第9話

『ことわざ』   木下流里


 ことわざにはよくわからないものがある。

「棚からぼた餅」

 ラッキー、みたいな意味だけど、棚からぼた餅が落ちてきたら普通食べないし、ウゲッいつのだよ! って思う。

「二階から目薬」

 思うようにできないとかそんな意味らしいけど、そりゃそうでしょう。そもそもそれを試そうと思うのが無謀だと思う。

 だけど、そんなよくわからないと思っていたことわざの意味を体感すると、昔の人ってすごいなって思う。


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 一週間前の今日は天にも昇る気持ちで浮かれていた。

 たった一週間前のことなのに、遥か昔の遠い出来事のように感じる。

 志藤先生とのデートで、全身の痛みでスキップはできなかったけど、心の中ではスキップをしていた。

 一週間が経ち、体の痛みは無くなった。発熱や食欲不振で落ちてしまった体力も回復したと思う。だけど心は地の底に潜るくらい低空飛行をしていた。

 なぜならば今日はあの日からはじめて志藤先生の授業がある日だからだ。これまでならばウキウキして学校に行っていたのに、こんな気持ちになる日が来るなんて思わなかった。

 まだ、志藤先生を見るのが辛い。それなのに今日の授業は教室で行う保健の授業だ。

 教室という閉鎖された空間の中では、志藤先生の姿が否応なく目に入る。下を向き、目を逸らしたとしても、その声はワタシの耳に届き続ける。拷問としか言いようがない。

 それが分かっていても、授業をエスケープすることはできなかった。胸が苦しくなると分かっていても、志藤先生の姿が見たかった。志藤先生の声が聴きたかった。

 いつものジャージ姿で志藤先生が教室に現れる。そのとき一瞬目が合い、志藤先生は小さく笑みを浮かべた。心臓がギューッと痛み、思わず目を逸らしてしまう。

 こんな態度を取っていてはいけない。そう思ったけれど、自分でもどうしようもなかった。

 頭ではもう諦めるしかないと分かっている。だけど心がドキドキして、キュッと締め付ける痛みを放ちながら、志藤先生が好きなんだと訴え続ける。

 夏休みに鍋島先生が言ったことを思い出した。心は頭ではコントロールできない。その通りだった。

 保健の授業の間、心はうるさいほどワタシに諦めるなと訴えかけていた。

 保健の授業が終わると、志藤先生が「木下さん」とワタシに声を掛けた。心臓がバクバクと鳴る。息が止まるかと思った。逃げ出したかった。

「はい、なんですか?」

 ワタシは奥歯を食いしばって平静を装って返事をする。

「もう体調は大丈夫?」

「はい。ご心配をおかけしました」

「でも、ちょっと痩せたみたい……」

「そうですか?ダイエット成功ですね」

 ワタシは明るく答えてみせる。ワタシは普通に見えているだろうか。確かめたいけれど志藤先生の顔を見上げることができない。

「まだ元気もないみたいだし、あんまり無理しないでね」

 志藤先生の声はやさしい。これ以上話していると泣いてしまいそうだ。

「あ、はい」

 ワタシはとにかく下を向いて顔を隠す。志藤先生が顔を覗き込もうとしたとき、いずちゃんが近くに来た。

「志藤先生? 流里ちゃん、なにかあったんですか?」

 顔を伏せるワタシの姿は、傍から見たら叱られているようにも見えたのかもしれない。

 ワタシはホッとした。そしていずちゃんの顔を見ると笑顔を浮かべて「なんでもないよ」と言った。

 志藤先生はまだ何か言いたそうな雰囲気があったが、次の授業の時間も迫っていたので話はそこで終わった。

 志藤先生を見送ったあと、いずちゃんに断ってワタシはトイレに駆け込んだ。

 熱くなる目頭を押さえて、深呼吸をしながらギュンギュンとうるさい心臓に静まれと命令する。

 いずちゃんが来てくれなかったら、あの場で泣いてしまっていたかもしれない。早く平気にならないと、志藤先生を困らせてしまう。

 いっそ無視してくれればいいのに、どうして志藤先生はワタシに話しかけるのだろう。遊びに行ったあとで熱を出してしまったから、責任を感じているのかもしれない。そして、あの日のワタシの告白を本気にしていないから気楽に声を掛けられるのだ。そう考えると悲しさと悔しさが心の中を埋め尽くしていった。

 心を落ち着かせるのに思ったより時間がかかったせいで、次の授業に遅刻して先生に叱らた。遅刻したワタシが悪いのだけれど、間接的には志藤先生のせいだと言いたい気持ちだった。

 保健の授業だけで一日分の精神力を消費したワタシは、帰りのHRにはすっかりぐったりしていた。

 だが、さらにワタシをぐったりさせる出来事が起こる。

 文化祭で行う劇「眠り姫」の脚本の改変を請け負っていた栗山さんがものすごいやる気を発揮してしまったのだ。

 土日で脚本の改変を終えており、HRでクラス全員に二部の脚本を配布した。

「ひとつは元の脚本を少しだけ変えたものです。分かりやすいように表紙にN版と記載してあります。出演者を減らした分、台詞を調整しています」

 栗原さんが前に立ち説明する。

「もうひとつは大幅に修正を加えたもので、表紙にY版と記載しています。前半を大きく削って、眠り姫が目覚めた後の話を追加しました。木下さんの眠り姫や宇津木さんの王子様の見せ場を多くしました。あと、女子が男子役するんじゃなくて、全員女子という設定に変えています」

 栗山さんの言葉に一人の男子が質問した。

「全部女性って、王子様も女なの?」

「そう、お姫様を助けるお姫様にしました」

 栗山さんの顔が妙に輝いている。あれは萌えている顔だ。「Y版」とは「百合版」という意味だろうか。お姫様×お姫様って、ワタシはすみちゃんと樹梨ちゃんで見慣れているけれど、抵抗のある子もいると思う。

 そもそもワタシは見せ場を増やしてほしいなんて思っていない。

 栗原さんの隣に立っていたクラス長の大木君が補足の説明をした。

「とりあえず二つの脚本を読んで、どちらがいいかを検討してください。金曜日のLHRで決定したいと思います。それから、脚本の内容は決定ではありませんので、修正したい提案も考えておいてください。各自しっかり読んで考えてきてください」

 そうしてHRが終了した。

 ワタシは机の上に二冊の台本を並べて見比べる。ただでさえ疲れているのに、栗山さんにまでこんな形で攻撃されるとは思わなかった。

 ワタシは心の中でN版に一票投じることを決めていた。百合展開は面白いかもしれないが、台詞が増えるのは勘弁してほしい。

「流里ちゃん、帰らないの?」

 いずちゃんがワタシに声を掛けた。

「ああ、うん、帰るけど……いずちゃんは、コレ、どう思う?」

 もう一人の被害者の意見を聞く。

「なんか、びっくりだよね。まだ読んでないけど、Y版も面白そうだなって思った」

「出番増えるんだよ?」

「あー、それは確かにちょっと悩むけど……せっかくなら面白い方がいいかな、って」

「いずちゃんは立派だね」

 自信のなさそうな大人しい印象しかなかったいずちゃんの姿はもうない。体育祭を経て、いずちゃんはすごく変わった。元々あったやさしい雰囲気はそのままに、前向きさと明るさが加わった。いずちゃんにとって、体育祭での挑戦は大きな転機となったのだろう。そして、それは志藤先生がいたからだと思う。

 そのとき「鍋島先生」という声が教室の入り口から聞こえた。

 ウチの学校に鍋島先生はいない。そしてワタシの知っている鍋島先生がこの教室にいるはずがない。聞き間違いだろうと思いつつ、念のために声がした方に視線を送ると、なんとそこに私が知っている鍋島先生がいた。

 そしてバッチリ目が合ってしまった。

 鍋島先生の近くには大木君が立っている。どうやら、大木君は山中小学校の出身で、鍋島先生を知っているようだ。

 「大きくなったねー」と、鍋島先生は大木君の頭をポンポンと軽く触る。さらに山中小出身の数名のクラスメートが鍋島先生を囲む。

 こうして傍から見ると、子どもに慕われるいい保健室の先生のようだ。

 そして鍋島先生を知らないクラスメートたちは好奇心に満ちた目で鍋島先生を見ていた。

 特に男子は「あの人誰だ?」とか「オレも話してこようかな」とちょっと浮足立っている。

 客観的に見れば鍋島先生はきれいな先生だと思う。少しふっくらしているところが、女性的な包容力を感じさせて魅力的だ。年頃の男子が色めき立つのも仕方がないのかもしれない。

 現に頭を撫でられた大木君は「子ども扱いするなよ」と手をはねのけたが、顔は真っ赤に染まっている。クラス長として淡々と進行している姿からは想像できない。

 だけどワタシは知っている。その人が結構ムカつく変人だということを。

 なぜ鍋島先生がウチのクラスに現れたのかは知らないが、ここは無視して帰るのが得策だろう。巻き込まれたくない。

 そうして鞄を持って立ち上がろうとすると「流里さーん、一緒に帰ろう?」と大きな声で呼ばれてしまった。

 ワタシはひきつった顔で鍋島先生を見た。すると、鍋島先生は人差し指を立てて口もとに当て、意味深な笑みを浮かべる。

「断ったら、流里さんのヒミツしゃべっちゃおうかなー」

 という顔だ。鍋島先生とも目と目で会話ができるようになってしまった。みんなにバラされたくないワタシのヒミツなんて、志藤先生のことに決まっている。ワタシは観念するしかない。

「ごめん、いずちゃん、ちょっと用事ができちゃったみたい」

「あ、うん。分かった」

 いずちゃんは少し戸惑いながらも頷いてくれた。

 ワタシが渋々といった雰囲気を全身で醸し出しながら鍋島先生の所まで行くと「それじゃあ、みんなまたね」と集まっていた生徒たちに声を掛けてワタシと一緒に歩き出した。

「どうしてここにいるの?」

 若干剣のある声で鍋島先生に尋ねる。

「ちょっと会議があったの」

「仕事だけして帰ってよ」

「冷たいこというわね。色々アドバイスしてあげた恩人に対して、その態度はいいの?」

 ワタシは言葉に詰まる。そうだ、鍋島先生には借りがあるのだった。

 そんなワタシの態度に、鍋島先生は満足そうな笑みを浮かべた。

 靴に履き替えて鍋島先生と並んで校門を出る。

 少し歩くと鍋島先生がニヤニヤ笑いながら「お姫様役なんだって?」と言い出した。

 どうやらHRでの話し合いを聞いていたらしい。本当にこの先生はムカつく。

「寝ているだけの役だよ」

 とワタシがそっぽを向いて言うと「出番、増やしてもらえるんでしょう?」と言いながらスマホを開く。

 そしてニッコリといい笑顔を浮かべた。

「スケジュール開いてるから、絶対に見に行くね」

「来なくていい」

 ワタシはプリプリしながら少し歩く速度を上げる。できればすみちゃんや樹梨ちゃんには教えないでおこうと思ったけれど、これで絶対にバレてしまう。きっと、口止めをしても無駄だ。

 せめて大人しく見てもらうように念を押しておくしかない。

「でも、眠り姫役をやるなら、志藤先生に王子様役をやってもらえればよかったのにね」

 ワタシから少し遅れた鍋島先生が大きめの声で言った。

 ワタシは慌てて振り返って鍋島先生の口を押えた。そして辺りを見回す。幸い他の生徒はいなかった。

「何言ってるの!」

「だって、流里さんが私のこと置いていこうとするんだもん。それに、まわりに人がいないのは確認しましたー」

 その口調はまるで小学生だ。鍋島先生に憧れているであろう大木君たちは絶対に騙されていると思う。

 ワタシは小さく息を付いた。

「ワタシもう、志藤先生のことは何とも思ってないから……」

 自分の口から発せられた言葉に自分で傷つく。

「そうなの?私としてはライバルが減るのは大歓迎なんだけど……」

 鍋島先生の言葉にイラつく。ワタシの気持ちも考えないで、どうしてこんな態度がとれるのだろうか。

「ついこの間よろこんでデートしてたじゃない。もしかして、フラれた?」

「……」

「そっか、フラれたのか」

 いい年した大人が人のキズをえぐって楽しむなんて悪趣味過ぎる。ワタシは鍋島先生を睨みつけた。

「うるさいんな」

「ライバルだと思ってたんだけど、結構あっさり引き下がるんだね。一回フラれたくらいで簡単に諦めるんだ。なんだか拍子抜けしちゃった。本気で好きってわけじゃないんだね」

 鍋島先生はまるで独り言のように一息で言った。どうして鍋島先生にここまで好き放題言われなくてはいけないんだろう。

 頭に血が上っていく。本気で腹が立った。

「簡単なわけないでしょっ! だけど仕方ないじゃない。志藤先生はワタシのことを何とも思ってないんだもん。ただ年上に憧れてるだけだって、勘違いだって言われたんだから、どうしようもないでしょう!」

 ワタシは足を止めてわめく。周りで誰かが聞いているかもしれないなんて少しも考えられなかった。

 ワタシの叫びを聞いた鍋島先生は、目を丸くして「え?」とつぶやいた。

「ちょっと待って、流里さん、志藤先生になんて言われたって?」

「だから、年上に憧れてるだけの勘違いじゃないかって言われたの!」

 ワタシは半ばやけくそな気持ちで叩きつけるように言葉を吐き出した。

 あの日の志道先生の顔と言葉が鮮明に脳裏に浮かんで胸をかき乱す。

「えっと、それって、フラれてなくない?」

「へ?」

 鍋島先生の予想外の言葉に思わず怒りが吹っ飛んでしまった。

「まあ、中二病的乙女回路を発揮して、悲劇のヒロイン気分に酔いしれたいのならそれでいいんだけど……」

 鍋島先生は腕を組んで首をひねっている。

「ちょっと、フラれてないってどういう意味?」

「勘違いじゃないかって言われたんだよね? 実際に勘違いなの?」

「違う。心はずっと志藤先生が好きだって言ってる。勘違いなんかじゃない」

 それははっきりと言い切ることができる。ワタシはワタシの心の声をずっと聞いている。この想いが勘違いであるはずがない。

「そうでしょう? だったら、勘違いじゃないって言えばいいだけじゃないの?」

「へ?」

「志藤先生は、志藤先生の気持ちを伝えたんじゃなくて、流里さんの気持ちを確かめただけだよね?それでどうしてフラれたことになるの?」

「でも、志藤先生はワタシに諦めさせようとして言ったことだから……」

 そうだ。あの声、あの顔はワタシの気持ちを退けるものだった。

「たとえ志藤先生にそういう意図があったとしても、無視しちゃえばいいんじゃない? わざわざ自分から空気を読んで先回りしてフラれたことにする必要なんてないでしょう」

 え、ちょっと待って、それでいいの?

 鍋島先生の言葉がうまく理解できずに混乱してしまう。

「志藤先生が流里さんの気持ちは勘違いなんじゃないかと思っているのなら、勘違いじゃないことを証明すればいいんじゃないの?」

 目からうろこが落ちた気分だった。

 気持ちいいくらいポロっと落ちて、心の中にあったモヤが一気に晴れる。こんか感覚は生まれてだ。

「ちょっと、なんでもっと早くそれを教えてくれないの!」

 ワタシはこの一週間、泣いたり落ち込んだり、もうとにかく大変だったのに。

「今はじめて聞いたんだから仕方ないでしょう」

 鍋島先生の言う通りだ。はっきりとした理由を誰にも言わずに引きこもっていたのはワタシだ。だけど、たった一言でワタシの一週間の悩みを晴らしてしまうなんて、なんだか悔しい。

「お見舞いに来たとき、なんか知ってたんじゃないの?」

「私は超能力者じゃないからね。疲れが出たって聞いてたから、楽しすぎてはしゃぎ過ぎたのか、志藤先生と何かあって知恵熱でも出たのかと思ってたのよ」

 鍋島先生は困ったような、笑みを堪えるような顔をして言う。

 志藤先生にはワタシを拒絶する気持ちがあるのかもしれない。鍋島先生の言葉で、それが変わるわけじゃない。

 だけど、あのとき志藤先生が言ったのは、ワタシの気持ちを確認する言葉だけだった。だったら、無理をして諦めようとする必要なんてない。これまでと同じように片想いを続けるだけだ。そしていつか、もう一度ちゃんと告白すればいい。もしかしたら、次の告白では決定的にフラれるかもしれない。だけど、今はまだ諦めなくてもいいんだ。

「ねえ先生、どうしてワタシのことを助けてくれるの? ライバルなんだよね。筋肉痛のときもアドバイスしてくれたし、今日だって、ワタシが諦めてた方がよかったでしょう?」

「それはね、ライバルは強い方が燃えるからよ。強いライバルに打ち勝ってこそ、私がより輝くでしょう」

 鍋島先生は胸を張って言う。

「それに、流里さんのことも好きだからね」

 笑顔を浮かべた鍋島先生に、ワタシも笑顔を返す。

「ワタシ、好きな人がいるのでごめんなさい。鍋島先生のことは好きになれません」

「あら、残念」

 少しも残念そうな顔をしないで鍋島先生が言った。

 鍋島先生にはムカつくことが多いし、好きじゃないけれど、嫌いというのは取り消してもいい。

 鍋島先生は家の前までワタシを送ってくれた。

 別れ際にワタシは先生に聞いた。

「夏休みに鍋島先生、志藤先生にフラれてたでしょう? 前の彼女にもフラれてるし」

「何? 私がモテないって言いたいの?」

 鍋島先生が顔をしかめる。

「そうじゃなくて、ワタシだったらすごく辛いと思うから。だから、どうして鍋島先生は……そんな風に元気でいられるの?」

「なんだか私が能天気な人間みたいじゃない」

 そう言って鍋島先生は苦笑いを浮かべた。だけどすぐに不敵な笑みに形を変える。

「私だって傷つくし、悩むし、苦しいって感じることはあるのよ。だけど、そんな私の経験と想いのすべてが、私を魅力的に変えるアクセサリーになるからよ」

「うわ、キモッ」

ワタシは思わず言ってしまう。だけど顔には笑顔が浮かんでしまっていた。

「え? 今のセリフ、いい女っぽくてかっこよくなかった?」

 鍋島先生も笑顔を浮かべている。

 もしも、ワタシの恋が破れて、勝ち残るのが鍋島先生だとしたら、悔しいし、ムカつくし、腹が立つと思うけれど、納得できてしまうような気がした。

 翌日からワタシはいつも通りに戻ることができた。

 志藤先生を見付けると胸がキュンと小さな音を鳴らす。だけど、昨日までの苦しさだけを訴えるような音ではなくなった。

 ワタシは片想いを続ける。だから志藤先生の目を恐れて逸らすことはない。声に怯えて耳をふさぐこともない。

 偶然に姿を見つけて喜びを感じ、声を聴きたくて耳を澄ませる。

 痛みが完全に消えたわけじゃない。だけど、片想いのワタシができるのは、少しでも志藤先生に近づき、少しでも志藤先生に振り向いてもらえるように努力することだけだ。

 だから、体育の授業では今まで通り全力で準備体操をしたし、志藤先生に笑顔で「頑張ったね」と言ってもらえるように、昨日のワタシよりも少しでも前進できるように努力した。

 気にしていないフリを装うのではなく、全力で志藤先生のことが気になっていることを伝えることにした。

 今はまだ、志藤先生はワタシの想いを受け止めてくれないかもしれない。スタートラインにも立たせてもらえないのかもしれない。

 だけど、一年後は違うかもしれない。一年後がダメなら、二年後にまたチャレンジすればいい。

 ワタシの気持ちはワタシが決める。だから、ワタシが諦めない限りは、この恋は終わらないんだ。

 志藤先生は相変わらずワタシに何かを言いたそうな顔をしていたけれど、ワタシが水族館デートに行く前と変わらない態度をとるようになって、少しホッとしたように見えた。

 そうして調子を取り戻した金曜日、すっかり忘れていたが、文化祭で公演する「眠り姫」の脚本決定会議が開催された。

 いつものように大木君が司会進行を務め、笠原さんが板書をする。

 ちなみに、大木君は火曜日の朝「木下って、鍋島先生とどんな関係なんだ?」と聞いてきた。

 詳しく説明するのは面倒だったので「今も良くしてくれる小学校の担任と鍋島先生が仲良しで」みたいな説明をしておいた。それから鍋島先生とどんな話をするのかとか、鍋島先生に彼氏がいるのかとか、根掘り葉掘り聞かれた。どうやら大木君は鍋島先生のことが好きらしい。

 残念だけど、鍋島先生が今好きなのは志藤先生だよ、とは言えずに適当に誤魔化したけれど、大木君はいつか鍋島先生に告白をするのだろうか。もしも告白をされたら、鍋島先生がどんな返事をするのだろうか。

 そういえば、ワタシはフラれる辛さばかりを考えていたけれど、フルのはどんな気持ちなのだろう。フル相手が大嫌いな人だったなら、それほど心は痛まないかもしれない。だけど、恋愛感情はなくても、相手のことを大切に想っていたとしたら、きっとフル方も辛いし勇気がいるはずだ。

 学生時代に樹梨ちゃんをフッたというお友だちも、ワタシに拒絶の意を示した志藤先生も、そんな葛藤があったのかもしれない。

 そうだとすれば、やはりワタシは自らこの想いを諦めた方が志藤先生にとって良いことなのではないだろうか。心臓が鳴く。ワタシは首を振ってその思考を吹き飛ばす。ワタシは自らレースをリタイヤしないと決めた。負けてもいいからスタート地点に立つと決めたんだ。

「木下さん、何か問題がりましたか?」

 大木君が司会者の口調でワタシに声を掛けた。どうやら首を振ったジェスチャーが、反対意見だというように取られたようだ。

「あ、いえ、なんでもありません」

 ワタシは顔を上げて答える。どうやら考え事をしている間に話が進んでしまっていたようだ。

 そして、自分の目を疑った。黒板には、笠原さんのきれいな字で「N版(微改変)」「Y版(大改編)」とあり、その下に数字が書かれていたのだ。そして、その数字は圧倒的にY版の方が大きい。ふたつのを足した数字がクラスメートの人数と合わないのは、ワタシをはじめ数人が挙手しなかったからだろう。

 つまり、ワタシにとって非常に重要な恋愛について考えている間に、もう一つの重要な事案が決議されてしまったということだ。

 何と言うことだ、ワタシのセリフが増やされてしまった。

 だが、ワタシがN版に挙手してもY版の数には足らない。栗山さんの萌えの力作がクラスメートの心を動かしたのか、クラスメートの悪ノリか、我がクラスは「眠り姫百合バージョン」を催すことに決定した。

 そして、栗山さんの案に対する意見交換が行われ、その意見を改めて栗山さんが修正して最終稿とすることになった。

 残りの時間は、衣装や照明、大道具や音楽などの班に分かれて話し合いが進められる。

 総合演出は、脚本を担当した栗山さんが行うことになり、キャスト陣は栗山さんの元に集まり演出方針を打ち合わせた。

 眠り姫はアニメーション映画にもなっている話だが、ワタシはその内容をよく知らなかった。だから、N版の脚本を読んで少しびっくりした。

 お姫様の誕生を祝って催されたパーティーに、皿の数が足りないという理由で招かれなかった一人の魔女が怒ってお姫様に死の呪いをかける。

 まずはここでツッコミを入れたい。王国のパーティーなんだから、一人分の皿くらい買い足しなよ、と思ってしまう。そうすれば「誕生おめでとう!」とみんなで祝ってあっという間にハッピーエンドだ。脚本もそう改変してしまえばいいのに。

 死の呪いを掛けられたお姫様がなぜ眠り姫になったのかと言えば、呪いを解けない代わりに弱めてくれた魔女がいたからだ。「糸車が原因で死ぬ」から「糸車が原因で百年眠りにつく」に変わった。

 個人的には、死ぬという呪いより、不老不死で百年眠る魔法の方がすごいような気がするんだけど。

 そんな呪いがかかってしまったものだから、王様はお姫様を救うために、国中の糸車を廃棄させる。

 それだけのことができる権力があるなら、最初から足りない皿を買って魔女を全員招待しておけばいいのに。国中の魔女を集めたのに、皿が足りないって一人だけ呼ばれなかったら、イラっとするのも仕方ないと思う。

 でも結局、十五歳になったお姫様は、唯一残っていた糸車で指をさして眠ってしまう。しかも、お城の人たちが全部眠りについて、お城が茨に閉ざされてしまうのだ。

 こうなると、呪いを弱めるって言った魔女の策略としか思えないよね。しかも、城に入ろうとした人たちは生きて戻れないっていうんだから、その魔女の黒幕説がますます有力になると思う。

 百年くらい経って、たまたまやってきた王子様が危険を顧みず城の中に入って眠り姫を発見。キスで目覚めさせて二人は幸せに暮らしましたとさ、というお話。

 百年経ってて、茨の城の話もその中のお姫様こともあやふやな噂話になってるのに、命をかけて城に入る王子様の心境が分からない。

 すごい好奇心があるのか、お城の財宝狙いなのか、ついついうがった目で見てしまう。

 そもそも初対面の人にいきなりキスをされて惚れるとかあるんだろうか。

 眠り姫のお話が好きな人には申し訳ないが、ついついこんなことを考えてしまうのは、多分、ワタシが出演したくないというマイナスの気持ちが影響しているんだと思う。

 N版の場合、お姫様の誕生パーティー前後のストーリーが長く描かれる。眠り姫の出番は十五歳になって周囲にチヤホヤされるシーンと、眠りについてしまうシーン、あとは目が覚めたエンディングの三カ所程度だ。

 ストーリーはお姫様以外の所で進んでいくので、正直ワタシは楽だった。

 今回採用されたY版は前半が半分ほどにカットされている。

 足りない部分はナレーションで補うという力業を駆使するらしい。

 魔女は総勢七名に減らされ、七つの大罪に当てはめられている。そして、それぞれの魔女が誕生したお姫様に祝福を送る。

 暴食の魔女―食べることに困らない祝福

 色欲の魔女―美しく育つ祝福

 強欲の魔女―お金に困らない祝福

 怠惰の魔女―楽しい日々を過ごせる祝福

 嫉妬の魔女―最良の伴侶に恵まれる祝福を与える

 そして、パーティーに招かれなかった魔女登場。

 憤怒の魔女―死の呪い

 傲慢の魔女―死の呪いを弱めて眠りにつく呪いにする

 パーティーシーンのあとは、ナレーションで状況を説明して一気に百年経過。

 ここからがほぼオリジナル展開であり、ウチのクラスの演劇の目玉となる。

 茨の城の中では眠り姫(この脚本ではローズという名前になっている)が百年の眠りについている。そこに現れる某国のお姫様のリリー。

 リリー姫は、国王から意にそぐわない結婚を強いられて逃げていた。「そうだ、茨の城に逃げ込めば、きっと捕まえられないわ!」という危険も顧みないアイディアで茨の城に侵入する。

 これまで誰も寄せ付けなかった茨がなぜかリリー姫を迎え入る。そして、眠りについていたローズ姫を発見するのだ。

 リリー姫はローズ姫の美しさに一目ぼれして思わず口づけをしてしまう。

 するとローズ姫は百年の眠りから覚めて、こちらもリリー姫の美しさに一目ぼれ。

 もしかしてキスされちゃった? ドキドキという演出が言い渡された。

 見る分には楽しいかもしれないけれど、自分が演じると思うとげんなりしてしまう。

 それでも、ここで終わってくれればいいのだ。しかし、ここから先に栗山さんの萌えが盛り込まれた渾身のストーリーが展開する。

ローズ姫とリリー姫は互いの状況を語り合う。

「ローズ姫をひどい目に合わせた魔女のこと、許せないわ!」

「で、でも……それでリリー姫に会えたから、私はちょっとうれしいな」

「私もローズ姫に会えたのはうれしい。だけど、ずっと眠らされていたなんて……私はやっぱり許せない」

「リリー姫はやさしいのね」

 みたいな台詞がツラツラと並んでいる。本当にこれを演じなくちゃいけないの? 何の罰ゲーム?

 ローズ姫とリリー姫が打ち解けたとき、オリジナルキャストであるリリー姫の婚約者・ジャスミン姫が登場。ジャスミン姫は強引にリリー姫を連れて帰り結婚しようとする。三角関係の勃発である。

 しかし、ジャスミン姫がリリー姫と結婚しようとするのには事情があることがわかる。実は、ジャスミン姫にも想い人がいるのだ。

 その相手とは、ローズ姫の死の呪いを弱めた傲慢の魔女・アイリスだった。

 アイリスはローズ姫の呪いを解く方法を探すために世界を旅していた。そこで幼いジャスミン姫と出会う。ジャスミン姫はアイリスに惹かれた。両親の反対を押し切り、半ば家出をするような状態でアイリスに弟子入りする。しかし、怒った両親はジャスミン姫を連れ戻し、アイリスを誘拐犯として投獄してしまったのだ。アイリスを救うことを条件に、ジャスミン姫はリリー姫との結婚することになった。

 それぞれの事情を理解した三人の姫たちは、力を合わせてアイリスを救い出す。

 そうして二組のカップルが誕生してハッピーエンドとなる。

 もう完全に眠り姫じゃなくなっている。

 この劇は本当にうまくいくんだろうか。

 ワタシには不安しかないんだけど……。

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