嵯峨山 美菜という母
水野は病室の前で、うろうろしていた。まるでおしっこを我慢している子どものように、あっちに行ってはこっちに行って。じーっとしては、また動き出していた。病室には「嵯峨山 美菜」と書いてあった。
病室のドアがガラガラ、と開いて、水野はどきっとした。中から看護師が出てきた。
「あれ、水野先生。嵯峨山さんに何か用ですか、嵯峨山さーん、水野先生が……」
「あ……いや、ちょっと、その——」
まだ心の準備ができていなかった水野は看護師の肩を思いっきり引っ張った。
部屋の奥から、え? どうぞー、と声が聞こえた。
それを聞いてから、遠慮がちに水野は部屋に入った。
帝王切開が終わって1週間、美菜はだいぶ手術の痛みも和らいで、笑顔も戻ってきていた。
「嵯峨山さん……痛み、大丈夫?」
「うん、もうだいぶいいよ。見にきてくれたの? ありがと」
美菜は結局あの後、看取りではなく、育てる選択をした。何がどう彼女に影響をして、そうなったのかは分からない。しかし彼女はこの時代における大多数が選ぶだろう選択肢を選んだ。
「あ、あのぉ……嵯峨山さん。ごめんね、色々と」
美菜はベッドに横たわり、腰より上を起こす座位の姿勢をとっていた。そしてそのつぶらな瞳で水野をじっと見た。
「あの……やるとかいってやらなかったり、でその……」
美菜は気まずそうに俯いた。そして言葉を選ぶために時間を少し使ってから口を開いた。
「私ね、東京に転校って説明されたけど本当はそうじゃなかったの」
「え、そうなの?」
美菜は暗い表情でこくりと首を垂れた。
「一種の夜逃げ。最初はそこがどこかも分からないまま生活してた。名古屋だったり、静岡だったり。生活もビルの管理人の部屋に住まわせてもらったりと大変だった。そんな生活してから、いつの間にか自分の身は自分で守らなきゃ、自分のことは自分でやらなきゃ、って強く思うようになってた。それから人に頼ることをやめたんだ」
その話を聞いて、水野は思わず目をそらした。
「だから今回のことも、全部自分でやらなくちゃ、って思ったらもう頭の中パンパンになっちゃって……そんな時に水野君と会えた。水野くんなら頼ってもいいかなって、だって私が知ってる数少ない味方だったから」
水野は苦笑いを浮かべた。
「でも、僕は何もできなかった」
「違うよ、水野君がああ言ってくれたから、私、ピアサポートの話聞いてみようって思った。水野君がいなかったら、私ずっとあのままだったかもしれない」
水野は美菜の目を見た、あの時の凍りついた表情は解き放たれ、安らかな目をしていた。
「富士田さんの話聞いて、すっごく楽になった。世の中なるようになるって思えるようになった。全部水野くんのおかげ」
水野は目を泳がせながら、え、いや……とつぶやいた。
「あの日電話くれた時の水野くん、すっごくかっこよかったよ。私が知ってた頃の水野君とは大違い」
「ほんと?」
美菜は大きくうなずいた。
「なんか、強くなったなーって。私ね、水野君にもらった折り鶴、あれからずっと持ってたんだ、何回か引っ越した時見失って、一生懸命探したんだけど、見つからなくなっちゃったけど」
え、と水野は声が漏れた。
「そうなの? てっきりすぐ捨てられたかと思った」
「捨てるわけないじゃん! あの折り鶴見て、毎晩私頑張ろうって思たんだ、まだ私のこと見てくれる人がいるんだな、って」
水野は心の奥がじんわりと暖かくなっていくのを感じた。鶴は、届いていたんだ——と。
あ、そうだ、と美菜は言ってから起きあがろうとした。
「大丈夫?」
「うん、だけど、ちょと肩貸してくれる? 一応」
もちろんだよ、と言ってから水野は美菜に肩を貸した。
「赤ちゃん、見にいこ」
「え、あ、うん」
水野は美菜に肩を貸しながらゆっくりと
「かわいいね、赤ちゃん」
そう言いながら美菜は、水野の肩にもたれかかった。水野はどうしていいか、頬を赤らめていた。
「あら、嵯峨山さんと水野先生。なんかまるでお父さんとお母さんみたいね」
通りすがりの看護師がニヤニヤしながら通り過ぎた。それを聞いた、美菜がニコっと一欠片もくすみのない笑顔を見せた。それを見て、水野は思わず心拍数が上がった。
それから水野は美菜を部屋まで送ると、また来るね、といって病室を去った。
そして病棟を出ようとした時、一人のスーツ姿の男性が目についた。どうやら何か必死にお願いをしているようだった。対応しているスタッフが困った表情をしてから、ちょっと確認しますから、と言って、奥に消えた。
なんだろう、不思議に思った水野は再び病棟に入った。すると男が看護師に連れられて、美菜の病室の前まで来た。そして中に入る。
水野がそこに立っていると、病室の中から声が聞こえてきた。
「美菜! 探したよ、なんでいきなりいなくなったりするんだよ」
水野は横にいた看護師に問いかけた。
「あの方は?」
「嵯峨山さんの赤ちゃんの、お父さんみたいです」
へ? 事情をつかみきるまえに、病室からの声は続いた。美菜の声だった。
「だって……妊娠したって言ったら、困ると思って」
「妻とは離婚した。ほら、離婚届も見せてもいい。赤ちゃんも大変なんだって? お義母さんに聞いたよ、だから一緒に乗り越えよう、な?」
水野はこれ以上は聞いてはいけないと思い、ゆっくりと病室を後にした。
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