「そうでもないかも」


 はは……と力なく笑ってストールを肩にかけ直す。


「寒いのか」


 セストに続いて部屋に入ってきた侍女が、ティーカップとポット。そして、いろいろな種類の菓子の乗った皿をテーブルに置くのをぼーっと見ていると、セストが隣にぴったりと体を寄せて座った。


「暖かい紅茶です。ミルクをたっぷり入れてきました」


 侍女がカップに注いでくれたミルクティーは、カップに注がれると白い湯気がふわりと漂った。

 その温かさとセストがいてくれる安心感で、泣きそうになっていたのが嘘のように気持ちが落ち着いてきた。


「兵士なら酒を飲んで騒いで、女性のところにでも行けばいいんだろうが、女の子の場合はそうはいかないからな。糖分が効くかもしれないぞ」

「女性のところ?」

「ああ……うん」

「そうね。恋人の傍にいるのは安心するわね」

「安心するためではないと……いや、冷めないうちに飲んで」


 侍女が一礼して部屋を出て行き部屋にふたりきりになると、今度はセストの近さが気になってきた。でも彼の体の熱が心地よくて、離れて欲しいなんてとても言えない。


「あの時は割と冷静だったの。だから今になって、こんなに疲れて動けなくなると思わなかった」

「非常時でいつもより集中力が増したり、体が緊張していたり、普通の状態じゃなかったんだろう」

「ダンジョンでは魔物相手に戦闘したこともあるのに」

「自分を明確に狙う人間を相手にしたのは初めてだろう?」


 真面目な話をしているというのに、エミリアの肩の上に頭を乗せたり、首筋に頬を摺り寄せたりしているので、セストの声はくぐもって聞こえる。

 いつの間にこんなに接近することに慣れていたのかと、幾分すっきりした頭で考えてみたがわからない。先程、みんなの前だというのに後ろから抱き着かれていたのに、そのままにしておいたことに今になって気付いた。


「無事でよかった」


 耳元で吐息交じりに囁かれてぞくっと震えがきて、エミリアは慌てて寝椅子に手を突いて横にずれて離れようとしたが、肩を抱いていたセストの手に力が込められたので動けない。


「もう少し離れて。人前で抱きつくのも駄目よ」

「今更……」

「あ。今、息を吸ったでしょ!」

「吸わなかったら死ぬ」

「頭の匂いを嗅いだでしょ」

「髪の匂いって言ってほしいな。いい匂いがする」

「ちょっとやめて。暑いから離れて」

「暑いのにストールをしていたのか?」


 気が付いたらすっかり寒気はなくなり、むしろ暑くなっていた。


「具合が悪いのかもしれないわ。濡れたから風邪をひいたかも」

「熱はないぞ」


 動けないように肩を抱いていた方の手をエミリアの額に乗せ、まるで抱え込むように抱きしめられて、エミリアは大慌てだ。


「セスト、くっつきすぎ」

「心配させたんだ。俺が落ち着くのに協力してくれ」

「こうしていると落ち着くの?」

「違う意味で落ち着かなくなりそうだけど」


 密着しているのでセストが話すたびに頬に吐息がかかる。

 エミリアも落ち着かなくて困るので、何とか離れてもらおうと手をどけようとするのだが、腕力に差がありすぎた。


「お菓子、お菓子取って。紅茶も飲みたい」

「しかたないな」


 ようやく少しだけ動けるようになったので、ティーカップを手に取り両手で包み込むように持った。まだ少し冷たかった指先にカップの温かさが心地いい。

 一口紅茶を飲んで顔をあげたら、目の前に小さな砂糖菓子が差し出されていた。

 セストの手は大きい。指が長く関節が太く、剣の稽古で何度もまめが出来た部分が硬くなっている。その指で砂糖菓子を摘まむと余計に小さく見える。


「私はいいからセストも……んぐ」


 話すために口を開けたタイミングで、セストが砂糖菓子を口の中に押し込んだ。


「私はいいって……これ、甘い」


 かなりの甘さに慌てて紅茶を飲む。紅茶にはミルクだけで砂糖が入っていなかったので、ちょうどいい甘さになって美味しかった。


「本当だ。これは甘いな」


 隣ではセストが自分の指についた砂糖を舐めとっていた。

 無意識にセストの口元に注目していると、彼はちらっとエミリアに視線を向け、親指の腹でエミリアの唇をなぞり、その指を舐めた。


「なっ……なに?」

「砂糖がついてた」


 セストの眼差しに込められた熱と、いつもとは違うかすれた声がエミリアの体を熱くする。

 見つめ合った眼差しをそらせないまま、徐々にふたりの距離が近付いた時、再び扉をノックする音がした。


「エミリアちゃん、大変だったんですって?」


 入ってきたのはセストの母親、つまりバージェフ侯爵夫人のシェリルだ。

 金色の髪に緑色の瞳の可愛らしい雰囲気の女性で、セストと一緒にいても親子には見えない。

 バージェフ侯爵は学園の入学式で彼女に出会い一目で恋に落ち、当然瞳が金色に変化した。その後、何人ものライバルを蹴落として彼女の心を射止めたという話は有名だ。

 あのクールな紳士のイメージのバージェフ侯爵が、そんな情熱的な人なのかとエミリアはその話を聞いた時は驚いたのだが、シェリルを見るとその話も本当だと思える。


「あら、セストもいたの?」

「なんで、今来るんですか」


 寝椅子に手を突いて、がっくりと俯いている息子の様子など気にせず、シェリルはふたりの向かいの椅子に腰を下ろした。

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