第10話

『初物』    木下流里


お母さんは、あまり縁起を担いだり、神仏に頼ったりしない。

けれど、初物にだけは妙なこだわりを示す。

秋になると必ず新米を買ってくるし、少し高くても初さんまを買ってくる。

どうしてなのかお母さんに聞くと、

「人生の中で絶対に一度しかないのが『初めて』だからかな」

と言った。

確かにその通りだと思った。

さんまを食べる機会は何度でもある。

それでも、今年初のさんまを食べられるのは一度だけだ。


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 文化祭でやる演劇の脚本が決まったことで、本格的に文化祭の準備がスタートした。

 準備に使える時間は、朝と放課後、昼休み、LHRだ。時間割変更で、文化祭準備に充てられる時間もあるけれど、それほど多いわけではない。だから、効率よく準備ができるよう役割分担をした。

 全体の進捗を管理して必要に応じて応援を要請したり、配置換えをしたりするのは、クラス長の笠原さんの役目だ。クラスメートからは総監督と呼ばれている。

 衣装を生地から作る技術も予算も時間もない。だから、自分たちが持っている服を改造して作ることにした。

 王様役はスーツっぽい服装、お姫様役は明るい色合いのドレスにできそうな服、魔女役は暗い色合いのワンピースのようなもの、とうザックリとした指令が出た。これは、キャストだけではなく全員に依頼が出ている。

 家に戻って早速クローゼットを調べてみたが、それらしい服はなかった。現役で活躍中の服と、衣装にはできない服しか出てこない。

 お姉ちゃんに聞いてみたら即座に断られた。

 お母さんに聞いたらやっぱり出せる服はないと言われた。

 他のクラスメートが何か持って来てくれることに期待するしかないかもしれない……そう思いながら、念のためにすみちゃんにも電話でお願いしてみた。

 すみちゃんの返事は「どうだろう、一応探してみるね」というものだった。お母さんやお姉ちゃんよりも前向きな返事だったけれど、やっぱり難しいような感じだった。

 学校でクラスメートの状況も確認してみたけれど、ほかのみんなも苦戦しているようだった。

 ドレスにできるような服で、しかも改造してもいい服なんてそうそうあるとは思えない。衣装になる服が揃えられなければ、何か別の方法を考えなくてはいけなくなる。

 その辺りは衣装担当の子たちが考えてくれるとは思うけれど、最初から壁にぶつかると、この先がもっと心配になってくる。

 ところがその日の夜、問題は一気に解決してしまった。

 樹梨ちゃんが大量の洋服を持って我が家にやってきたのだ。

「こんなにどうしたの?」

「私とすみちゃんの服と、すみちゃんがお友だちのところを回ってかき集めた服だよ」

 ドレスとしてちゃんとリメイクできそうな服がたくさんあった。

 中にはちょっとセクシー過ぎる感じのドレスまである。

「これって、どんな人が着てたの?」

「多分それはすみちゃんのお友だちの弁護士さんじゃないかな?」

「このかわいいのは?」

「それは私が披露宴とかで着てた服だね。ちなみに、すみちゃんにプロポーズされたときに着てた服だよ。それで、こっちがすみちゃんが着てた服」

 思わず顔が引きつる。ワタシはその二着を服の山の中から引き離すと、樹梨ちゃんの方へと押し返した。

「さすがに、これは借りられません。樹梨ちゃんがたちで大切に持っていてください」

 ついつい敬語になってしまう。

「気にしなくていいのに」

「気になるよ」

 それに、その二着を返しても服の量は充分にある。

「これ、全部持って行って、衣装担当の人と相談してもいい?」

「もちろん。あ、でもひとつ条件があるって」

 かなり高そうな服も混じっていた。どんな条件が出されるのか、ちょっと緊張して樹梨ちゃんの顔を見る。

「全部、処分しようと思っていた服らしいから、どうしてもらってもいいけれど、完成した衣装の写真を撮って送ってほしいって」

 それはワタシたちでも十分に応えられそうな交換条件だ。ワタシは笑顔で力強く頷いた。

 そしてワタシは、樹梨ちゃんから受け取った大量の服を抱えて登校した。

 大きな袋の服を詰め込んで運ぶ姿は、まるでコントに出てくる泥棒のようで少し恥ずかしかったが仕方ない。

 教室で洋服を広げると、みんなの歓声が上がった。

 衣装担当は服を選別して、自分で衣装を用意できなかった子にどう割り当てるか検討をはじめた。キャラクターのイメージに合ったデザインで、サイズも合わせなければいけないので少し大変そうだが、数に余裕はあるから大丈夫そうだ。

 樹梨ちゃんから伝えられた交換条件に付いてもみんなが快諾してくれた。本番前や本番後は写真を撮り忘れるかもしれないから、本番直前のステージ練習のときに写真を撮ろうということまで決まった。

 ワタシが持ってきた衣装を特に喜んでいたのが、王様役をするサララこと西浦紗良(にしうらさら)さんだ。

 最初のキャスティングで、背が高く少年っぽい印象のサララが王様役に選ばれた。普段着もパンツスタイルが多いようで、王様用の衣装は自分で用意ができていた。

 ところが、サララは王様以外にもう一つの役も演じることになっていたのだ。それが、栗山さんが改変した脚本の中で生み出されたオリジナルキャラクターのジャスミン姫だった。

 王様の出番は最初だけで台詞も少ない。それに衣装が全く違うので二役でも観客は混乱しないだろうという判断だった。

 サララはジャスミン姫の衣装が準備できずに困っていたのだ。

「ルリッチ、助かったよー」

 サララがワタシに抱き着いて感謝の意を示す。

「ホント? よかった」

「それにしても、こんなにドレス持ってる知り合いって、どんな人なの?」

「どうだろう? 叔母さんが色んな友だちから集めてくれたみたいだよ」

「やさしい叔母さんだね」

 すみちゃんを褒められるのはうれしい。文化祭が終わったら、すみちゃんにちゃんとお礼を言いに行こうと心に決めた。

 衣装の目処がついたところで、出演者は演技の練習に入ることになった。もちろん、今日まで各自で脚本を読んで、できるだけ台詞を覚えられるように練習はしている。

 最終稿となった台本の表紙は『Y版眠り姫』ではなく『百合版眠り姫』とはっきりと書かれていた。

 最初の練習では、円形に椅子を並べて出演者が全員揃い、順番に台本を読んでいくことにした。

 ときどき脚本兼演出の栗山さんがストップをかけて演技のポイントを伝えていく。ワタシたちはそれを脚本に書き込んでいった。

 一通りの流れを理解し、台詞も概ね覚えたところで動きを付けての練習に移行した。

 練習は二階のワタシたちの教室で行われる。

 舞台セットや小道具の製作は、生徒会から割り当てられた空き教室を利用していた。ワタシたちが使う空き教室は、かつてもっと生徒が多かった時に教室として利用していた三階の一室だ。作りかけのセットもそのまま置いておけるのでとても助かる。

 そして衣装担当は、一階の家庭科室の一角で作業をすることが多い。

 総監督は一階から三階までをまわりながら進捗確認をしなければいけないので大変だと思う。しかし、教室は演技の練習に全面を使えるのでこの配置は非常にありがたかった。

 シーンごとに演技の練習をしていくのだが、時間を節約するためにまずは二手に分かれることにした。

 Aチームは芝居前半のローズ姫誕生のパーティーシーン。Bチームは後半の茨の城からローズ姫が救い出される以降のシーンの練習をする。両方に出演する人は臨機応変に対応することにした。

 演出は栗山さんだが、双方を見ることはできないので、栗山さんはオリジナリティの強い内容のBチームを見る。そして、Aチームは大木君が見ることになった。

 演技なんてほとんどしたことのない人ばかりで、動きを付けた練習に照れや戸惑いがあるなか、栗山さんの情熱だけが先走っていた。

 最初の餌食になったのはリリー姫役のいずちゃんだ。

 机を並べて寝ているワタシ(眠り姫)を見つけて側に歩み寄る。

 すると途端に栗山さんのリテイクが入った。

「宇津木さんもっと感情を込めて! 辛い思いをしてここまで逃げてきたリリーが、運命の人を見つけて心が震えるシーンだよ。もっと全身でトキメキを表現して!」

 いずちゃんは「はい」と小さな声で返事をしているけれど、まだ、動きを付ける稽古をはじめたばかりだ。あまり高度なことを求められても再現する実力はない。

 さらにワタシが目覚めるシーンでも栗山さんの声が響いた。

「木下さん、そうじゃないの。百年の眠りから目覚めて戸惑うんだけど、目の前に運命の人がいるんだよ。その戸惑いと驚きと喜びを表現して!」

 このシーンだけで何回もやり直しをしていて先に進まない。

 栗山さんの中には確固とした理想があるのだろうけれど、それをそのまま演技することはとても難しいと思う。

 ワタシといずちゃんは目を合わせて疲れた笑みを浮かべる。

 困り果てていたとき、颯爽と現れてワタシたちを救ってくれたのは、総監督の笠原さんだった。

「栗山さん、栗山さんの言うことはすごくよくわかる。いい演出だと思うけど、まずは全員が詰まらずに最後まで演じ切ることを目標にしよう。そこから、少しずつシーンごとのクオリティを高めるようにしようよ」

 だけど栗山さんは少し不満気だ。

「階段と一緒だよ。一気に一番上は目指せないから、一歩ずつ行こう」

 笠原さんの一押しに、栗山さんはやや渋々とはいえ頷いてくれた。

 おかげで栗山さんのリテイク地獄から解放され、やっと流れで演技の練習をすることができるようになった。

 何度も練習を繰り返すことで、ワタシたちから照れも減り、栗山さんの熱い要望にも少しずつ応えられるようになっていった。

 それでも、どうしても栗山さんが納得してくれないシーンがあった。

 それはローズ姫を百年の眠りから覚ますリリー姫のキスシーンだ。

 何度もやり直しを要求されて、いずちゃんがノイローゼになるんじゃないかと心配になってしまうくらいだ。だけどワタシは眠っているだけなので助けてあげることができない。

 キスシーンといっても本当にキスをするわけではない。顔を寄せて客席からはキスをしているように見えるようにするだけだ。

 演出家・栗山さんの指導を聞くところによると、いずちゃんがなかなかワタシに顔を近づけられないようだ。

「それだとキスしているように見えないから!」

「もう少し顔を近づけて!」

「動きが硬すぎる!」

 という声が飛んでいる。あまりに気になったので薄眼を開けて様子を覗き見した。いずちゃんはかなり緊張した様子で少し震えながら顔を近づけている。ぎこちない動きと、かなり距離が離れているのはワタシにもわかった。

「ステージだと角度があるから、ステージ練習のときに最終調整をすることにしよう」

 総監督・笠原さんが栗山さんにそう言ったことで、キスシーンの練習はひとまず終わることになった。

 だがステージ練習でもうまくできなかったら、いずちゃんは落ち込んでしまうかもしれない。

 たとえ真似事でも、たくさんの人に見られながらキスをするのはやっぱり恥ずかしいだろう。

 だけどワタシは寝転がってるだけだから、せめて少しでもいずちゃんの気持ちが軽くなるように、帰り道で劇について話をした。

「緊張するだろうけどさ、目をつぶって思いっきりいっちゃっていいよ。何だったら本当にしちゃってもワタシは平気だよ」

 友チューなんてしたことないけれど、相手はいずちゃんだし、お芝居なんだからそれくらい平気だと思ったからだ。

 だけど、いずちゃんは顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「で、でも、ファーストキス、だし……」

「あ、そうか、そうだよね。いずちゃんのファーストキスは大事にしないとね」

 ファーストキスは好きな人としたいだろう。あまり考えずに発言したことを反省する。

「流里ちゃんは……?」

「ん?」

「流里ちゃんは、ファーストキスじゃないの?」

「あ、そうか、ワタシもそうだった」

 自分のことをあまり考えていなかった。思わず笑ってしまう。

 ワタシだってファーストキスは好きな人としたい。だけど、現在、ファーストキス以前の問題が立ちはだかっているため、そこまで考えたことがなかった。

 でも、もしも志藤先生とキスができるなら、と考えたら顔がカーっと熱くなった。だめだ、恥ずかしすぎる。

「流里ちゃん、どうかした?」

 ワタシは赤くなった頬を抑えて「なんでもない」と答えた。

 そうして、あのキスシーンを乗り切るための方法についていずちゃんと話ながら帰ったけれど、結局名案は何も出てこなかった。

 文化祭本番を五日後に控えて、ワタシたちはステージ練習を行うことになった。ステージを利用するクラスに順番に割り振られており、ワタシのクラスには二回チャンスがあった。

 一度目は、演技をしながら照明や音楽、セット転換の段取りの確認をした。二度目今回がステージ練習最後のチャンスとなる。だから、すべてを本番同様に行うことにした。

 まだ完成していないセットや小道具もあったが、それも含めて最終チェックを行うことになった。

 もちろん出演者は本番と同じように衣装を着て練習に挑む。

 衣装への着替えは教室で行う。衣装の下にはTシャツと短パンを着る仕様になっているので、どこででも着替えられる。

 出番の早い子から順番に着替えて、衣装提供者との約束通り写真を撮っていく。

 ワタシは行儀悪く机に座って台詞を確認しながら、次々に着替えていく様子を見ていた。着心地などを聞きながら、あとで修正する部分を衣装担当がメモしている。みんな真面目だな、と他人事のように考えていた。

 ドレスの出来栄えはなかなか立派に見える。衣装担当の子たちのやる気が現れているようだ。

 特に気合いが入っているのが後半に出てくる三人のお姫様の衣装だった。

 名前にちなんで、ワタシが演じるローズ姫は赤、いずちゃんのリリー姫は白、サララのジャスミン姫は黄色を使ったドレスに仕上げられている。

 そして、傲慢の魔女・アイリスは紫のローブっぽい衣装だ。

 アイリスは前半のパーティーシーンにも出演するので先に着替えて移動している。ジャスミン姫は、前半の王様の演技終了後に舞台袖で着替えることになっていた。

 最後に残ったのは、いずちゃんとワタシだ。

 少しだけいずちゃんの出番が早いので、いずちゃんが先に着替え終わる。

「流里ちゃん、どうかな?」

「本物のお姫様みたいにきれいだよ。ばっちり似合ってる」

「本当? ありがとう。着替え終わるの待ってようか?」

「うーん、いいよ。先に行ってて。お芝居、もうはじめてると思うから、いずちゃんがいないと総監督と鬼演出家が怒るだろうし」

「それは流里ちゃんも一緒じゃない?」

「ワタシはしばらく寝てるだけだから、代役でも大丈夫でしょう?」

 そういって笑うと、いずちゃんも笑って小さく頷いた。

 いずちゃんが体育館に移動して、いよいよワタシも着替えはじめる。

 衣装担当の子が「きつくない?」とか「動きにくくない?」と確認するのにひとつずつ答えていく。

 普段、あまりヒラヒラした感じの服を着ないので、ドレスはちょっと気恥ずかしい。

「ねえ、他の子のドレスより、ちょっと装飾が多くない?」

「だって、主役だもん」

「そういうものかな……」

「大丈夫、すごくかわいいから」

「はあ、ありがとう」

 赤いドレスはワタシには似合わないような気がしたが、衣装担当の子たちの努力を踏みにじることはできない。

 着替え終え写真を撮り終えると、衣装担当の子たちは慌てて教室を出て行った。

 客席から、衣装がどう見えるのかを確認したいのだという。

「私たち先に行くから、木下さんはドレスを汚さないようにゆっくりきてね」

 その言葉にワタシは手を振って応えた。

 だけどそんなにゆっくりしている時間はない。出番に間に合わなかったら本当に怒られてしまうだろう。

 ワタシはたっぷりとしたスカートの裾をちょっと上げるようにつまみ上げて廊下に出た。

 この格好で校内を歩き回るのはちょっと恥ずかしい。二階の教室から体育館までの最短ルートを頭に思い浮かべ、一番端の階段を目指した。

 何人かの生徒とすれ違ったが、文化祭も近いため、ワタシの衣装について何か言う人はいなかった。やっと階段までたどり着いた。

 階段を降りれば、体育館の入り口はもうすぐだ。

 ワタシはドレスの裾を踏まないように足元に注意して慎重に階段を降りる。踊り場で少し息を付いたとき「木下さん?」と声が掛かった。

 声の主が誰なのかすぐに分かったけれど、ワタシは顔を上げて相手の顔をしっかりと確認する。

「その格好……文化祭の?」

 志藤先生は少し驚いた顔でワタシを見つめていた。

 ワタシは自分の顔が赤くなっていくのが分かった。照れくさい、恥ずかしいのか、うれしいのか分からない。

「あの、今から、ステージ練習で」

「お芝居なんだね、お姫様役?」

「はい」

「そっか、がんばってね」

 それだけ言って志藤先生は歩き出そうとする。

「せ、先生」

 ワタシは思わず呼び止めてしまう。別に何か言いたいことがあったわけじゃない。

「どうかした?」

 何も言わないワタシに志藤先生がやさしく言った。

「あの……この衣装、どうですか?」

 聞いてみたけれど、恥ずかしくて先生の顔を見ることができない。

「え? うん、すごく似合ってる。すごくかわいいと思うよ」

 それはただのお世辞かもしれないけれど、うれしくて飛び上がりたい気持ちになった。

「ありがとうございます。それじゃあ……」

 ワタシは志藤先生の顔が見れないまま背を向けて階段を降りようとした。

「木下さん、階段!」

 先生の声が聞こえた瞬間にワタシは体勢を崩していた。階段の目測を間違えた。思いがけず志藤先生に会って、舞い上がっていたのかもしれない。これはヤバイ、瞬間的にそう考えたが、ワタシは階段から落ちることはなかった。

 叫ぶのと同時に志藤先生が腕を引いて抱き寄せてくれていたのだ。

心臓が痛いほど強く、早く、鼓動を打っていた。

「木下さん、大丈夫?」

「はい、すみませんでした」

「気を付けて」

「はい」

 頷いてゆっくりと志藤先生から体を離す。動こうとしない志藤先生は、ワタシが無事に階段を降りるのを見送ってくれているのだろう。

 ワタシはもう一度頭を下げて、今度は慎重に階段を降りる。

 鼻腔に志藤先生の香りが残っている。頭がパンクしそうだ。

 体育館に着くと、ワタシの出番が迫っていた。息を整えて舞台に上がる準備をする。

 ワタシはかなり動揺したままだったが、なんとか滞りなく芝居を終えることができた。

 問題のキスシーンは、ステージ上と客席の角度のおかげで、教室練習ほどの違和感はなかったようだ。もう少しだけ顔を近づけるように言われる程度に終わった。

 セットの転換や音のタイミングなど、調整しなくてはいけないことはあったが、総監督も鬼演出家も概ねOKを出してくれた。

 そうしていよいよやってきた文化祭当日。

 お母さんとすみちゃんは見学に来ると言っていた。文化祭を見学できるのは、生徒の家族だけだ。とはいっても、学校から配布される入場券があれば入れるから、樹梨ちゃんも来ることはできる。衣装の件で協力してもらったし、できれば来てほしかったけれど、仕事があるからと言っていた。その分、すみちゃんが張り切ってビデオ撮影をするらしい。

 鍋島先生は来ると言っていたが、どうやって入場券を手に入れるのだろうと思っていたら、どうやら関係者扱いで堂々と見学に来るらしい。

 文化祭の開始を知らせるオープニングイベントが中庭ではじまった。

 参加は自由だが、多くの生徒がそれを見るために中庭に集まっている。ワタシは教室からその様子を覗くことにした。

 ワタシたちのクラスが行う劇の上演は十一時からだ。十時に教室に集合して劇の準備に取り掛かることになっているので、まだ一時間くらい見学をする時間はある。けれど、劇に出演する子はほとんど教室にいる。ワタシも含めて、劇のことを忘れて他のクラスを見学に行く気分になれないのだろう。

 それでも一時間教室でボーっとしてるのももったいない。ワタシはパフレットで展示内容やステージスケジュールを確認した。

「よかったら、一緒にちょっとだけ見学に行かない?」

 声を掛けてきたのはいずちゃんだ。いずちゃんも緊張して落ち着かない様子に見えた。

「うん、いいよ。どこか見たいところある?」

「えっと……」

 いずちゃんは慌ててパンフレットに目を落とした。どうやら特に目的があったわけではなさそうだ。

「それじゃあ、中庭に降りみようか。色々やってるみたいだし」

 パンフレットを確認すると、オープニングのあと手品同好会のマジックショー、ダンス部の公演などとスケジュールが書かれている。中庭に行けばとりあえず何かは見られるだろう。

 いずちゃんが頷くのを確認してワタシたちは連れ立って教室を出た。

 中庭に即席でつくられたイベントステージではマジックショーが行われている真っ最中だった。ステージを人が取り囲んでかなり盛り上がっている。

 ワタシといずちゃんは隙間を見付けてステージを覗き込んだ。

 だがステージマジックには向いていない、マッチ箱を使ったマジックなどをやっているため、何が起こっているのかまったくわからない。

 それなのに盛り上がりを見せているのは、マジシャンの横にいる男子生徒のおかげらしい。首から『マジック実況中継』という札を下げている。軽妙なトークで細かなマジックの様子を面白おかしく解説しており、観客の笑いを誘っていた。

 それはマジックを見ているというよりも、コントを見ているようだった。

「しゃべってる人、すごいね」

「私、ちょっと知ってる。三年生で、去年は漫才をやったはずだよ」

 ワタシの感想に、いずちゃんが説明をしてくれた。漫才をやったということは、もう一人しゃべりの上手な先輩がいるのだろうか。将来に期待したい。

 しばらくそのコント的マジックを見ていると、ふと観客の中に見知った顔を見つけた。鍋島先生だ。宣言通り見に来ているらしい。しかも、その隣には志藤先生がいた。

 二人は何やら楽しそうに話をしながらステージを見ている。

「あれ、あの人ってこの間流里ちゃんに会いに来た人だよね?」

 いずちゃんも鍋島先生の姿に気付いたようだ。ワタシはいずちゃんの言葉に頷きながら、鍋島先生に恨みがましい視線を送り続けた。すると、その視線に気付いたのか鍋島先生が振り向く。

 ワタシの姿を見つけると、笑顔を浮かべて近寄ってきた。

「流里さん、おはよう。こちらはお友だち?」

 鍋島先生の言葉にいずちゃんが「宇津木いず奈です」と自己紹介をした。

 いつの間にか、志藤先生も鍋島先生の横に立っていた。

「鍋島先生はどうして志藤先生と一緒なの?」

 ワタシはできるだけ平静を装って聞いたのだが、少し声に棘があったかもしれない。こういう場面ではどうしても冷静にはなれない。

「志藤先生に校内を案内していただいてるのよ」

 鍋島先生は平然と、当たり前のように言う。

「すみちゃんはどうしたの?」

「すみ枝さんはいい場所でビデオを撮りたいって、来てすぐに体育館に行ったわよ」

 ワタシは思わず頭を抱える。

「流里さんは準備しなくて大丈夫なの?」

「もう少ししたら行くけど……鍋島先生も見に来るの?」

「もちろん」

 鍋島先生は満面の笑みで答えた。その返事に、ワタシが反射的に渋い顔をすると、鍋島先生がワタシの頬を両手で挟んだ。

「大好きな流里さんが出るんだから、見ないはずないでしょう?そんな顔しないでよ」

 楽しそうにワタシの頬をグリグリと押しつぶす。

「あ、あの、流里ちゃんと鍋島先生? はどういう知り合いなんですか?」

 いずちゃんがいつもよりも大きな声で聞いた。

 鍋島先生は目を細めていずちゃんを見ると、ワタシの顔から手を離した。

「んー、説明は面倒だから、流里さんに任せるわ」

 丸投げされてしまった。ワタシは仕方なく「あとで説明するね」といずちゃんに言う。

「流里さんの演劇までに、ちょっと見て回りたいから、私たちはそろそろ行くわね」

 鍋島先生はそう言うと志藤先生に視線を送った。志藤先生もそれに応えるように小さく頷く。

「あ、志藤先生」

 ワタシは慌てて志藤先生を呼び止めた。

「志藤先生も、見に来ますか?」

 すると志藤先生は少し驚いたような顔をして、すぐに笑顔になった。

「もちろん。見に行くよ」

 志藤先生がそう答えると、すかさず鍋島先生が志藤先生の腕に手を回して「二人でね」と付け加えた。本当にムカつく。

 それからワタシといずちゃんは教室展示をいくつか見ながら自分たちの教室に戻った。まだ少し早い時間だったが、ほとんどのクラスメートが集まっている。多分、落ち着かないのだろう。

 演出の栗山さんの姿もあった。出演者に最後のアドバイスをして回っている。

「宇津木さん、キスシーンは、この間の練習よりもう少し近づくようにしてね。五センチでいいから。そうしたら客席からはキスしてるように見えるから」

 いずちゃんは演出家の言葉に何度も頷く。

「木下さんはちょっと淡々とし過ぎているから、もうちょっと感情を込めてね」

 ワタシへのアドバイスはかなり根本的なことのように感じるが、その通りだから仕方がない。だって恥ずかしいんだもん。だけど、みんなのがんばりをワタシが台無しにするわけにはいかない。それに志藤先生も見に来てくれる。だから精一杯演じてみようと思った。

 時間になり、総監督の号令でそれぞれが自分たちの役割を果たすための準備をはじめた。

 出演者陣も順番に着替えをして体育館へと向かう。

 前のクラスの出し物が少し伸びているようで、舞台袖でしばらく待つことになった。隙間から客席を覗くと、すみちゃんがビデオカメラを用意して準備万端で待っている。その横にはお母さんの姿も見えた。

 鍋島先生と志藤先生の姿は見つけられないが、他の場所で見てくれているはずだ。

 そんなに緊張していないと思っていたけれど、急にドキドキしはじめた。

 クラスメートの顔はまちまちだ。笑顔を浮かべている子も、緊張で硬くなっている子もいる。いずちゃんはかなり緊張しているようだった。

「いずちゃん、ストレッチでもしておく?」

 ワタシは体育祭を思い出していずちゃんに声を掛けた。

 ワタシがアキレス腱を伸ばす動きをすると、いずちゃんも笑ってその動きを真似した。すると、なぜかそれを見ていたクラスメートたちもアキレス腱を伸ばしはじめる。

おかしな光景だったけれど、それでみんなの緊張がほぐれたようだった。

 そして、ワタシたちの舞台の幕が上がる。

 ローズ姫が誕生したことを説明するナレーションから、誕生祝のパーティーシーンがはじまった。

 魔女たちの祝福や呪いがローズ姫に掛けられ、王様と王妃様が悲しみに打ちひしがれて暗転する。

 そしてかなり長めのナレーションが入り、時はすでにローズ姫が眠りについている百年後の世界となる。

 みんなが知っている『眠り姫』とは少し違うことに気付いたのか、客席が少しざわついた。

 そしてライトがつき、いずちゃんが登場すると、さらにざわつきが大きくなる。王子様の登場を期待していたであろう観客を裏切ったのだから当然だ。

 白いドレスに身を包んだいずちゃん演じるリリー姫が、自分の国を逃げてきて、茨の城の噂を知る場面だ。舞台袖から見るいずちゃんは、練習のときよりもずっと堂々として見えた。

 そのシーンが終わると短い暗転となり、いよいよワタシの出番となる。まあ、眠っているだけなんだけど。

 机に段ボールを貼り付けたベッドが舞台中央に用意され、ワタシはドレスを整えながらその上に仰向けに寝る。そして、胸の上で両手を組んで目を閉じてリリー姫が現れるのを待つのだ。

 ステージ上のライトがついた瞬間「流里だ」という声が耳に届いた。すみちゃん、本当に勘弁してほしい。

 茨を抜けてリリー姫が城の奥へと踏み入り、ベッドで眠りにつくローズ姫を見つける、という演技が進んでいるはずだ。ワタシは目を閉じているので、それを見ることはできない。

 台詞や足音、いずちゃんの動きを感じながら、目を覚ますタイミングを待つ。

「これが噂で聞いた茨の姫なの?」

「なんて美しいのかしら」

「こんなに美しい人をはじめて見たわ」

 なんて、聞いているだけで恥ずかしくなるような台詞が続く。

 いずちゃんの演技はかなり上手だと感じた。本番になってテンションが上がっているのかもしれない。迫真の演技というやつだ。ワタシもがんばらなくては、みんながつないできた演技が台無しになってしまう。

 ワタシが心の中で気合いを入れ直していると、いずちゃんの台詞た止まった。いずちゃんの足音がゆっくりと近づいてくる。いよいよ問題のキスシーンだ。

 いずちゃんの手がワタシの頬に触れた。ワタシが起き上がるタイミングは、いずちゃんの手が離れてから二秒後だ。

 いずちゃんは演出家の言った通りに、あと五センチ顔を寄せることができるだろうか。覗き見したい気持ちになったが、万が一いずちゃんと目が合ったら死ぬほど恥ずかしいので、じっと目を覚ますタイミングを待つ。

 客席から「おー」という声や「キャー」という歓声が聞こえた。いずちゃんが顔を近づけているのだろう。と思った瞬間、ワタシの唇に温かくやわらかいものが触れた。これは、本当にキスをしているのではないだろうか。

 一秒、二秒、三秒……しかも結構長い。

 ようやく唇が離れ、手も離れる。ワタシはどうすればいいのか分からず心の中は動揺しまくりだった。だけど、ともかく今は劇を続けなくてはいけない。二秒数えてゆっくりと目を開けて体を起こした。いずちゃんの顔が真っ赤になっている。その顔は芝居ではないことが分かった。

 芝居の雰囲気にのまれてつい本当にキスをしてしまったのか、五センチ近付けようとしたら、勢い余ってゼロ距離になってしまったのかは分からない。だけど、いずちゃんは今、我に返っていずちゃんは動揺しているのだろう。ワタシまで動揺していたら劇が失敗に終わってしまう。

 ワタシは小さく息を付いて心を落ち着ける。

 そして、ワタシの台詞を口にした。感情を込めて、動揺したいずちゃんを助けられるように。

「あなたは……誰?」

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