偽りの笑顔

(桐生先生が嘘つきだなんて、絶対にありえない)


 裕太はそう祈るような気持ちで、1番診察室、通称ライオンの部屋を息を潜めて伺っていた。そして先程の相原との会話を思い出していた。


『あの先生、嘘つきだから』

『なんで?』

『だって、この前、この子に向かって「いつも上手に挨拶できるね」って言ってた。でも私ずっとこの子と一緒にいるけど、一度もあの先生とあいさつなんかしてるところ見てない』

『誰かと間違えたんじゃない?』

『だったら言わなければいいでしょ、そういう適当なところが信用できないの』


(誓ってもいいが、桐生先生はそんな適当なことを言う人じゃあない。きっと何かある)


 そう思いながら裕太は一つ唾をごくりと飲み込んだ。


「56番の番号札をお持ちの方、ライオンの部屋へどうぞ」


 桐生がマイクでそうアナウンスをした。


(相原の番号だ)


 裕太は診察室の影で、こっそり桐生外来を覗いていた。


(きっと何かある。それを見つけて相原の誤解を解くぞ)


 相原が暗い表情で診察室に入ってきた。一通りの問診と診察、何ら特別なことはなかった。


「風邪として様子みましょうか、お薬出しておきますね。じゃあね、ばいばーい」


 桐生が笑顔で手を振るが、相原の子どもは恥ずかしがって顔を隠してしまった。確かにこれではあいさつなど、到底しそうにない。

 

(まあ良くある光景だよな、でもあいさつはやっぱりしてない。これであいさつ上手だよね、って言うにはさすがに大袈裟な気がする)


 診察は終わろうとしていた。ここまで特に変わったことはなかった。相原も暗い表情のまま、桐生に一礼し、診察室を出ようとしたその時だった。


「あっ!」


 思わず裕太から声が漏れた。


(あいさつしてる!)


https://kakuyomu.jp/users/k1sh/news/16816700427349007228

(挿絵)


 相原が子どもを縦に抱きかかえた時、子どもは桐生に背中を向ける形になる。しかし、相原が診察室を出ようと桐生に背中を向けると、子どもはくるっと桐生の方を向くことになる。その時子どもは相原の肩越しに、満面の笑みで、桐生にバイバイをしていた。それを見て、笑顔で静かに手を振りかえす桐生。そのことに親である相原は背中を向けているため気づいていない。

 扉がバタンとしまった瞬間、裕太は思わず飛び出した


「あいさつ……してましたね」

「おお、びっくりした。またそこにいたんだね。そう、私はこの瞬間が好きでね。子どもと私だけの秘密のあいさつ。この瞬間だけはみんな本当の笑顔を見せてくれるんだよ」

「天使が、あいさつしてるみたいでした」


 桐生が鋭い視線を裕太に刺した。


「天使のあいさつ、か。城光寺先生、なかなか詩的なセンスあるね、そのフレーズいただいたよ。これからはそう呼ぶことにしよう」


 子どもは天使、そして桐生先生は仏、ここは天国か。裕太の頭の中はお花畑に咲く花々でいっぱいになった。


「それにしても桐生先生ってなんでそんなに一生懸命になれるんですか、ほんっと勉強になります。自分なんか……」


 裕太が言いかけて止めた。桐生の表情が固まっていたらだ。それだけではない、瞼が震え、唇までもわずかに震えているように見えた。そして、床の一点を見つめていた。


(何かまずいことでも言ったかな)


 そう思って、黙っていると、桐生はちらっと裕太をみてから、再び床の一点を見つめた。


「私は、君たちみたいに優秀じゃないから……。だから必死にやらないと、いつか……見放されてしまうから」


 初めて見る表情だった。桐生は元々ハキハキ喋る方ではなかったが、その消え入りそうな声を聞いていると、まるでそのまま桐生自体が消えてしまいそうだ、そんなことを裕太は感じていた。


「次の子が最後でーす」

 

 外来看護師である篠原の元気な声とともに、ぽん、とファイルが置かれた。裕太がそちらを見て、再び桐生を見ると、


「はーい、ありがとうございます」


 桐生はいつもの笑顔に戻っていた。桐生はクリアファイルに「桐生先生希望」という紙が貼り付けてあるのを確認した。


「この患者さん、私希望みたいだから、私がみとくよ。城光寺先生は先にお昼行ってて」

「あ、はい」


 医局に向かいながらも、城光寺は何か胸につかえるような居心地の悪さを感じていた。あの表情は何だったんだろうか、いくら考えてもそこに何かの答えが出る様子はなかったし、そもそも出るはずもなかった。


 その日の夕方、桐生は院長室にいた。

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