雨降りの今日
小綿
待ち惚け
ポータブルラジオが告げた天気予報は当たり、あわい朝ぼらけからひっそりと小雨が降り始めた。ベッドから這い出て、お気に入りの深緑のマグカップに並々とインスタントコーヒーを淹れる。暗い水面に角砂糖をふたつ、ミルクもたっぷり投入した。ティースプーンでかき混ぜて、ふうふう息を吹きかけて、ひとくち。まだ苦い。思いっきり顔を顰めて、仕方なくもうひとつ角砂糖を追加する。
本棚の前に寂しく佇んでいたステップスツールを東向きの窓際まで引きずり、その一番上の段に腰掛けて脚を胸にぴったりと抱き寄せ、小さく丸まった。窓の縁にマグカップを慎重に置き、羽織っていたローブを手で伸ばし全身を包み込む。冷え切った窓に寄りかかって、ちいさな水滴越しに世界を覗いた。雨の日は、何もすることがないから好きだ。
吐いた息でガラスが曇る。指で拭う。また曇る。拭う。右手の先が冷えていく。今日は、彼は此処へ来るだろうか。
彼がよく口遊む唄を、私も真似て歌ってみる。眠れないのと泣きついた私に、彼はよくこの唄を歌った。異国の言葉の曲だ。題名も、正しい歌詞さえ知らないこの唄はふしぎと私を落ち着かせる。足でリズムを取りながら歌って、口を閉ざして、またコーヒーを啜る。唄にも飽きたので、腕を伸ばしてラジオを点けた。ニュースには興味がない、トーク番組でもない、しばらくチャンネルを変え続け、結局いつもの天気番組を選んだ。どうやら午後には雨が止んでしまうらしい。それまでに、彼が来ますように。逆さに吊るしたてるてる坊主は、いつもにやにや私を嗤うように揺れている。
家の一階では昔、父がこじんまりとした古本屋を営んでいた。父亡き今、店は既に閉めてしまったが、その名残りである庇の下には未だに客がやってくる。彼も、そんな招かれざる客の内のひとりであった。忘れてしまったが、確か入用の品を近くの店に買いに行き、帰ってくると、庇の影に彼が立っていたのだ。どこか危うく、近寄り難い雰囲気の二枚目男にすっかり目を奪われてしまって、気づけば彼に近づいて口を開いていた。
『そんなところじゃ冷えてしまうでしょう』
『此処で温まっていけばいい』
雨の日だけ、雨の日だけだ。暗黙の了解だった。雨降りの日にだけ彼はふらりと現れ、日が出ると去っていく。そんなの構うほうが馬鹿らしかった。のめり込んではいけないことなぞ解っていた。けれど、彼を忘れることの方がとてつもなくむつかしかった。
私はもうひとつ欠伸をしてからスツールから飛び降り、壁一面の本棚の前に立った。ぎっしりと隙間なく本棚を埋める父の愛蔵書の前で視線を彷徨わせる。なんとなく、目についたものを手に取って読むのが私の好きな本の読み方だった。どんな物事もそうやって直感的に選べば、どうにかなるものである。大事なのは考え方だ。運ではない。
今日私の目に止まったのは、太宰治の『斜陽』だった。太宰の不倫した女性の手記が基になっていると云われるこの短編小説は、太宰作品の中でも私のいちばんのお気に入り。私も彼女を真似て手記を書いてみようか。画家の彼ならこんなぐちゃぐちゃな私のことも、絵の中では素敵な女人に仕立て上げてくれるかもしれない。
ぱらぱら頁を捲る。目立った損傷はないものの、角に折り目がついていたり、小さなコーヒーのシミがあったりする。黄ばんだ紙から立ち上る古書のにおいに、懐かしい父の姿を思い出した。雨粒が屋根を幽かに叩いている。ただただ、静謐な雨の朝だった。
それから時計の短針が一周、二周しても彼は現れなかった。手持ち無沙汰に、彼が忘れていったマルボロから一本取り出して、引き出しの奥に眠っていた安物のライターで火を点ける。見様見真似で吸って、吐き出す。咽せた。不味かった。
非喫煙者の家に灰皿なんてあるわけもなく、手持ち花火の要領で洗面器に水を張り、そこに捨てた。どうして彼はこんなものを好むのだろう、と波紋を描いて沈んでいった一本を見つめる。ブラックコーヒーも、たばこも、お酒だって、決して美味しいものではないだろうに。そんなことを言ったら、また彼にお子様だなと笑われてしまうだろうか。
彼はまだ現れない。嘘吐き、次の雨の日には来るって云ったのに。アイボリーのローブを意味もなく羽織り直した。
「いったいお子様はどちらかしら」
歌うように囁いて、またスツールの上で丸まった。
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