和気外来・怪

絶対に失敗しない医療

「あれ、今日センセー外来?」


 2番診察室、通称ぺんぎんの部屋にいた裕太に、外来看護師の篠原が声をかけた。


「篠原さん、おはようございます。そうです、和気先生と初めて外来組みます」


 篠原は外来専属の看護師だった。見ようによっては30代前後にも見えるし、40代にも見える、いわゆる幅の広い見た目だった。髪の毛は軽く脱色され、肌は浅黒い。その風貌と、誰に対しても物怖じしない態度から、昔はレディースの総長でもやってたのでは、と揶揄されることもある。


「へー、そっか。がんばってね」


 医師にもタメ口を聞く、フランクで歯に衣着せぬ物言いを嫌う医師もいたが、裕太にとってはとても頼りになる存在だった。


「はい、何か気をつけることってありますか?」


 篠原は少し考える仕草をした。


「そーね、和気先生は絶対失敗しない先生だからね」

「そうなんですか、意外です」


 篠原はそう? と言いながら、今日使うタオルを畳んでいた。


「はい、和気先生って、こう言っては失礼ですけど……どちらかというとあまり優秀というイメージは無かったので」


 篠原はそれを聞いて、悪戯な笑みを浮かべた。


「そーねー、それも合ってるっちゃあ合ってるけど。ま、いずれ分かるわ」


 絶対失敗しないけれど、優秀なわけではない。この一見矛盾している事実をどうすれば説明できるのだろうか。本当はもっと詳しく聞きたかったが、篠原が早めに到着した外来患者の対応に行ってしまったので、裕太はそれ以上は聞けなかった。


 そうこうしているうちに、和気が1番診察室に入ってきた。


「和気先生、よろしくおねがいします」

「お、よろしくね」


 和気は机に座ると、パソコンの電子カルテを開いてログインをした。


「城光寺先生、ぼくの外来初めてだっけ? 時間あるから簡単に外来の極意というかコツ、教えてあげようか」

「はい、ぜひお願いします」


 裕太は患者家族が座る椅子に座り、1番診察室で和気と向かい合う形になった。


「ぼくのポリシーはね、失敗しないこと。医療においてミスは許されないからね。今は患者さんたちを守るだけじゃなく、ぼくら自身の身も自分で守らなくちゃいけない」

「ぼくらも、ですか?」

「そう、簡単に言えば、裁判だよ」


 裁判。裕太はどこか遠い国の出来事かと思っていたが、知り合いの知り合いには訴えられて大変なことになった人の話を聞いたことがある。たとえ自分に非がなくとも、訴えられてしまった場合、何度も話し合いや、実際に裁判所に出向かなければならず、時間の消費のみならず精神的なダメージも計り知れず、最終的に医者を諦めなければならなくなった人もいると聞く。

 おはよーございまーす、と言いながら篠原が紙の入ったA4サイズのクリアファイルを所定の位置に置いて行った。患者さんが来た、という意味だ。


「早速だから、ぼくの外来、そこで見てていいよ」


 はい、そう言って裕太は近くの椅子に座って和気外来を見学することになった。


 ピコーン、という呼び出し音のあと「1番の番号札をお持ちの方、ライオンの部屋へどうぞ」と和気はマイクでアナウンスした。すると、診察室のドアが開き、一組の親子が入ってきた。


「おはようございます」母親がそういうと、荷物を置き、椅子に座った。


「おはようございます、確認のため、お名前をフルネームで教えてもらえますか」


 母親が、はい、と言ってから、吉田 廉人です、と告げた。


「ありがとうございます。今日は研修医の先生が一緒に診察を見学しますがよろしいですか?」


 母親はちらっと裕太を見てから「どうぞ、構いませんよ」と答えた。

 こうして和気外来が始まった。患者さんは1歳2ヶ月の男の子、二日前から鼻水が出ていて、今朝から熱が出たとのことだった。和気が今までにかかった病気はないか、薬でアレルギーが出たことはないか、家族、親戚で特別な病気を診断された人はいないか、などを事細かに問診していった。それを電子カルテに打ち込むべく、パソコンのキーボードを叩いた。


「では診察します」


 母親が男の子の服を捲り上げた。そのまま和気が聴診器で胸を聴診する、じっくりと丁寧に、その顔は真剣だった。


「はい、背中」


 母は子どもを前後ひっくり返し、子どもの背中を和気に向けた。そして、背中をじっくりと聴診する。


「もう一度前見せて」


 また元の位置、母と子どもが同じ方向、和気の方を見る形になった。その後和気は指先、腕、足、首、と気になる皮疹(皮膚にある異常なサイン)が無いかを見ていった。


「では耳診まーす」


 そう言って、耳鏡と言われる耳の中を虫眼鏡の仕組みで拡大して見ることのできる器具を取り出した。ライトも点くので、暗い耳の中もよく見える。両方の耳を丹念に見終わってから、そのまま舌圧子とよばれる舌を下に押しつける、アイスの棒のようなものを取り出した。


「じゃあ、喉診まーす、看護師さーん」


 はいはい、という声とともに篠原がかけつけた。


「おかあさん、ちょっと動くと危ないので、看護師が押さえますね」


 押さえられたことで、1歳の廉人君は何かに感づいたのか、突然大声で泣き出した。


「はーい、ちょっとだけ頑張ろうね」


 そう言いながら、舌を押し下げ、扁桃、咽頭とよばれる喉を覗き込んだ。その後、器具を片付けた。


「お母さん、診察する限り、特記な所見はありません。ただ念の為、肺炎になってないか、レントゲンだけ撮らせてもらってもいいですか」


 母は気にする様子もなく、「はい、わかりました」といってファイルを受け取ると、レントゲン室に行くよう指示された。親子がいなくなってから、和気が鋭い眼光のまま裕太を振り返った。どうだ、という表情だった。


「分かった?」

「はい、すごく丁寧ですね、自分だったら、ただの風邪かと思って耳の診察まではしなかったかもしれません」

「そこが落とし穴だ」


 和気が、口元をきりっと締めた。


「以前、そうやって耳を診察しなかった患者さんが、後から中耳炎と分かって怒鳴り込んできたことがある。それからぼくは全員耳は診るようにしている」


 そうなんですか、と裕太は頷いた。


「レントゲンまで撮るんですね」


 和気は得意げに頷いた。


「まだ君は経験が浅いからわからないかもしれないが、風邪症状の中には『異物誤嚥いぶつごえん』が紛れている。知っているか?」

「あの、ちっちゃいおもちゃとかを飲み込んじゃうやつですか?」

「それは誤だ。誤飲はボタン電池や磁石でなければ、ほとんど大したことはない。便と一緒に出てくるだけだ。ただ、誤は違う。異物が肺に入るから、命に関わるんだ。以前風邪と思われて数日何もせず様子をみられていた子が実は異物誤嚥が発覚して、危ないところだったんだ。そういった見逃されやすいポイントをちゃんとひっかけられるか、それがヤブ医者と本当の医者の違いだよ、分かった?」


 裕太は、目を見開いて和気の話を聞いていた。千賀のほとんど教えてもらえない指導に比べたら、このような自分が知らなかったことを色々教えてもらえることに感動すら覚えていた。結局レントゲンから帰ってきた母親は和気の説明を聞き、納得して帰っていった。


(適当そうに見えて、意外とちゃんとしてるんだな、さすがだな。もっと学ばせてもらおう)


 そんな決意を持って裕太は2番診察室、通称ぺんぎんの部屋で外来診療を始めた。


 何人か診察した後、裕太は判断に悩む症例に当たった。5歳の女の子、左乳首の上あたりにしこりがあるというのだ。本人は至って元気で、母親もそこまで心配していないが、一度診てもらおう、というくらいの気持ちでやってきたのだ。


「和気先生、相談コンサルトいいですか」

「どうした?」

「5歳の基礎疾患(今かかっている病気)の無い女の子で、全身状態良好なんですが、左乳首の上あたりに1cm大のしこりがあります。可動性良好(触ると良く動く)で、表面の平滑(ゴツゴツしていなくて滑らか)なんで、特に検査せずに帰していいかなと思ったんですが、一応先生に相談したくて……」


 和気の目が突然鋭くなった。


「血液検査は?」

「え? いや、元気そうだったんでしてませんけど」

超音波検査エコーは? CTは?」

「いや……何もしてません」


 和気は大きくため息をついた。


「確かに元気そうかもしれないけど、何があるかわからないでしょ。城光寺先生はしこりのある患者さん何人診たことあるの? 経験がないなら検査いっぱいしないと。大事な疾患見逃したら大変なことになるよ?」

「そ、そうですか。すみませんでした。では血液検査と超音波検査エコーとCTですね?」


 和気は視線を泳がせ、半分イライラしたような表情を見せた。


「だからまあ、どこまでやるかは先生次第だけど、わからなかったら検査しないとダメでしょ? 裁判で負ける時はね、医師の診断が間違っていたという事より、やるべき検査をしなかったことが問われるんだ。医師の診断力は誰も測れないけど、するべき検査をしなかったのは明らかに罪に問われるからね!」


 はい、すみません、裕太はそういって、再び女の子とお母さんを2番診察室に呼び入れた。そして、念の為検査させてほしい旨を告げた。それを聞いて、5歳の女の子は大きな声で泣き出した。


「あれ、検査嫌いだったかな」


 母がそれをなだめながら答えた。


「はい、予防接種とか血液検査とか針で刺されるの大の苦手で……。先生、どうしてもやらないといけないんですよね?」


 ひょっとしたら帰れると思っていた女の子は嗚咽をもらしながら大号泣している。自分も正直そこまで検査はいらないと思っていた手前、なんとも複雑な心境になった。しかし、和気の言っていた通り、何があるか分からない。心を鬼にして裕太は答えた。


「はい、万が一ということがありますから、検査はさせてください」


 だってなっちゃん、そういって母親は女の子をなだめていた。


 その後、血液検査とエコー、CT検査が終わり、特に明らかな異常は認めなかった。実際に母親に説明する前に、その旨を和気に報告することにした。


「和気先生、先程のしこりの子、CTまで撮りましたが、何もなさそうなので、帰そうと思います」


 言い終えた直後だった。


「読影は?」

「え?」


 読影というのは、CTの画像などを専門家にみてもらう事である。もちろん指示を出した医師がCTの画像をすぐに確認するのだが、それを放射線科医という画像評価のスペシャリストに頼んで本当に見落としがないか、などみてもらうことができる。

 しかし、病院内に放射線科医がいればいいが、いない場合は他の機関に依頼するため、結果が帰ってくるのが数日後になることもある。

 今回の場合、総合的に判断して裕太は異常なしと判断したのだが、和気は念の為専門家の意見を聞くまで判断は下すな、という指導をしたのだった。


「読影の結果を見ないと安心できないよ」

「そうですか、大丈夫そうなんですけどね……なんなら先生今、CT画像一緒に見てみませんか?」

「だーかーらー」


 和気は苛立ちを露わにした。


「ぼくがみてもいいけど、それで何か変わる訳じゃないでしょ? 結局読影に回すんだから、それでいいじゃない。読影の結果が出るまではご家族には少しの異常も見落とさないように注意してもらって、何かあったらすぐ駆けつけるように言うんだよ、分かった?」


 裕太は、はい、と言いながらも


(1ヶ月前から今日まで調子変わらないのに、明日明後日で何か起こるんかな……)


 という疑問で頭の中がもやもやしていた。

 そのもやもやを抱えながらも母親に説明すると、思ってもみなかった反応が返ってきた。


「えー! 先生、何か悪い物でもあったんですか?」

「いえいえ、私が見る限りは何もなかったんですが、万が一ということもありますので」

「でも、その専門家? に頼むってことは何か疑っているってことですよね」

「いや、疑ってはいないです。でも専門家にみてもらった方がより安心といいますか、ガンの見落としも減りますし」


 母親の顔がひきつった。


「やっぱり……ガンもありうるんですね」

「いや、無いとは思っているんですが、それを確認するために、一応専門家の意見も聞きましょう、という話です」


 母親は顔を青ざめさせ、口数が少なくなった。


「結果は明後日にはわかるんですか?」

「はい、わかると思います」

「それまでは家でじっとさせていた方がいいですか? 外にも出ない方がいいですか?」

「いや……そこまでしなくてもいいとは思いますが、念の為家の中にいられたらその方がいいかもしれません」


 裕太もこのような場合、どう言っていいかわからなかった。そもそも今何かの病気を疑っているわけではない、そのぼんやりとした問題点に対し、どこまで慎重になればいいのか、実際に細かいことを質問されるとなんと答えていいのか返答に困ってしまった。

 

 午前中最後の外来患者を診察して、裕太はふう、と重い息を吐いて、椅子の上で思いっきり、伸びをした。


「センセー、おつかれー」

「篠原さん、疲れました」


 篠原が悪戯な笑みを浮かべた。


「どうだった? 失敗しない外来」

「そうですね、外来って色々気をつけなくちゃいけないことがあって大変なんだな、って実感しました」


 篠原は頷きながら、でしょう、と得意げに答えた。それから辺りを伺って、和気がいないことを確認した。


「センセ、見せてあげようか、すごいの」


 篠原の釣り上がった口角、これから見せてはいけない何かただならぬものを見せてもらうような気がして、裕太の心拍数が上がり始めた。それからつばをごくりと飲み込むと、大きく頷いた。それから篠原が持ってきた一枚の紙を裕太は食い入るように見つめた。そして持っていたスマホで一枚それを写真に収めたのだった。

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