四、「天と光が交わる先に」
あんぱん
曇天、雨模様。降りしきる雨の中、力強いコバルトブルーの傘をくるくる回しながら光は歩いていた。リハビリを兼ねた二時間ちょっとの散歩道である。親骨七十センチの頑丈な傘(昨日買ったばかりの新品だ)の手元を上機嫌で擦りながら。
どんな雨だろうとこの頑丈な大傘があれば大丈夫。
なんたってコバルトブルーなのだ。
光は足の調子を確かめるように地面を踏みしめた。もう完全復活と言っても差し支えないだろう。しかし、未だ精密検査やら経過観察やらでスケジュールが埋まるのは甚だ不本意なところだ。もう杖をつく必要すらないのに。ここまで約二時間、歩行に支障はなかった。スタードライブシステムの身体機能向上と光本人の異常な回復力の併せ技。医者や研究者たちにはそれも未知な領域なのかもしれない。
光は杖の代わりに小ぶりな海色のエコバックを握っていた。彼女にしては珍しい間食である。小腹でも空いたのだろうか。それなりに大食らいな彼女には、薄味の病院食はどこか物足りないのだ。今日は一週間ぶりの帰宅である。採石場の激戦から、光は入院生活に逆戻りだった。二日前に退院した後輩に、微妙な敗北感を抱きながら。今日からは自宅での経過観察だった。というか、ただの長期休暇である。
酷使した肉体を休めるのは、確かに重要だ。しかし、その一方で事件は未解決のままでもある。騒乱の中心である星獣の笛は確保出来たが、星獣警報が発令されれば光は即座に最前線に駆けつける気でいた。軽重量のエコバックを揺らしながら、空いた小腹に誘われるまま路地裏でショートカットを狙う。
散歩道にはそれなりの人通りがあった。けれど、こうして細い路地裏に入ってしまうと途端に人の気配が霧消する。雨音がピタピタ響いた。淡い水色の長靴を鳴らしながらふと足を止めた。無音。それでも確かに気配を感じた。
光は、視線を落とす。何かを見つけたようだ。静かにしゃがみ、コバルトブルーの傘を傾ける。背中が少し濡れるが、彼女はあまり気にしない。身を叩く雨粒が突然消えたのだ。不審な視線が光に刺さる。が、爪楊枝のような攻撃力。日本国の平和を担う防人には通じなかった。
にこりと光は笑いかけた。雨に濡れたその頭を優しく撫でる。びくり、と固くなる。いきなり触られてびっくりしたようだ。それでも、その優しい手つきに心が徐々に解れていく。やがて首を倒して甘えるような仕草を取った。微笑ましい光景である。きゅるきゅると、不思議な音。それが腹の虫だと直感した光はエコバックをごそごそと物色する。
「食うか?」
あんぱん。外を包むやわらかい生地は、日本独自に進化したパンの形だ。ふんわりとした生地に包まれる甘味の強い餡。こしあん。貪るように食べる姿を眺めると、自然と頬が緩んでしまう。よほどお腹が空いていたのだろうか。光はエコバックから二個目のあんぱんを取り出す。
慌ててがっつき、むせた。光は紙パックの牛乳を差し渡す。ストロー付きの嬉しいやつだ。もしかしてこの雨粒だけで乾きもしのいでいたのだろうか。そう考えると、堪らなく不憫になってくる。光はもう一度頭を撫でる。下を向いて、借りてきた猫のように大人しくなる。
「っっ、っ!」
なにか、込み上げてくるものがあった。光は雨で濡れたその身体をしっかりと抱き締めた。傘を傾けて、濡れないように。そして、静かに立ち上がる。妙な決意がみなぎっていた。
「よし、ウチに来いッ!」
力強い言葉だった。
☆
未だに龍征には帰る家がなかった。頼めばなるはやで物件でも手配してくれたのかもしれないが、一人暮らしをする気にはなれなかった。事実、本部暮らしに不便はない。それに、透明なガラスの向こうで眠る老人を置いて、新居に移る気にはなれない。
(じいちゃん、俺やったぜ)
途中で気絶していた龍征は、激戦の結果だけ聞かされていた。鎧こと天乃リヴァこそ逃がしたが、星獣の笛を回収したことで星獣被害は収束しつつあった。それでも、受けた爪痕はなくならない。老人は目を覚まさない。龍征は浮かない顔のままあんぱんに噛みついていた。つぶあんである。
「退院おめっと、龍征ちゃん♪」
もはや聞き慣れたオカマが龍征の肩を叩く。いつのまにそこにいたのだろうか。そんなこともすぐにどうでもよくなるくらい、龍征は呆けていた。あんぱんが口に挟まってもごもごする。
「燃え尽き症候群? まだまだ気は抜かないで欲しいんよ☆」
あんぱんには牛乳である。それは特異災害対策本部共通の認識なのだろうか。桜主任の手には牛乳瓶が握られていた。それも二本。まずは自分の分の蓋を開ける。ぐるぐる回しながら勢いよく一気飲み。凄まじい速さだった。
「ッ!?」
驚愕にあんぱんが口から抜ける龍征に、オカマがしたり顔を浮かべた。落ちるあんぱんを空中でキャッチし、もう一本の牛乳瓶と一緒に手渡す。多少落ち着いた龍征がその手を伸ばした。
「あざっす」
「お爺様、目を覚まさないわねん★」
「ああ……そうッスね。まったくいつまで寝てんだか」
「もう起きる見込みはないって言ったら?」
龍征は、あんぱんを咥えようとして固まった。技術主任は何気ない顔でこちらを見ている。牛乳瓶のキャップを開けて、龍征は深く溜め息を吐いた。
「葬式会場でも突きつけられないと、あのじじいが死んだって信じません」
「んん?」
「なんか、このままくたばるほどマトモな生き方してない気がするんですよ」
「意味深♪」
あんぱんをむしり、牛乳で放り込む龍征。その視界の隅でちらりと捉えていた。あの老人、天道竜玄の右手がぴくりと動いたことを。特に驚きもしない。見間違いだとも思わない。
(ほらな、やっぱり)
ただただ不満なだけだった。
いつまで寝ているのか、と。
「桜さんは休憩ですか?」
「うん☆ 実験が軌道に乗り始めてねん♪ いくつか用意していた仮説の一つがカッチリ嵌まった感じかなー? 今はシーカーに細かい調整をお願いしてるのん♪」
技術部門の急務は、星獣の笛の原理解明。そして、そのルーツがどこにあるのか。同じような兵器があるとするならば、即時回収を目指さなければならない。それに、星獣を操る術を普及出来れば、それこそ星獣問題そのものが解決する。
「星獣の笛、これさえあれば今後の星獣案件はぐっと解決に近付く。龍征ちゃんも光ちゃんもよく頑張ったわ。あとは、大人たちに任せておきなさい♪」
そうか、と龍征は納得した。そうなればスタードライブシステムは不要のものとなる。自分たちの役目が終わるのだ。この強大な戦力が今後どう管理されるのかは、龍征には考えも及ばないことだったが。
「事件の首謀者、天乃リヴァも目下捜索中。ここだけの秘密だけど、その包囲網は確実に狭まっている。捕まえるのは時間の問題。星獣がいなければこちらの戦力で十分撃退可能。指揮はあの司令が直々に執ってるし……ま、大丈夫でしょ。それより、龍征ちゃんは大丈夫なのん? だいぶ痛めつけられたって聞くけど★」
「んー、俺は退院のプロっスからねぇ。全然元気に動きますよ」
「ふぅん……?」
上の空で龍征は答えた。
一連の事件の解決。それは願ってもないことだったが、どこか引っ掛かる。このままリヴァを捕らえて、ドライブ2を回収して。それで本当に解決か。めでたしめでたしなのか。どこか、もやもやする。
「それより……先輩、大丈夫かな」
「あらん♪ あの子を心配するなんて立派になったじゃない★」
残ったあんぱんを牛乳で流し込む。甘い。ねっとりする甘さだ。光が心配なのではない。龍征にしては珍しく、そんな自分のメンタルをしっかりと掌握していた。あの先輩は、下手すればそこで寝ている老人に匹敵する偉丈夫だ。だから、心配なのは自分だ。そして、この先の展望だ。底知れない不安は、握った拳では解決出来ない。
(天乃リヴァ、思えばいい喧嘩相手だったのかもしれない。そんなことを考えていい奴ではないけど、な)
龍征は、知らず知らずにあの鎧を認めていた。だからこそ、自分の関知しないところで全てが終わってしまうのが恐ろしいのかもしれない。自分を抑えきれなさそうで。
「そんなに気になるなら、会いに行けば☆」
「ん?」
「彼女、今日はもう退院してオフのはず。そんな様子なら見舞いすらロクに出来ていないでしょ♪」
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