他山の石

 裕太は1番診察室、通称ライオンの部屋の横に立っていた。


(これ、この前の水野先生と同じじゃないか)


 本日は裕太が外来担当の日。診察した患者さんの診断に悩み、千賀に相談したいことがあったのだ。


「……じゃあ、お薬と吸入の準備しますから、待合で待っていてください」


(よし今だ!)


 裕太が千賀の横に張り付いた。


「千賀先生、相談コンサルトいいですか」

「ん?」

「1歳6ヶ月の男の子、既往はありません。二日前から熱と鼻水があって……」

「は? で君何が言いたいの? 言いたいことまとめてからきてくれる? こっちだって暇じゃねえんだからさ」


 ピコーん、56番の番号札お持ちの方、1番診察室へどうぞ、と千賀がマイクで声を上げた。時間切れである。裕太はすごすごと1番診察室を出た。


(内容すら言わせてもらえなかった……)


 その後何度か外来の切れ目で相談のチャンスを伺い、やっと相談内容を伝えることができたが


「……で、君、それジアノッティ・クロスティは?」

「へ? ジアノッティって、B型肝炎の?」


 2年前に受けた国家試験でジアノッティ病というB型肝炎関連の病気があることは記憶の片隅に残っていた。しかし、それがなんなのか、すっかり忘れていた。


「ちげーよ! ジアノッティじゃねえ、ジアノッティ・クロスティだ。そんなのも知らねえのかよ。お前本当に2年間何してきたの? 分かんなかったらまず調べてこい」


 そう言い捨てると、次の患者を呼び出した。


(調べるって今から? 患者さんずっと待たせてるのに? 教えてくれないのかよ)


 裕太は泣きそうになりながら、医局に戻った。そして手当たり次第に病気が載っていそうな本を片っぱしから開いていった。


(ジアノッティって言ったら、B型肝炎だよな……)


 こうしている間も患者さんはずっと待っている、焦る気持ちを抑えながら必死で調べていると、裕太のPHSが鳴った。


「はい、城光寺です」

『城光寺先生? 三山君のお母さんがまだですか、って心配してますけど』

「あー、はい、もうちょっとしたら行きますから……はい」


(まずい、全然わかんない。どうしよう……)


 ふと見上げると、医局の机に整然と座る九条が目に入った。


(嫌なやつだけど……)


 裕太は思い切って九条に声をかけた。


「あの九条先生?」


 九条が目線だけ上にあげた。


「ジアノッティ・クロスティって分かる?」


 裕太はつばをごくりと飲み込んだ。無視されるかもしれない、プライドをズタズタにされるかもしれない、そんな衝撃を想定して身構えた。

 九条は再び視線を机に落とすと、


EBイービー(エプスタイン・バー)ウイルスとか、いわゆる風邪のウイルスによる皮疹だろ、それがどうしたの」

「それ疑ってる人いてさ、治療とかどうしたらいいのかな」

「何もしないよ、B型肝炎とか疑わないんでしょ、全身状態よければ経過観察。勝手に治るから」


(やっぱ優秀だなこいつ)


 そう心の中で叫びながら「ありがとう」と言って、2番診察室、通称ぺんぎんの部屋に戻った。


「……ということで、三山さん。全身状態もいいですので、様子を見ましょう。症状が悪化するようでしたらまた来てください」


 診察が終わり、裕太はふうと息をついた。


(九条先生だったら、この程度の症例では悩まないだろうし、患者さんも待たせずに安心してもらって帰すことが出来たのかな)


 早速見せつけられた知識の差に、裕太は通常の疲れ以上の重みを身体中に感じていた。


 昼休み、休憩室で裕太は昼食を食べていた。お弁当屋で注文した特製のりタル弁当だった。のりべんの上に、白身フライ、からあげ、メンチカツが乗っており、特製ソースがこのどの揚げ物にも絶妙に絡み合う、裕太の大好物だった。


「……ってなわけよ。千賀外来、寿命の消費半端ないって」


 裕太は水野に午前の外来のことを話した。


「そっかぁ、城光寺君にもそんな感じなんだね」

「ってか伊井先生、ジアノッティ・クロスティなんて分かる?」


 ステーキ重弁当をほおばっていた伊井が、ん? と声を上げた。口の中のものをごくりと飲み込んでから答えた。


「ジアノッティってB型肝炎B肝だろ?」

「そう思うよな? 水野先生知ってた?」

「僕もB型肝炎B肝だと思ってた。違うの?」


 裕太は満足げに頷いた。


「だよな、でもB型肝炎B肝が関係するジアノッティ病とジアノッティ・クロスティ症候群って違うんだって。それを『お前、そんなんもしらねーのかよ』とか言っちゃってよ。まじでおかしいよ、あの人」


 伊井が神妙な面持ちをした。


「これは……部長案件だな」


 いつにない伊井の真面目な表情に、2人は箸が止まった。


「伊井先生、なんて?」

「みんなで部長に報告しにいこう。これは明らかに外来に影響がでるし、部長も責任者としてこの状況を知っておきたいんじゃないかな。それに以前初期研修医の時、研修医みんなで責任者に報告したら、それで環境が改善したこともある」


 いつもはチャラチャラしてだらしないが、こういう時は人生経験豊富な伊井は頼りになるかもしれない、伊達に自分より10年ほど年とってないな、裕太はそんな事を感じていた。


「部長の山田先生かぁ、さっき歩いてたけどね」


 それを聞いて伊井がゆっくり頷いた。


「よし、行こう」


 3人は声を出さずに頷いた。

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