第233話 二人でマッサージ


 そこから時間いっぱい、俺と海の練習は続く。


 最初の内は軽くジョギングする程度から始め、そこから徐々に速度を上げて、それでもリズムが合うように、グラウンドの端から端までの往復を繰り返す。


「ほらほらっ、またリズムがずれちゃってるよ。きついのはわかるけど、ちゃんと私の声も聴いておかないと、足がこんがらがって、二人とも派手に転んじゃうよっ」


「……う、うん。が、頑張ります」


「よしっ、頑張れ真樹っ! 練習終わりまであと少しだっ」


 最初の内は優しかった海だが、やはり教えているうちにヒートアップするのか、体力不足でへばっている俺にも容赦してくれない。


 走っては少し休み、また走っては少し休んでの繰り返し。俺は当然のごとく、実は海も、天海さんのようにぶっつけ本番でアジャストできるような器用さは持ち合わせていないから、二人の息を合わせるには、とにかく練習を繰り返すしかない。


 まだ練習1日目ではあるものの、すでに今までの人生で走った以上の距離を、この1、2時間で走っているような気がする。


 熱中症対策のため、こまめに水分をとって休憩は入れているものの、正直に言って、体力の限界だった。


 体のほうはたまに筋トレで鍛えていたのでもう少しできると思っていたが……どうやら今後は早朝のランニングになってくるかもしれない。


 同じメニューをこなしたはずなのに、なお涼しい顔をしている海を見て、俺はそう思った。


「はあ、はあ……う、うみぃ、ごめん、俺もう、ちょっとヤバい……」


「そう? じゃあ、時間まではあとちょっとあるけど、今日はこのへんにしておこっか。明日は体育祭の全体練習だから、明後日からまたビシバシいくからね」


「う……お、鬼がここにいる……」


「なんかいったかおまえ」


「いえ、たいへんもうしわけありません」


「ん、そうか。……とりあえず、息が落ち着くまで日陰で休も。ほら、私の肩に掴まっていいから」


 練習が終わり、すぐに『教官』から『彼女』モードへと切り替わった海と一緒に、グラウンド隅にある部室棟の裏へ。以前、望が天海さんに告白して玉砕した時に話した場所だが、ここなら人も少ないので、集合時間までゆっくり休めるだろう。


「私、水筒持ってくるから、真樹はここで座って待ってて。……勝手にどっか行っちゃダメだよ?」


「迷子じゃないんだから、大丈夫だよ。ってか、もう一歩も動けない……」


「もう、だらしないんだから」


 呆れたように笑う海と一旦別れて、俺はベンチの背もたれに思い切り体を預け、大きく息を吐いた。


 久しぶりの運動で体を苛め抜かれたわけだが、終わってみると、体の疲労以外はなく、むしろ気分はすっきりとしている。


 これがほぼ毎日ではなく、週一、二ぐらいの頻度であれば、きっと気持ちよく続けられるのだろうが……とりあえず、明日の筋肉痛がどうなるかが、今のところの懸念点だったり。


 予め決められている練習時間の終わりが近いこともあり、日中は騒がしかったグラウンドにも、今は緩んだ空気が流れて、そこかしこから談笑する声が聞こえてくる。


 放課後独特のどこかまったりとした雰囲気だが、そんな温い空気が、俺は嫌いじゃない。気温のほうも少しずつ下がって涼しくなってくる時間帯だからというものあるが。


「――真樹、お待たせ。はい、真樹の分の水筒もついでにもらってきたよ」


「ん。ありがとう、海」


 自分の分の水筒を受け取って、運動で渇いた喉に冷えた麦茶を流し込む。


 前日、今日のためにやかんで作っていた麦茶独特の香ばしい風味が、鼻の奥で広がり、体の中に入った水分が、運動で火照った体を徐々に冷ましていく。


「ふう、生き返る……」


「ふふ、大袈裟。気持ちはわかるけど……ねっ」


 コップになみなみと注いだ麦茶をひと息に飲んで一息つくと、海が俺のほうへ体を寄せてくる。


「あ、海……今、汗かいてるから」


「ん? だから?」


「いや、汗臭いし、気持ち悪いかなって」


「い~のっ」


 汗を大分かいたこともあり、体操服のシャツは体に張り付くほど湿っていたが、そんなことは気にしないとばかりに海はくっついてきて、俺の首筋をくんくんと匂いを嗅いできた。


「……うん、汗臭い。でも、今日はそれだけ頑張ったもんね」


「そりゃ、海と一緒だったから。最後のほうは大分へばっちゃったけど」


「まあ、初日だし。これから続けていけば、スタミナなんてあっと言う間に付いちゃうから」


「そうかな。まあ、それならもうちょっと頑張ってみようかな」


「おう、頑張れ。……それに、ごほうびもあるしね?」


「まあ、それは……うん」


 何をくれるのか、してくれるのかは本人次第だが、俺が海にされて喜ぶことなんて、海にはもう全部知られてしまっているから、一応、楽しみに待っておこうと思う。


「あ、そうだ。真樹、脚、痛くなってない? マッサージしてあげよっか?」


「マッサージ……してもらえるのなら嬉しいけど、海、できるのか?」


「うん。といっても、本でかじっただけだから、大した効果はないんだけど。……で、どう?」


「……お願いしてもらっていいですか」


「ふふ、よろしい」


 身体的な効果は薄くても、海がやってくれるのなら、少なくとも俺にとっては癒しなので、断る理由はない。


 海に言われるまま靴と靴下脱いで、ベンチの上に素足をのせると、海が優しい手つきでマッサージしていく。


「うわ、真樹、いつもよりだいぶ脚パンパンだね。こりゃ明日は確実に生まれたての子鹿だ」


「だよなぁ……何気に俺、今まで一番『明日なんて来なけりゃいいのに』って思ってるよ」


「それわかる。私も始めの内はそうだったけど、まるで『え? これ本当に自分の足ですか?』みたいになるからね。……真樹、ここ、どう?」


「いた……い、けど、気持ちいい、かも」


「素直でよろしい。じゃあ、もっとしてあげるね」


 足の裏、ふくらはぎ、そして太ももと、海の手がしっかりと俺の脚をもみほぐしていく。


 かじっただけ、と海は言うが、それでも十分気持ちがいい。俺の脚がそれだけ張っているのか、それともマッサージしてくれているのが海だからか、それは今のところわからないけれど。


「――はい、おしまい。後はしっかり湿布とか貼って、『朝起きたら子鹿になってませんように』ってお祈りして眠りにつくだけだね」


「結局大事なのは祈祷ってことね」


「そゆこと。でも、やるだけタダだし」


「それもそっか」


「うん。そうそう」


 海にマッサージのお礼をして靴を履きなおすと、心なしか、脱いだ時よりも脚全体が軽くなっている気がする。この後しっかりとケアをする必要はあるし、結局は明日の自分頼みなのだろうが、少なくとも、何もしなかった時よりは大分マシになったのは間違いない。


「ありがとな、海。練習もそうだし、マッサージも……なんか俺だけ色々やってもらっちゃって、申し訳ないぐらいだ」


「ふふん、そうだよ? こんなに優しくて世話焼きな彼女さんがいるなんて、真樹は本当に幸せ者なんだから」


「うん。それに関しては、文句のつけようがない」


 厳しいところは厳しく、そして、その後のケアもしっかりと欠かさない。なんてアメとムチの使い方が上手いことだろう。


 おかげで、俺なんて、今やすっかり海の手のひらの上で面白いようにころころと転がされてしまっている。


「ところで、俺ばっかりやってもらっちゃったけど、海は大丈夫? ちょっともみほぐすぐらいだったら、俺もマッサージしてやれると思うけど」


「私は大丈夫。このぐらいだったら毎日の早朝ジョギングでやってることだし、気持ちだけ受け取って……あ、じゃあさ、その代わりにやって欲しいことがあるんだけど、いい?」


「? 俺にやれることなら、なんでも構わないけど……何?」


「うん、あのね――」


 再び俺の方に身を寄せてきた海が、上目遣いで俺へとお願いしてくる。


「――いつもの、ここでやって欲しいな~、なんて」


「いつもの……って、まさか、」


「うん。いつも夜電話するとき、たまに真樹が私に言ってくれるやつ。……アレを、ギュッと私のこと抱きしめて、耳元で囁いて欲しいなって」


 ほぼ毎日、夜寝る前に海とは電話しているので、海が何を要求してるのかはわかる。俺も気を向いた時にしか言わないので、確かに、海にとってはマッサージのお礼の対価として要求する理由としては十分かもしれない。


 ……ここでやるのが、とても、とても恥ずかしいという問題を除けば。


「ね~え、お願いっ。私のマッサージ、気持ちよかったでしょ? 脚、楽になったでしょ? 自分だけ気持ちよくなるなんて、そんなのズルいよ」


「うぐ……そう言われると何も言い返せない」


 全体の集合時間まではまだ10分ほどあるので、皆にばれないうちにさっとやってしまえば問題ないだろうが……海の様子を見るに、すっかり甘えん坊モードになっているので、ここは素直に応じたほうがいいか。


 それに、俺だって、海の喜ぶことならなんでもしてあげたいわけで。


「じ、じゃあ、海がそこまで言うなら……いいけど」


「ほんと? やたっ。普段はお願いしても恥ずかしがって言わないのに……『真樹に何かをして欲しい時はその前に恩を売っておけ――』と。よし、メモメモ」


「ったくもう――じゃあ、今のウチに……おいで、海」


「……うんっ」


 嬉しそうな顔で海が俺の胸に顔を埋めてくる。


 ……うん。やっぱり、俺の彼女はものすごく可愛い。


「真樹、心臓、すごくドキドキしてる」


「海とこうしていると俺はいつもこうだよ」


「そうだったね。でも、そういうの、私はすごく嬉しいよ」


 おそらくみんなが練習を頑張っているであろう裏で、俺は彼女と一緒にこっそりとイチャイチャしている。


 そのことにわずかに罪悪感を覚えるものの、だからと言って、目の前の彼女の魅力に抗うこともできず。


「海、」


「んっ……うん、お願い」


 ほんのりと赤くなった海の耳に軽く吐息を吹きかけた後、俺は、しっかりと、海だけに聞こえるように唇を動かして――。



「――おいおい~、なんだかとても楽しそうにご休憩してますなあ? なあ、お二人さんよお~?」

 


「「ひっ……!?」」


 俺が海の耳元で言葉を囁いた瞬間、突如割り込んできたドスの利いた声に、俺と海は、お互いのことを抱き合ったまま、ほぼ同時に、驚きで体を飛び跳ねさせる。


「「な、中村さん……」」


「ふ、ごきげんようだこのバカップ……いや、朝凪ちゃんに前原君」


 おそるおそる声の主のほうへと目を向けると、そこには、俺たちと同じ青組の鉢巻きと、そして、『体育祭実行委員』と書かれた白い腕章と、生徒会役員であることを示す腕章を左腕につけたメガネ女子が、俺たちの前に仁王立ちしていたのだった。

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