私は友達の青い傘を借りた

kankisis

私は友達の青い傘を借りた

 朝の静かな商店街を学校へ向かって歩いていると、後ろから友だちの声がした。私を呼び止めて、彼女は小走りで私に追いついた。


「かなたちゃん、おはよう」

「おはよう、しほ」


 しほは近所に住む私の友だちだ。私はしほを待っている間に振り向いていた身体を元に戻して、再び歩きだした。


「ねえ、放課後うちで遊ばない?」


 まだ登校中なのに、しほはもう放課後の事を考えている。彼女は手に握っている青い傘で、潰れた何軒もある店のシャッターをがんがん鳴らしながら歩いていた。


「今日塾があるんだよ」

「つまんなーい」


 断ると、しほは不満気な顔で、傘をより激しくシャッターにぶつけた。


 私は親に言われて学習塾に通っていた。しほは塾に通っていない。お気楽だと思いつつ、彼女がうらやましいとも思っていた。勉強漬けで、梅雨の時期という事もあって憂鬱だった。今日は珍しく雨が降らない。だから、本当は遊びに誘ってくれて嬉しかった。


「こら!」


 大声にびっくりして、とっさに私たちは声の主を探した。商店街を貫く道の反対側に、今でも潰れずにいる数少ない店がある。私が通う学校の生徒の多くがそこでノートや筆記用具を買う。その文具店の、薄暗い奥から顔をのぞかせているのは年老いた店主の倉間さんだ。倉間さんが店から出てきて、また声を張り上げた。


「そんな傘をぶつけて、うるさくするんじゃない! 学校の先生に言いつけるよ」


 倉間さんはちょっと恐いので学校内で有名だった。白髪でやせていて、足腰も悪いのに、気迫だけは彼の年齢を考えると異常なほど有り余っていた。気難しい人だった。


「ごめんなさい!」


 しほが即座に謝って、倉間さんはしほの青い傘をにらむように見て、引き返す。


「もううるさくするんじゃないぞ」


 老いた背中を見せつつ、倉間さんは薄暗い彼のテリトリーへと消えていった。

 私たちは顔を見合わせる。


「大丈夫かな」


 しほは、本当に先生に言いつけられないか心配していた。


「しほ、きっと大丈夫だよ。早く行こう」


 怒られてバツが悪いのをかき消すようにして、私たちは早足で商店街を抜けた。




 学校に着いてまず耳にしたのは、男子のこんな噂話だった。


「隣町の交差点おばさんが昨日からいなくなったんだってよ」

「それ、俺も聞いた。隣の学校の知り合いから聞いたぜ」


 隣町の交差点おばさんは、この辺りの有名人だった。大通りの交差点で、いつも鳩に餌やりをしている人だ。その交差点が隣の学校の通学路でもあったから、彼女が毎朝のように鳩の群れを集めていると、信号待ちをする生徒たちの邪魔になるので問題になっていた。


「その話、聞かせてよ」


 話している男子に向かって、しほが言った。しほは男子にも女子にも分け隔てなく接する子だった。

 隣の学校の知り合いから聞いたという男子が話し出す。


「一昨日までは交差点おばさんはいたんだよ。雨の中で傘を差して、交差点の角に置いた自前の椅子に座って餌をやっていたのはみんな見てるんだ。それが次の日、朝一番に登校したやつが大変な事になっているのを交差点で見つけたんだ」


 興味津々で周りの生徒が耳を立てている。私もその中の一人だ。男子は話を続ける。


「血まみれになった椅子と傘が、交差点のいつも鳩の群れがいるはずの角で転がっていたんだ。餌やりをしているおばさんの姿はどこにもなかった。他にあったのは、血で赤くなった水たまりだけだって」


 教室は静まり返った。一呼吸置いて、しほが口を開いた。


「まだ、交差点のおばさんは見つからないの?」

「見つかっていないんだと思う。死んじゃったとも聞いたけど……昨日その学校は休校になったんだってさ。犯人がいるかもしれないからって」


 犯人と聞いて、私は寒気がした。誘拐だろうか。それとも、通り魔だろうか。その日、クラスは行方不明の交差点おばさんの件で話は持ちきりだった。




 放課後、しほは教室を出て先に帰ってしまった。授業が終わって、私が彼女と遊ぶ誘いを再び断ったので、しほは拗ねてしまった。


 何も塾がある私より早く下校しなくてもいいのに。


 そう思っても、友だちと遊べなくて寂しい気持ちは私もよくわかっていた。だから、彼女が拗ねてしまうのもよくわかる。今は仕方のない事だと決めて、また別の機会にちゃんと仲直りをしよう。

 落ち込んで一人で教室に残っていた私は、それでも塾に遅れるわけにいかないので、学校を出ることにした。


 支度をして誰もいなくなった教室を出たとき、廊下の傘立てに一本だけ傘が立てかけてあるのを見つけた。それは青い傘だ。先に教室を飛び出したしほが忘れていったものだった。


「……」


 私は傘を学校に持ってこなかった。今朝は雨が降っていなかったからだ。でも、これから降るかもしれない。そう思った私は、彼女の忘れていった傘を借りることにした。帰りにしほの家に寄って、返せばいい。そうだ、そのときに仲直りをしたらいい。


 私はしほの傘を持って学校を出た。これから行く塾は商店街の先の、線路の踏みきりを越えた向こう側にある。普段の通学路から離れるので傘を返すのは遅くなるけど、返すのは塾の帰りでいいだろうか。


 商店街にさしかかると、今朝、文具店の店主に怒られたことを思い出した。結局、私としほは先生に何も言われなかったから、店主の倉間さんは学校に言いつけなかったのだろう。ああ見えて案外甘い人なのかもしれない。


 そんなことを考えながら塾に遅れまいと急ぎ足で進んだ。この時間でも商店街に人の気配はない。私が教室で最後になるまでいたから、帰宅する学校の生徒も軒並み通り過ぎたところだろう。歩道にかかるひさしのすき間から見える空は、雲で覆われていた。肌に感じる気温も下がっているようで、もうすぐ雨が降るかもしれない。しほの傘を軽く振りながら歩いていると、今朝と同じところで足が止まった。


 しほが叩いて怒られたシャッターだ。軽く傷がついている。それが、しほが傘で叩いたことによるものかは私には分からなかった。先に私が彼女を止めていれば、怒られずに済んだかもしれない。後悔しても遅かった。


 ガラス板に何かがぶつかるような鈍い音がした。次に、小物が崩れて床に落ちる音も。


 私は不穏な気配を感じて、振り返って道の反対側を見た。そこにはちょうど、営業中の文具店がある。音が聞こえてきたのはその文具店からだった。奥で倉間さんが転んでしまったのかと思い、文具店の入り口をのぞこうとして、私は身をかがめた。高齢の店主に助けが必要かもしれないと思ったからだ。そして、私はそのまま動けなくなった。


 私が、文具店の入り口を凝視したまま身体が固まってしまったのには理由があった。そこにいたのは倉間さんではなかった。人でもなかった。暗い入り口から頭を出したのは、おかしな様子で唸り声を上げる野良犬だった。ゆっくりと、顔をあちこちに向けて振り回しながら、その野良犬は文具店から出てきて、私に全身の姿を見せた。


 胴体と四本の足は灰色の乾いた泥で覆われていて、体毛をコンクリートで固められたようになっていた。どこから来たのかわからないその野良犬は、歯ぐきを見せてこっちを威嚇している。大きな頭の、大きく口を開けた歯の一本一本から頬、頭頂部に至るまで、赤くなって汚れていた。血走った二つの目が私を捉えている。


 倉間さんはどうしたのだろう。まさか、この犬に襲われて大けがをしているのかと思うと、恐ろしかった。私ひとりではとても倉間さんを助けられそうにない。でも、助けを呼ぼうにも、目の前の犬から逃げることができるだろうか。もし自分が襲われたら、ひとたまりもない。


 どうすべきか迷っている間、野良犬は私に対する興味を失ったようで、店の入り口の脇にある金属の支柱にしきりに噛みついていた。


 今なら安全に立ち去れる。


 ゆっくりと下がろうとしたそのとき、遠くで雷が落ちた。閃光が空を覆う。遅れて届いた雷鳴が、かすれた吠え声と重なった。


 稲光に驚いた野良犬が、一目散に道路を横切って突っ込んでくる。あまりの勢いに私は避けられなかった。そのまま傘を持った私は押し倒されて、身体のあちこちを鋭い牙を立てて噛みつかれた。


 凶暴な野良犬は私から噛みついて離れようとしない。犬の恐ろしい口からは、大量によだれが垂れてきて、私の身体中に降りかかった。前足の猛烈な力で押さえつけられて、私は身をよじって犬から逃れようとした。だめだった。とても逃げられない。傘は押し倒されたときに落としてしまった。


「誰か。助けて!」


 叫んでも誰も助けてくれない。近くには誰もいない。


「倉間さん!」


 店主の名前を呼んでも、助けに来てはくれなかった。私に襲い掛かる野良犬は倉間さんの店から出てきたのだから当然だった。私もきっと、店の中で血だらけになって倒れているだろう倉間さんと同じようになってしまうのだ。


「しほちゃん……」


 涙を流しながら呼んだのは、私の友だちの名前だった。噛み傷だらけになった腕で、一度は離してしまった傘を握り直し、私に覆いかぶさる犬の胴体をひたすら叩いた。

 私を噛まないで。もうやめて。痛い――――


 どれくらい経っただろう。気づけば、犬の身体は動かなくなっていた。私は息も絶え絶えで、野良犬のよだれと自分の涙でぐちゃぐちゃになった顔をぬぐって、重たい獣の身体を横にどかした。


 壊れた傘の骨が何本かむき出しになって、野良犬の喉元に深く突き刺さっていた。流れ出た血が骨組みを伝い、青い布地の一部を真っ赤に染めていた。


 傘、しほに返さなきゃ。


 私はゆっくりと立ち上がり、壊れてぼろぼろの傘を犬から引き離した。自分自身の身体のどこをどのように怪我しているのか、もはやわからなかった。着ていた服は所々に穴が開き、血まみれだ。犬の血か、私の血なのか。


 商店街に転がる犬の死体。私は犬の死体を放置して、壊れた傘の先を地面に引きずりながら、しほの家へと向かった。



 インターホンを鳴らす。雨は結局、降り出さなかった。雲の切れ目から陽光が差し込んでいる。


「はい」


 スピーカーから聞こえたのは、しほのお母さんの声だった。


「かなたちゃん? どうしたのその格好!」


 少し間をおいて、驚き、焦ったような声色で、しほのお母さんが心配の声を上げた。そして慌てた様子で、彼女はドアを開けて姿を見せた。


「どうしたの……」


 半ば呆然としている彼女の向こう側、玄関の奥の廊下で、しほが様子をうかがうように顔をのぞかせた。


「これ、返すね」


 借りていた傘を笑顔で差しだす。やっとの思いで傘を持ち上げた。しほにまた会えて、とても嬉しかった。なのに、しほは私を見て顔を引っ込めてしまった。


「どうしたの」


 しほのお母さんはどうしたのとばかり言う。ついに私に駆け寄って、私を玄関の中へ引き入れた。




 結局、後で聞いた話によると、文具店の倉間さんは凶暴な犬に抵抗できずに店の中で亡くなっていたそうだ。私と倉間さんを襲った野良犬は、前日に隣町の交差点おばさんを襲っていた。交差点おばさんの遺体は、交差点から少し離れたところにある、手入れの行き届いていない雑木林で見つかった。何とか野良犬から逃げ延びたものの、受けた噛み傷が致命傷だったらしい。


 私は救急車で病院に運ばれて、入院しているところだ。身体中を噛まれたものの、できた傷は私を死なせるには至らなかった。手術のあと、しほがお見舞いに来てくれて仲直りをすることができた。私が助かったのはしほの傘のおかげだ。退院したらまた一緒に遊ぼうと約束をした。


 あの日先に帰ったことを、しほは泣いて謝っていた。別に、謝ることはないのに。私はそう思って、笑ってしほを許した。傷口が痛む。それは、私が生きていてこそだ。

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