第32話(エピローグ)晩夏

そのペンションを出た後、車で少し走り見晴らしの良い高原のレストランで遅めの昼食を取った。由紀はクラブサンドとコーヒー、薫は土地の乳製品で作ったチーズを使ったドリアを注文した。窓越しに眼下に広がる草原を薫は眺めていた。由紀は、小さなあくびをした後、一寸恥ずかしそうに薫の顔を覗いてから

「薫は眠くないの?あんなに頑張ったのに。」

「少し眠いけど、運転してると頭が冴えてくるから。」

「今晩は、何処取ってあるの。」

「この先の高原の、貸別荘村でコテージみたいな所。食事は少し離れたレストランに行かなきゃ成らないけど。静かで良い所だよ。天気が良ければ、満天の星が見える。小さなジャグジーが付いていて、星空を眺めながら入れるし。」

「へー素敵そうね。やっぱり姉と来たの。」

「いや、従兄弟と母親の三人で、僕の大学の入学祝いて事になってるけど、その時は母の高校時代の知り合いがコックしていたんだ。」

「ふーん、その従兄弟さんて、例の外苑の側のマンションの人?」

「うん、そうだけど。従兄弟って言うより一寸年の離れた姉みたいなもんで、実際家族の中では、綾姉(あやねい)で通ってるけど。」

「ふん、私も後でご挨拶に行かなきゃね。薫の子供を産むに当たっては。」

「まあ、その前に、順番からすれば母親だろう。でもそんな発言したら、うちの母親パニクッチャウと思うけど。由香が突然尋ねて来た時でさえ、大変だったからね。」

「うん、確かにそうだね。」

「でも、急に尋ねて来ないでね。」

「え、何で?」

「たぶん、二人とも由香の幽霊と勘違いするから。妹がいるとは言ってあるけど、僕でさえ見分けが付かなかったんだから、二人とも絶対由香だと思うよ。それに、綾姉には、由香が死んだ後、さんざん迷惑かけたから。そこへ、由香そっくりの由紀を連れて行ったら、あの時の大泣きは何だったのよとか言われてぶん殴られそうな気がする。」

「うん、それは面白そうだ。良い事聞いたぞ。その綾姉て人、綾佳さんだよね。何時か

あのテーマパークで出会った。」

「あっそうか、あの時由紀は由香に成りすましてた時か、でも綾姉は由紀の事知らないよ。由香と逢う事事態が初めてだったから、ましてやそれが由紀だったなんて、だから綾姉の中では由紀が死んじゃった事になってるよ、きっと。そこへ由紀を連れてったら本当に幽霊と勘違いして気絶するかもしれない。」

「姉、由香が死んだ時そんなに悲しかった。」

「ああ、とても苦しかった、一人で居るとたまらなくなって、綾姉の所に転がり込んで泣いてた。本当は灰に成った由香の骨を盗みだそうかと思ったくらいだ。有る意味覚悟はしていたんだけどね。そんな気持ちを救ってくれたのがあの由香のノートだった。きっとそれも由香の計画の中に入って居たんだろうけど。」薫は暫く、草原の彼方を見つめてから

「それと、あの三日間の空白が未だに分からない。由香はあの間何をしていたんだか、最後の夜を過ごした後に。由紀は何か知ってる?」

「うんん、知らないのよ。あの頃になると、由香は私に腹を立てたせいか、頻繁にはメールを寄越さなく成っちゃって、断片的にしか分からないの。由香が死んだ時でさえ、私は、ソールズベリーのストーンヘイジの調査に行っていて直ぐには帰国出来ずに、結局由香の最後の顔を見る事さえ出来ずにお別れしなければ成らなかったんだから。」

「そうか、残念だったね。」

二人は、静かに食事を終えてから、外に出て高原の空気を吸っていた。晩夏の風が二人の側を吹くたびに、一つずつ思い出が過去に変わって行った。「今を、此からを生きなければ」そんな思いが薫の脳裏を過ぎるのを感じた。

 高原の宿に向かう途中、由香のノートに記されて居た場所に立ち寄る事にして、車を出した。

「その場所って、私と行った場所じゃないかな。私がまだ薫と会う前の年で、用事があって一時帰国した時に、まだ時差ぼけで頭がふらふらしてる私を強引に西園寺家の車に乗せて連れて行った所だと思うけど。」

「ふんーん、由香のノートには三年後に来てみてて書いて有るけど。」

薫が借りたレンタカーは小型だったが、馬力はそこそこあり、曲がりくねった道を軽快に走った。一面の草原はまだ夏の香りに満たされていたが、高原に咲く花は既に秋の準備に入っていた。大きなうねりのある丘を過ぎると、こんもりした森が見え始め、暫くして草原から木立の中に入っていった。木立が途切れるとポッカリとした広い空間に出た。そこは緩い谷間になっていて、嘗て大きな土砂崩れが有った場所でその後の砂防ダム工事などで資材置き場や土砂の仮置き場などに使われていた場所だった。車を降りた二人が目にした光景は、一面のコスモスの花畑だった。

「これ由香が蒔いたんだ。コスモスの種を。」

「え、何で分かるの?」

「ノートにヒントが書いてあった。そう言えば、あの年さんざんコスモスの種を集めさせられたんだ。それからヒマラヤに有るって言う花畑の事をしきりに言っていた。」

「ヒマラヤのお花畑?」

「確かランタン谷とか何とかって言う名前で、青いケシの花が咲く谷で有名な所なんだ。」

「それで、青いコスモスが有るの?」

「由紀は何か覚えて無いの?一緒に来たんでしょ?」

「うんん、ともかく時差ぼけで殆ど車の中で寝てたから。」

薫は、ふと子供の頃の記憶が蘇ってくるのを感じていたが、それが何であったかハッキリしないまま、目の前のコスモス畑を見つめていた。

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