第2話【R-15】「FIVE senses」Tactile&Taste

暗闇の中、隣で眠る羊(ヨウ)の寝息で月翔(ツキト)は目を覚ました。


明かりのない、薄暗いホテルのスイートルームのベッドの上。

穏やかだが、どこか少し疲れが見える寝顔。

それもそうだ。

かなり招待客を絞ったとはいえ、昨日の結婚式は華やかで充実していたが、緊張しないはずもなかった。

元々サービス精神旺盛でタレントという職業柄、人前でのパフォーマンスには慣れているはずの羊だが、披露宴が終わったあとはさすがに少し疲れたようだった。

それが分かっていたにも関わらず、式が終わってホテルで二人っきりになってからは気持ちが抑えきれず、思わずベッドに押し倒してしまったことを今更ながら反省する。ホテルウエディングにしたのは、ある意味正解だったかもしれない。

二人で色んな式場を見て回り、舌の肥えた羊が、どうしてもと決めたホテルだった。


昨日までは恋人だったけれど、今日からは妻になった女性。


そう思うと月翔はなんだかくすぐったいような気持ちになった。

中学校の時に思い切って自分から告白したことを思い出す。

一瞬驚き、頬を赤らめ「その言葉を待ってたわ」と微笑んだ羊の顔が忘れられない。

羊のことは大好きだったし、学年が違うが零韻(レイン)や蓮美(ハスミ)、寿城(トシキ)たちとは小学校の時からずっと一緒だった。

付き合い始めの頃は手を繋いで帰るのがちょっと照れ臭かったのが懐かしい。


それにしても。


羊がモデルの仕事始めたのは月翔と出会う前、5歳の頃からだというから頭が下がる。

彼女の実母が、とある写真コンテストに娘の写真を送ったのがきっかけで芸能界デビューしたのだが、仕事をしながらも小学校から高校を卒業し、今も最前線で人気タレントとして活躍している。

月翔はといえば両親は健在で、飛び級で早くに医大を卒業してからは研修医として従事し、臨床研修期間を終え、やっと一年半が経った。

羊の母親が、羊との結婚条件に「臨床研修を修了して研修医を卒業してから」を提示してからはもどかしくて仕方なかった。

研修医になり、二年間の臨床研修を修了しない医師・歯科医師は診療所を開設することや病院・診療所の管理者(いわゆる院長)になる事ができない。

つまり、将来的には自分の診療所を持ちたいと思っている月翔にとって、臨床研修は避けて通れない道なのだ。

さらに研修医の期間中は、国としては各研修施設に月30万円程度の給与を支払うよう求める一方で、補助されるのは経費込みで月10数万程度と言われているのが現状である。とてもではないが一家の大黒柱になれるような収入ではないのは月翔自身が一番分かっていた。

それだというのに、自分は大学卒業まで両親に面倒を見てもらっており、研修期間も実家暮らしだった。知り合った時にはすでに自分で働いて稼いでいたという羊の逞しさに感服せずにはいられない。

(…本当に、すごいよなぁ…競争の激しい芸能界で、大変だったろうに…)

思いながら、彼女の額にかかった前髪に手を伸ばす。

猫のように柔らかくふわふわとした、オレンジがかった赤毛の感触に、自然と笑みがこぼれる。

緩くうねる赤毛は、染めていないし後からパーマを入れたものではない。羊の地毛だ。

母親は生粋の日本人だが父親がスコットランド人で、とりわけ赤毛の多いエディンバラ地方の出身だったらしい。

すやすやと優しい寝息を立てている妻を起こさないようにと、そっと前髪を撫でる。

「…ん…」

小さく身じろぎし、羊がうっすらと目を開く。

「ごめん、起こした?」

「…んむ…」

半覚醒の羊はぼんやりとした表情で月翔を見つめ返した。

焦点が合うか合わないかといううちに子猫のような欠伸をし、「今何時?」と呟く。

「えーっと…5時前。ごめん、疲れてるだろ?」

「…ちょっと、ね…」

言いながら羊は月翔の鎖骨に顔を埋める。月翔の体温と、微かな匂い。

抹茶のような、竹のような、どこか懐かしい香り。

以前、何か香水でもしているのかと聞いたが特に何もしていないらしい。

「…月翔の匂い…お父さんに似てるわ…」

「交通事故で亡くなった?」

「うん」

羊の実父は羊が小学校高学年の時に玉突き事故で亡くなり、以降は母が女手一つで彼女を育ててきた。

「物静かで、優しくて…怒ったら物凄く怖かったけれど、言葉遣いの丁寧な…

一緒にいてとても楽しい人だった…」

両親は彼女をバイリンガルにと育て、羊はとても流暢な英語を話せるようになっていた。それは芸能活動でも遺憾なく発揮され、とある英会話教室のCMに出演した際にも、背中に鉄板が入っていそうな筋金入りのクイーンズイングリッシュを披露し、視聴者の心を鷲掴みにした。

小学校からの幼馴染で中学校から付き合い始めた二人だったが、家がそう近所ではなかったのもあって家族ぐるみの交流はさほどなく、月翔は生前の羊の父に会ったことがないままになってしまった。

フリーカメラマンで日本中を飛び回り、子煩悩だったという彼女の父は愛娘と妻の写真を撮り続け、あまり自分の写真を遺すことがなかったという。

それでも僅かに遺っている彼が写った写真は、どれも幸せそうな家族愛に溢れた写真ばかりで、どれだけ羊が愛され、また彼女の家族が幸福に満ちていたがよくわかる。

「そのお義父さんが撮ってくれた写真がフォトコンテストで優勝して、今の仕事に繋がってるんだよね?」

「うん。お母さんが勝手に送ったんだけどね」

今の芸能事務所から契約の話が上がった時、羊の母は一つ条件を出したという。

「『娘のマネジメントは全部自分にやらせろ』っていうんだから、ウチのお母さんもすごいわよねぇ」

くすくす笑う羊の頭を撫でながら「それだけお義母さんは羊を大切に思ってるんだよ」と囁く。

「分かってるって。お父さんがいなくなってからは特に熱が入ってるし。

……本当、あたしのことばかりで……お母さん、再婚してもよかったのに…」

スケジュール管理は当然ながら食事や体型管理も徹底し、娘の為に一緒にエクササイズも始めるような母親で、自分のことは二の次に、夫の忘れ形見である娘の為に、羊の母は朝から夜まで奔走した。

「昨日、お義母さんずっと泣いてたね…」

娘の晴れ姿に、母は感極まって式場で泣き崩れた。

父の遺影とともに結婚式に参列し、誰よりも喜び、誰よりも二人を祝福してくれていた。

「披露宴で早速孫の顔が見たいなんて言うんだもの…気持ちは分からなくないんだけどさぁ」

とぶつくさ言いながらも、ちょっと嬉しそうな羊。

「で、実際どうする?」

「え?」

「子ども。どうする?」

やや灰色がかった月翔の瞳が、羊の大きな瞳をのぞき込んできた。

月翔の瞳は月のようだと、羊は思う。

一見無機質だが、穏やかで柔らかく、優しく包んでくれるような包容力がある。

その瞳に自分が映っている。

それがどうしようもなく嬉しくて、羊は花がほころぶように微笑む。

妻の何がそんなに嬉しいのか分からず、月翔は少し首を傾げ、羊の頬に手を伸ばす。

手で包み込むように羊の左頬に触れ、ゆっくりとその感触を確かめると、つぅ、と指の腹で撫でる。

頬から首筋、そしてゆっくりと鎖骨をなぞると、羊がびくりと身体を震わせる。

左の鎖骨を丁寧に、丁寧に指でなぞり、今度は右の鎖骨も撫でる。

「ん、ぁ…ま、待って…鎖骨は、だめ…」

「鎖骨だけじゃないでしょ」

月翔は羊の鎖骨を撫でながら、反対側の腕を羊の背中に回し手のひらを這わせる。

「ひぁっ…!」

「羊は背中も弱い」

言いながら、月翔は『【ほんの少しだけ】皮膚感覚能力を開放する』。

手のひらから、指先から、脳に伝わる情報量が増える。

羊の正確な体温、心拍数、分泌物、そして彼女が感じているであろう感覚までが数値化されてリアルタイムで伝わってくる。

少しずつ、ゆっくり、位置を変えながら羊の身体を愛撫する。

羊の身体はとても中性的だ。なかなか大きくならない自分の胸に思春期の頃こそ悩んでいたが、今ではもうスレンダーな自分の身体を「春枝羊という商品」として割り切っている。

月翔自身も、元々体格が良い上に海保で鍛えられた寿城や、モデルでアクション俳優をしている蔵人(クラウド)に比べるとやや華奢な体つきをしている。

鍛えていないわけではないが、他の二人に比べて追い込んで筋肉を付けたいわけでもないし、ヨガや太極拳、ウォーキングで基礎体力を上げるぐらいだ。

二人して似たような体つきをしていると思う。

それでもやはり男女の違いは隠せず、月翔の身体はしなやかながらも筋肉と骨の熱量を感じさせる体格だし、羊の身体はまろやかで優しい曲線を帯びた柔らかな体つきだ。

その胸の中央。心臓の辺りにそっと手の平を押し当てる。

(…なんて熱い…)

皮膚感覚の感知モードを数値ではなく熱量に切り替える。

皮膚に触れているのに、まるで心臓そのものに触れているかのような熱さに、月翔は眉間に皺を寄せる。

熱い。炎のような熱量だ。

手の平だけでは持て余してしまい、指先で、唇で愛撫する。

確かに熱いが、身を焼き尽くすような激しさはない。

むしろ暖炉のような熱さで、柔らかく、温かく包んでくれるような熱さ。

この熱さだけは、初めて羊と肌を重ねた時から変わらない。変わるはずもない。

(単純に…体温だけ、ってわけではないんだけど、なんだろう…?)

(想いが、愛情が比例してる…?)

そこまで考えて少し恥ずかしくなってしまった。

そうであって欲しいし、多分そうだろうけれど、今のこの状況でちょっとそれは恥ずかしすぎる。自分で自分が赤面しているのが分かった。穴があったら入りたい。

恥ずかしさを誤魔化すように、月翔は羊の胸に唇を這わせる。

「んぅ、あっ…ぁ、つ…つき、と…」

喘ぐ羊の声に、月翔と思い出したように羊の胸から唇を離した。

「あ、そうだ」

「…?」

「子ども、どうしようかって話だった」

羊の息が一瞬止まる。

次の瞬間、彼女の口から鉛のように重い溜め息が吐き出された。

「えっ、何?子ども、欲しくなかった?」

「そんなワケないでしょ…ただ…昨日結婚式上げたばかりなのよ?

まだまだ仕事も頑張りたいし、当分は『夫婦として』じゃなくて、今まで通りの『男と女としてのセックス』を楽しみたいの」

「そういうことかー」と月翔は分かっているのか分かっていないのかよく分からない表情で答える。

そんな月翔を見ながら羊はやれやれと小さく笑う。

そして何の前触れもなく月翔の唇を吸った。

不意打ちを食らい月翔は一瞬驚いたが、柔らかく温かい感触に静かに目を閉じる。

この感触は何度経験しても飽きることはない。

唇を重ねる度に記憶が塗り替えられていく。

今の感触が、また次の瞬間の感触へ。

何度も何度も、小鳥が啄むように口づけを交わし合う。

月翔は、羊の唇の感触が大好きだった。

普通に手で愛撫されるのも嫌いではないが、唇で身体中を触れられるとまるで電流が流れたような快感が走る。

(あ。しまった)

(皮膚感覚を広げたまんまだ)

気づいたが遅かった。

感覚を広げると相手のことを色々と感知できるようになるが、同時に自分自身の感覚もそれなりに鋭敏になる。

「ん…ふぁ…あっ」

息をする間もないようなキスに、月翔は堪えきれずに声を上げる。

そんな夫に、羊は満足そうに艶やかに微笑んだ。

そしてわずかに人差し指で月翔の唇を開くと、自分の舌を無理矢理ねじ込んだ。

「んっ、…んむ…!」

急に口呼吸を塞がれ、月翔は息を詰まらせる。

「待って」とも言えず口の中を蹂躙される。

羊はうっすらと目を開けると、そんな月翔を見かねて、一瞬だけ唇を離す。

「は、あ…」

ようやく息をつく月翔を、獲物を平らげたような満足気な顔で羊が見下ろす。

「うふふ…美味しかった」

一頻りキスの洗礼を受けようやく落ち着くと、月翔は観念したように両手で顔を覆う。

「…悔しい…感覚解放してたとはいえ、キスだけでイかされそうになった」

「イッちゃえばよかったのに」

言いながら羊は月翔の唇を子猫がミルクを舐めるようにぺろりと舐める。

「…本当に唾液の味なんて分かるの?」

大きく息を吐いた月翔がようやくそう呟いた。

羊曰く、月翔の口内ー正確には唾液の味と、羊自身の唾液の味がハッキリと違うらしい。

「そうね…月翔はね、ちょっと甘め白ワインの味かな」

確かに個体差はあるが、そこまで明確に「味覚」として認知できるのは羊ぐらいなものだ。ちなみに羊自身の唾液は「ちょっと辛みのある清酒」なんだそうな。

「他の人はどんな味がするのかしら?」

「それはやめて。羊は僕の大事なお嫁さんなんだから」

好奇心丸出しの新妻に、月翔はやんわりと待ったをかける。

「…僕は羊の唇が好きだな。柔らかくて、温かくて、甘い唇。羊の唇から紡がれる言葉はいつも、とっても綺麗だ。優しくて、キラキラしてて…いつも僕を幸せにしてくれる」

うっとりと微笑む夫に、羊はもう一度、優しくそっと、綿菓子のようなキスをする。

「あたしは月翔の手が好きよ。子どもたちを痛い怪我や怖い病気から助ける、大事な、大事な手。そして、あたしを優しく撫でてくれるあったかい手。月翔が触ってくれると、とっても幸せになる。気持ちよくなってどこかへ行っちゃいそうなあたしを、力強く繋ぎとめてくれる、大切な手」

月翔の右手を取り、その指一本一本にキスをしていく。

この感覚は、この愛おしさはどこからくるのだろう。

一緒に過ごしてきた時間の長さだけではない。

ふとした仕草、触れた体温がこんなにも愛おしい。

「これからもよろしく。あたしの大切な旦那さま」

「こちらこそよろしく。僕の大切なお嫁さん」

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