密室の出来事

 輝来留きらりのエコーが終わって、ちょうど次の患者のエコーが終わった頃だった。エコー室で、伊井はレポートと呼ばれる検査の結果を電子カルテに打ち込んでいた。


「おい、伊井先生、ちょっといいか」


 和気がドアを開けて、そう言った。


「はい」


 ちょっと……。そう顔を曇らせながら、手招きをした。こっちに来い、という合図だった。はて、と疑問の表情を浮かべながら、伊井はエコー室を出た。

 すると待合は異様な光景が広がっていた。

 待合で、先程の輝来留きらりが泣き崩れ、それを母が一生懸命なだめていた。横で一緒にそれをなだめる篠原。


「どうしたんですか?」

「いいからちょっときて」


 和気に連れられて、伊井は輝来留きらり親子の前に立たされた。

 すると、母親は先ほどと打って変わって鬼の形相をしていた。


「こいつよ! この男がこの子泣かせたのよ!」


 状況がつかめないままの伊井を置いて、和気が穏やかに母親に尋ねた。


「お母さん、ここじゃなんですから、あちらで……」

「嫌よ! 正々堂々、ここで話させてもらうわ」


 金切声に近いセリフを吐き、目は鋭く、今にも噛みつきそうな表情を見せた。


「わかりました、お母さん。何があったんですか?」


 数回息を吐いてから、母は口を開いた。


「さっき、うちの子が検査が終わってここで待ってたら、突然泣き出して。どうしたのって聞いたら、あそこの部屋でひどいことされたって」


 ひどいこと? 伊井は腕を組み、全身に力が入っていくのを感じた。今は和気と母のやりとりを見守るしかなかった。


「どんなことですか? それはエコーの検査以外にということですか」

「そうよ、あの暗い部屋に連れて行かれて、誰も見てないのをいいことに服を脱がされたの」


 和気の肩の力が少し抜けた。


「ええお母さん、エコーの検査は服を上げないとできないんです、しっかり説明できず申し訳ありません」

「違うわよ! その後ブラまで上げられて、裸にさせられたのよ!」


 まあ、裸といえば裸だけと、ちょっと違うよな、と伊井は思った。


「ええ、ですから検査するにはどうしても……」

「その後、変なゼリーつけられて」

「そうです、検査のためには必要でして。これはみなさんにしています」

「その後、この子の乳首をあの機械で弄んだのよ!」


 そこまで聞いて、和気は肩をすくめた。そして伊井を見た。

 伊井も和気の視線を見て同じことを考えていた。この内容はさすがにちょっと言い過ぎだろう、この人はきっとヒステリー気味になっている、そんなとこだった。じっくり説明が必要だろう、説明さえできればきっとわかってくれる、二人はそんなことを考えていたのかもしれない。


「お母さん、心配させて申し訳ありません。でもそんなことは絶対ありませんから、お母さんも横で見ていたんですよね」


 和気のそのセリフを聞いて、伊井はどき、っとした。心臓がぎゅっと鬼につかまれた気がした。


「……何を、何を言ってるの。いなかったわよ、私がいない間に勝手にあの部屋に連れ込まれたんだから」


 待合いにその大声が響く。その他たくさんの患者が異変に気づき、こちらを見ていた。そんな中、和気が視線を伊井に向けた。


「伊井先生、お母さんいなかったの?」

「……ええ、はい」


 和気の目が急に鋭くなった。チリチリの天然パーマが幾分逆立ったように伊井は見えた。その後、視線は篠原に向けられた。


「篠原さん、入らなかったの?」

「そう……ですね、声はかけられませんでした」

「ということは先生、一人でエコーやったの?」


 伊井の手先が冷たくなり始めた。目の前の世界が徐々に鋭く、冷たい世界に見えてきた。


「そう……ですね」


 和気はがくりとうなだれた。はあ、という重たい息を全力で吐き出した。


「お母さん、大丈夫です。心配かけて大変申し訳……」

「舐めた」

「はい?」

「それから舐めたのよ、この男。この子の乳首を!」


 固まりかけた世界に、確かにひびが入る音が伊井には聞こえた。


「今、なんて」

「だから、この男がこの子の乳首を舐め回して、その後胸をもみくだしたの! それだけじゃないわ、もう……もう……」


 母はしばし言い淀んだ。それから刺し殺すような視線を伊井に向けた。


「この男、ズボンおろして、この子にチン○をこすりつけて来たって!」


 数秒沈黙があった。伊井も言っていることを理解するまでに時間がかかった。まるで目の前の世界がフィクションに見えた。


「お、お母さん。まさかそこまで……」

「嘘だって言うの? 本人から聞いたのよ。ね? 輝来留きらり。あんたの乳首をなめてきて、チン○こすりつけられたんでしょ?」


 おかしい。伊井は思った。ここまで来たら、これは悪質だ、さすがに誤解では済まされない。こんな事がまかりとおるはずがない。そもそも俺はそんなことやってない、だから輝来留きらりちゃんがうんと言うはずがない。そうだ、だってやってないんだから。

 まさかうん、とか言わないよな、頼む、違うと言ってくれ——。


 伊井が祈るような思いで輝来留きらりを見つめている時間はほんの数秒だった。直後に、輝来留きらりはこくりと頷いた。


 うそ……だ、ろ……?


 和気も篠原も、顔を見合わせた。待合はがざわつき始めた。遠くでスマホで動画を撮り始める人物も現れた。

 伊井の世界が音を立てて崩れ始めた。なんで、なんでこんなことに……。周りの全ての人が自分を疑いの目で見ているような気がした。


「伊井先生、ちょっと」


 そう言って、和気は伊井を近くの診察室に呼び出した。そして二人きりになってから聞いた。


「伊井先生、やってないよな?」

「もちろんですよ、あんなところでそんなもの出したら、誰がいつ入ってくるかわからないし、するはずないじゃないですか」

「ああ、それはわかってる。ただ1対1になってしまった以上、何を言っても水掛け論だ。していないということを客観的に証明するものが一つもない。誰もお前を守ってやれないんだよ」

「そんな……あの親子、絶対に詐欺師ですよ。前科もあるはずだから」

「伊井先生!」


 和気の目は今まで見たことのないくらい冷たかった。そして伊井と向き合い、その肩に手を置いた。


「君はあれだけやってはいけないと言われた、密室で1対1になることをやってしまったんだ。覚悟を決めろ」


 なんだよ、覚悟って……。伊井の頭でこれから起こり始める未来の映像が流れ始めた。

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