悪夢招来
幸せの頃の記憶がかすかに残っている。若い両親だった。頼りないながらもひたむきに頑張って、たくさんたくさん愛してくれた。そんなぼんやりとした記憶が、頭の片隅に、浮かんでは消えていく。だから、天乃リヴァは愛を知って育ったのだ。
――不幸というのは幸せではないということだ。
幸せを知らなければ、不幸は成り立たない。だから、あの日々を不幸のどん底だと思うのならば、確かに幸せを知っていたのだろう。
――硝煙と血のにおい。
覚えていない。その幸せは、どんな色をしていて、どんな形だったのだろうか。覚えていない。どうしてその場に居合わせたのか。カビ臭い鉄の塊と、飛んでくる鉛玉。そして、血のにおい。温もりが手のひらから零れ落ちていく。命が滑り落ちていく感触は、よく覚えている。
天乃リヴァの不幸な日々は、そこから始まった。
言葉が分からない大人たちに囲まれた世界。罵声と暴力の世界。鉄のにおいと血のにおいは似ている。縛られた手首がずきずき痛んだ。すぐに慣れても、思い出した時に痛み出す。
――地獄を理解した。
何をされたのかを覚えている。痛いこと。嫌なこと。もっと嫌なこと。大人は子供の言うことを聞いてくれない。嫌だと叫んでも。やめてと縋っても。だから大人は嫌いなんだ。硝煙と血のにおい。また誰かが死んだ。次は自分かもしれない。そうなれば、この地獄から解放される。でも、身体は震えて震えていうことをきかないのだ。
――死は当たり前で、だからこそ生がより際立つ。
☆
「うわぁお、アメージング……」
ジョン=シーカーは顔を引きつらせた。自他ともに天才と認められる桜主任は新技術の開発や真理の究明を得意としていたが、イマイチ頼れない副主任はその逆。既存の技術の応用や道具の整備を得意としていた。こういった精密検査やデータ管理は、感覚派の技術主任よりは機械いじりが生きがいの副主任に軍配が上がる。
らしい。
本人談である。
一連の事件の容疑者、天乃リヴァ。様子のおかしい彼の精密検査は、そんなわけでシーカー副主任が担当しているらしい。龍征と光はその様子をじっと見つめている。
「ここまでの幻覚を映像化してみたけど……再現映像でこんなに精巧に映るとはね」
「副主任、今のは天乃リヴァ本人の体験ではないと?」
「うん……ううん」
「どっちだよ」
いまいち煮えきらないシーカー副主任に、光も龍征もやきもきする。ここまで進めてもらうのにもそれなりの交渉をしたのだ。彼は彼でどうにも気が進まない理由があるようだ。
「事実として、こんな事件はなかった。というか考えなくても非現実的だって分かるだろうに…………」
「副主任、ではどういうことなのですか?」
「怖い顔しないでよ光ちゃん。事実として経験はしていない。しかしながら、この映像は確かに彼の体験として根付いている」
体験。彼はこの地獄を、その身を以て経験した。その経験は覆しようもなくリアルであり、本人の人格形成に影響を及ぼしている。現実と経験の乖離。それこそ非現実的な現象である。龍征は訳が分からず、謎の機械に覆われたリヴァの身体を見た。
「シナプスの結合、大脳皮質、海馬、扁桃体……めちゃくちゃだ、こんなもん。でも、きっと意図してこの地獄を彼の頭の中に顕現させたんだと予想される」
「そんなことが」
「ドライブゲンマ。あれには電気信号や神経情報に干渉する性質がある。そんな顔しないでくれ。これは機密だ。特に光ちゃん、桜主任のような天才タイプである君には、再現されるリスクが孕んでいる」
「……ちゃんづけ、はやめて下さい」
真っ白のマグカップをシーカーが揺らす。インスタントのブラックコーヒーをストローで啜りながら、キーボードを二回叩く。表示されたデータは天乃リヴァに関することではない。それは星獣に関するデータだった。
「オーケー。代わりに教えておいてやるよ。君たちが戦っている星獣について、僕はそれなりの仮説を持っている。……主任には一蹴されたがね」
龍征の頭ではついていけない。難しい話は頼れる先輩に任せるとして、取り敢えず神妙な顔でリヴァの方を見る。その指先が痙攣しているのが確認出来た。
「星獣、岩石が凝り固まって産まれた化け物。その伝承は太古の時代より散見されている、というのは聞いているね?」
(へえ、そうなのか)
龍征は神妙な面持ちで頷いた。
「その岩石というのは、どうやら何でもいい訳ではないんだ。古来の伝承も中々バカに出来ない、と僕は思う。星獣が産まれたとされる場所の地質をサンプリングしていたら、ある共通点が見つかったんだ」
シーカーが光を見た。顎を擦って目で何かを語っている。光は、真顔で無言。そのままたっぷり一分間が経過した。根負けした光が口を開く。
「ほう、果たしてその共通点とは?」
「よくぞ聞いてくれた。それはね、星、なんだ。過去、彗星や小惑星なんかが衝突したかもしれない場所が多く含まれていた。要するに、地球に落下した天体の岩石だね。記録がないだけで他の全ての場所もこうした特徴を有していると考える」
「それは」
「こじつけ、とでも言いたげだね。主任にも言われたさ! けど、そうでないと考えられないんだ。性質がバラけた岩石が、どうして一個の生体に結合するのか。星獣には惑星のような核はない。だから何かしらの共通項がなければ説明がいかないんだよ!」
「副主任、貴方は時折どうも主任に対して反抗心が強いですよ」
「黙らっしゃい! あの人は天才なんじゃなくて異常なだけなんだ! 人外には人間の天才は理解出来ないんだい! いや、確かにあの人はホントにすごいけどさあ……」
「不満たらたらじゃないですか」
シーカー副主任は無視して再びキーボードを叩いた。どこか、古めかしい壁画がいくつか表示される。それが星獣を模しているのだとシーカーは語る。そのどれもが天を仰いでいた。まるで、何かを欲するかのように。何かを求めるように。壁画を見て、龍征がぽつりと一言。
「なんか、寂しそう、だな」
「そうなんだ! やはり凡人の感性もバカに出来ない!」
「誰がバカだコラ」「天道、少し黙って」
「星獣は結合を欲している。だが、彼らを構成するはずの原料の多くは遥か遠くの宇宙の彼方にあるんだ。月から放射されるドライブゲンマは、彼らにそれを思い出させる。岩石にどう作用しているのかは納得いく理論が組み上がっている! 宇宙から零れ落ちた小さな欠片が母なる星への結合を欲している! それが星獣の正体だ!」
荒唐無稽な仮説。研究者としては余りにも夢想家でロマンチストな発想。桜主任に一蹴されるのも頷ける。だが、それ故なのかもしれない。有り得ない。夢想的だ。そんな印象が逆説的に信憑性に繋がった。
だが。それでも。
「荒唐無稽。貴方ほどの研究者なら分かるのではありませんか?」
光は流されず、きっぱりと言い切る。
「…………そうさ。でも、君には、君のような人間には、決して理解出来ないことがある。どんな研究者にとっても、仮説は一つの信念なんだ。そこに浪漫を見出しては、研究に打ち込む。実証する。自分を貫く、それが研究者にとっての戦いなんだ」
分厚い眼鏡の奥で、二つの目が光った。龍征は、ギラギラと光るそれに覚えがある。自分を貫く、自分を張る。頼りなくとも、信念はある。シーカーに対する印象ががらりと変わる。
「ですが、今必要なのは「先輩、少し黙って」
彼は、研究者たるこの男は何を伝えたいのか。琴線に触れるところがあった。
「リヴァに必要なのは、なんだ。ドライブゲンマとか、星獣とかの根本はなんだ。俺はどうすればいい。多分アンタにしか答えは出せない。そんな気がするんだ!」
光は大人しく口を閉じた。声が震える龍征。光がその背中を静かに叩く。その真っ直ぐで切実すぎる視線に、シーカーの眼鏡が少しずり落ちた。ズレた眼鏡を直しながら、シーカーが声を上擦らせる。
「…………洗脳を解くのは簡単だ、僕ならばね。話はそれからだ。彼を今まで支えてきたバックボーンが全て嘘だと突きつけられる。その後に何が残る? 彼が彼自身である信念、というか……そんな軸を彼自身で掴まなければならない。
今のままでは、いずれ脳が焼かれて腐る。けど、精神が雪崩落ちるのとどちらがマシなんだ?」
「やらせない」
声が震える。小刻みに痙攣するリヴァの身体が目に入った。どちらが正しいか。そんなものの結論は出ない。だが、選んだものを真実とすることはきっと出来る。光がその背中に手を添える。震えが止まった。
「理由は俺が与える! 軸は一緒に見つける! アイツは戦える男なんだ! だから、アンタの力を貸してくれ! 頼むッ!!」
「理由を与える? そんな簡単に言うんじゃない。そんなものはまやかしだ。今見せた幻覚と大差ないぞ。信念というのは、人生を賭して自ら見つけ出すものだ。他人が介入できるものじゃない」
「違う。それは違います、シーカー副主任。事実、私は彼と接して、私を変えました。自分こそが、自分のみが最前線たるべきだと……そんなものは、ただの独り善がりでしかなかったのだと」
副主任が呆けた顔で龍征を見た。その身を剣と鍛えた日本政府が誇る最強の戦士。あの大道司光が、その身の輝きを変えたのだ。その事実がどういう意味を持つのか、彼女を近くで見てきたシーカーだからこそ、感じるものがあったのかもしれない。額に手を当てて、天井を仰ぐ。
「煙にまくなんて小細工が通じる場面じゃない。腹案はあるんだろうね?」
「もちろんです。天道、見せつけてやるぞ!」
「はい!」
何も分からないが、龍征は威勢良く返事をした。
それでも、信じる道が続いている気がしたのだ。
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