獣のねがい

おおやま あおい

第1話

 本日のサウストは、一段と賑やかであった。

 広場へと続く大通りには見慣れない露店が立ち並び、街中が食べ物の匂いと活気のある声で包まれている。


 月に一度開催される定期市よりも規模の大きい今日の商い祭りは、年に一度だけ開催される。国内はもちろん国外からも多くの商人が集まって、税を取られることなく自由に商売ができるのだ。いつもは手に入らない貴重な品を求めて、街中の人間が通りを埋め尽くしていた。白を基調とした建物が多く集まるサウストだが、色とりどりの露天が並んだために、今日はまるで異国のような顔を見せている。 


 商人たちの飛び交う呼び声に、ごった返す人々の群れ。様々なものに目と心を奪われる今日この日、プリマはひとり、人混みに揉まれ埋もれながら、ある目的を果たすために彷徨っていた。


 家族連れ、仲睦まじい二人、友達同士……普段ならプリマの心を孤独にさせるそれらはしかし、今日は違う。


(どうかそのまま、私には気付かないで)


 彼らの瞳に、プリマが映ることがないように。ただ景色の一部として機能していますように。


「さあさあ! この国じゃ滅多に手に入らない極上の絹織物だ! 今日この日のためだけの大っサービス! 見るだけでも損はねえ! さあさあたっぷりと見ていきな!」


 プリマは威勢のいい男商人の声に足を止めた。目を向ければ、見えたのは婦人たちの群れだった。声の主である商人の男がどこにいるのかも分からない。押し押されながら、彼女らは色とりどりの絹織物を手にとっている。僅かな隙間から見える看板を見れば、心配になるほど破格の値段で絹が売り出されているらしい。きっと故郷での売れ残りだろう、極上の絹織物とは誇大広告だ。とは思ったが、この国では絹は貴重だ。多少劣っていようがあれほど人が群がるのも無理はない。


 プリマはしばらく立ち止まってから、そちらにゆっくりと足を進めた。

 婦人たちの目は今、絹織物に奪われている。プリマを見る目など、もはや存在しないはずだ。

 心臓の鼓動が早くなり、手が汗で湿る。

 もみくちゃになっている群れの中に、小銭の入っているのであろう革袋を、腰に下げている婦人を見つけた。プリマはポケットの中に忍ばせた小さなナイフを、手の中に隠すようにしてそっと取り出す。

 こんな小さな小銭袋だ。絹を買いに行くような生活をする者の全財産な訳がない。家に帰れば、裕福な暮らしが待っていることだろう。

 そう自分に言い聞かせて、プリマは背伸びをしたりしながら、人を押しのけるようにして群れにとけ込む。他人の目には、ただ絹を見たい女に映っているはずだ。

 そして左手が、小銭袋を括っている紐を捕らえた。婦人はまるで気付いていない。

 緊張で体が強張る。力を入れていないと手が震えだしてしまいそうだった。

 それでも勇気を振り絞って――勇気という表現が正しいのかは分からないが、ナイフを持った右手をそこまで移動して、プリマは素早くその紐を断ち切った。左手で小銭袋を掴むと、人にぶつかりながら、その群れを抜ける。


 少し離れた場所で、つかの間プリマは立ち尽くした。心臓の音が耳元で鳴り、全身から汗が噴き出している。

 求めたものは、いとも簡単に手に入ってしまった。犯した罪の重さとその手軽さが恐ろしくて、眩暈を起こしそうになる。無数の視線が自分を殺すのではないかと思っていたが、道ゆく人は愚か、絹を求める婦人たちも、プリマの存在すら気にしていない。目があったのは唯一、道の真ん中に建てられた、慈愛の女神の像だけ。慈しみに満ちた柔らかな表情が、プリマを哀れんでいるようにも見える。


(仕方がないのよ)


 とにかくここから離れなければ。プリマは像の目線を振り切るように、流れる人混みの一部に戻ろうと踵を返した。人の少ない場所へ移動し、中身を確認しなければ。


 しかしその動きは、小銭袋を持った左腕を掴まれて、止まった。

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