医者は続けようと思う

 裕太は走った。

 廊下を抜け、階段を降りた。何度かつまづきそうになりながら、ぶつかりそうになりながら、駆け抜けた。そして外来にたどり着いた。


(いた)


 3番診察室、通称きりんの部屋に千賀はいた。

 あまりに全速力で走ってきたため、裕太は手を膝におき、息を整えるのに時間がかかった。やっとのことで、呼吸の速度が落ち着いてきた頃、裕太はぴしっと気をつけの姿勢を作り、机に座って作業をしている千賀を見た。

 千賀とはあの日依頼、まともに会話を出来ていなかった。


「千賀先生」


 千賀は裕太には目もくれず、パソコンの画面を睨みながら何やら作業を続けていた。


「ん?」

「矢部ひなたちゃんが退院できそうです」


 あ、そう。とだけつぶやいて千賀はキーボードをかちゃかちゃ言わせていた。


「あ、あのう!」


 裕太は声を張り上げた。

 聞いてもらえないかもしれない、厳しいことを言われるかもしれない、それでもいい、裕太には言わなければならないことがあった。


「先生のおかげです、ありがとうございました。そして……」


 裕太は鼻から息を吐いた。


「医者は続けようと思います」


(言えた)


 ふうと一息ついた。誰が何と言おうとも、その思いをこめてこの言葉を発した。

 すると千賀の手が止まった。そしてゆっくりと立ち上がると、裕太に視線を合わせた。千賀の表情は厳しかった。獣が相手を威嚇するように、目の前の相手を咬み殺そうとするように。その迫力に思わず裕太はおののいた。


「は? 続けようと思います、だと? お前は馬鹿か」


 裕太は後退りしながら、唾をごくりと飲み込んだ。


「医学部は定員が決まってんだ。お前が入学したせいで、お前よりもっと優秀で、もっと一生懸命で、もっと医者になった方がいいやつが一人落ちてんだよ。今更お前が医者辞めたってその枠は戻ってこねえんだ。医者になった以上は死ぬまで働け、全力でやれ、必死になって勉強しろ。いいか」


 裕太は目を丸くし、額に汗を光らせていた。


「は、はい。わかりました」


 しばらくキッ、とにらんでから、再び椅子に座るとまた仕事を始めた。



 水曜17時からのカンファレンスで裕太がプレゼンをしている姿を見ながら、伊井は水野に耳打ちした。


「なんか最近裕ちゃん、ノってるよね。一皮剥けたって言うか」

「そぅだねぇ、やっぱひなたちゃんみたいな大変な症例を乗り越えて自信がついたのかもね」


 あぁ、とてもじゃないけど俺はあんなめんどい症例持ちたくないけど、と伊井は吐き捨てた。


「それでは今週のカンファレンスを終わります」


 司会の和気が締めた。


「裕ちゃんおつかれー」

「おう。あれ? 来月のシフト配られた?」


 水野は自分の持ってきた資料のプリントをいくつか調べた。


「もらって……ないよね」

「あれ? 来月のシフト配られるのっていつもこのタイミングじゃなかったっけ」


 シフトを組むのは和気の仕事だった。和気はシフトに関してはしっかりと遅滞なくこなしていて、カンファレンスの最後にいつも配布していた。

 伊井が突然、二人に手招きをした。近くに寄れ、という合図だった。声が漏れない程度まで距離を縮めると、辺りを憚ってから話し始めた。


「実はその件なんだけど、どうやら大きな動きがあるらしい」

「動きって、誰か新人でも入ってくんの?」


 伊井は首を振った。


「そんな可愛いやつならいい」

「えぇ、じゃ、じゃあ誰か異動でもするのかなぁ」


 同様に伊井が首を振った。


「じゃあなんだよ、知ってるなら教えろよ」

「いや、これは俺もわからないんだけど、どうやらただことではないことが水面下で起こっているらしい。それによってシフトが大きく変わる可能性があるから、まだ作れないらしい。あくまで推測だがな」


 そこまで聞くと裕太は、再び椅子にもたれかかった。


「なんだよ、そのただことではないことって」


 伊井は顔面を紅潮させながら答えた。


「わからない、わかったらまた報告するわ」


 そう言って、片目でウインクするとそのままカンファレンスルームを出て行った。


(どうせ大したことないんだろ)


 そう思っていた裕太だったが、その副都心総合病院小児科を大きく揺さぶることになる衝撃は今まさにゆっくりと近づき始め、自分にも大きな影響をあたえることになろうとは、その時はまだ知る由もなかった。


第4章:後半 Regeneration おわり

第5章:もがれた翼、小児科チームの崩壊

「この中に裏切り者がいます」


へ続く

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