第218話 ただいまとおかえり


 予備校通いから始まった7月の夏休み序盤は、慌ただしくも、なんとか楽しく過ごすことができた。


 天海さんやその他大勢である俺たちへの視線などは初日以降も感じていたものの、さすがにそれで1週間持つほどの話題ではなかったのか、四人で無視しているうち、次第に嫌な声は聞こえなくなって、勉強に集中することができた。


 なので、総合的に見れば、いい経験になったのではないかと思う。ただ、本格的に通うのは、まだもう少し先の話しになりそうだ。



「――真樹、こっちのれんこんのきんぴら、火加減ってこんなもんでいい? 火力足りてるかな?」


「ちゃんとジュージューって音してるから大丈夫。後はこのまましばらく炒めて、水気がなくなったら火を止めて、少し冷ましてから容器に移せばOK」


「は~い」


 で、夏期講習が終わって翌週のこと。俺は海と一緒に家でいつもの常備菜づくりに励んでいる。お弁当作りは夏期講習の間で終わったので作る必要はなかったのだが、


『今週も作りたい』


 と海が希望したので、久しぶりに二人でキッチンに立って一緒に作業しているわけだ。


 もちろん、天海さんと新田さんはいない。


「一応、これでいつも作ってるレシピの全部かな。またあとでメッセージで送るから、わからないところがあったらそれで確認するか、俺に電話してくれればいいから」


「うん。ありがとね、真樹。また朝から急にお願いしちゃって。この前、作り過ぎちゃったのをおすそ分けしてもらった時、お母さんがわりと気に入っちゃってさ。料理を習いがてら行ってこいって」


 ドタバタ状態で始まったお弁当のおかず作りだったが、俺が最後の砦になったこともあり、味のほうはいつもの前原家の味に落ち着き、女子たち三人の評価も『おいしい』と上々だった。


 ごはん(もしくはおにぎり)はそれぞれで持参だったものの、玉子焼きなど、常備菜以外で当日に作るおかずは俺のほうで用意したので、四人分はそれなりに大変だったが、喜んでくれたおかげでその苦労を飛んでいった。


 あくまで自分のため、生活のためと思って仕方なくやっていた家事だったが、改めて、やっていてよかったと思う。


「……うん、おいしい。このきんぴら、ちょっと野菜の大きさが不揃いだけど、それでも味は同じだ。はい、真樹も味見。あ~ん」


「うん。むむ……うん、大丈夫、ちゃんと出来てる。これなら母さんが食べても海が作ったって簡単にはわからないんじゃないかな」


 蓮根のきんぴらだが、俺がつきっきりで見たこともあって、きちんと再現できている。しっかりと味付けされた、ご飯と一緒に食べても合う甘じょっぱい味わい。


 料理が苦手な海だったが、天海さんのような天性の『センス×』ではないので、適切に努力すれば、ちゃんとできるようになるのだ。


「へへ、これで私も一歩前進だね。ガスの青い炎の先端がフライパンにつくぐらいが中火。大丈夫、ちゃんと忘れてないから」


「それ、本当に前進してるかな……まあ、進んでることに間違いはないけど」


 半歩、四分の一、いや、爪先ひとつ分かもしれないが、前進は前進ということで。


「……ところでさ、真樹」


「うん?」


「真樹はさ、その……どっちがいいとかって、ある?」


「……どっちが、ってどういう意味の『どっち』?」


 朝はご飯派かパン派か、みたいなことなのだろうが、まず選択する二つを海から明示されていないので、なんとも答えづらい。


 で、俺にそんなことを訊いてきた海はということ、若干俺の方から目を逸らし、頬をほんのりと赤く染めている。


 察して欲しい空気を出しているが……俺が鈍いのか、はたまた海の聞き方が回りくどいのか。その両方か。


「ほ、ほら、私たち、今もずっと仲いいじゃん? 友達から始まって、恋人になって、お互いの家族にも認められてさ。一緒に旅行もいったし……それに、その……え……っちなこととかも、さ」


「あ~……まあ、うん。すごく順調にいってると思うよ、俺たち」


「でしょ? このまま大学に行って、就職して、それでもずっと仲良くやれてたらさ、その、一緒の家に住んだりとか、結婚したりとか、するかもじゃない? その時に、真樹は『どっちがいい』のかなって、ちょっと思って」


「ああ、なるほど。そういうことか」


「うん。まあ、あくまで仮定の話ではあるんだけど」


 高校生の段階でそんな話をするのは時期尚早というものだが、俺と海の状況から考えると、数年後、そう遠くない未来に話し合う時は来るだろう。というか、男女交際においては、俺も海もお互いに一途なので、二人の間に何もない限りは、確実に結ばれると思う。


 俺と海のどちらかが家事に専念する、もしくは共働きで、俺のほうが料理を担当するなど、今の時代、選択肢は色々あると思う。母さんや空さん、そして大地さんも俺たちに対してとやかく口を挟むような人ではないので、俺たちが納得して決めたことなら、それを尊重してくれるだろう。


「う~ん……ぶっちゃけて言うと、正直なところ主夫も悪くないかなとは思ってる。最近は家事も楽しくなってきてるし、母さんのことを近くでいつも見てるから、働くのも、ちょっと怖いし」


「そうだよね。私も新奈からたまにバイトの愚痴とか聞くけど、出来なくはないけど大変そうだなって思うし」


 母さんの職場が少々特殊なだけで、中にはきちんとしている仕事もあることは理解しているものの、学生の俺にとっては母さんや大地さん、陸さんなど、周りにいる人たちから見たり聞いたりしたものが判断材料となるので、働くことに対して二の足を踏んでいるのは、ある。


 アルバイトをしようと思っていても、求人を見て電話をしたり、面接を受けにいったりしていないのは、そういう理由もあった。もちろん、勉強やその他のことで中々手が回らなかったというものあるが。


「でも、そうだな……もし、海とこれから結婚して、家族として一緒に生活するんだとしたら、俺は働きたいと思うよ」


「じゃあ、私の方に家にいて欲しい感じ?」


「いや、そこは海の自由にしてもらって全然構わないけど、少なくとも、今のところの俺の気持ちはそうかなって。……いつまでもいい家族でいるために、俺もできるだけ頑張りたいからさ」


 もちろん、だからと言って仕事以外をおろそかにするつもりもなく、要はバランスの問題だ。前原家ウチの場合は結局上手くいかなかったものの、同じ形をとっている大地さんと空さんは何の問題もないわけで、そこは俺と海、二人にとって最適なバランスをこれから模索していけばいい。

 

「そっか。じゃあ、真樹は私からの『おかえり』はそんなに必要としていない、と。そういうことで大丈夫なわけね」


「それは……その、」


 そうはいいつつも、海と二人一緒にいることの心地良さや、大事な人が隣にいないことによる寂しさを知ってしまった今となっては、家で大好きな人が帰りを待ってくれているという魅力も捨てがたく。


 ……今はまだそこまで真剣に考えることではないが、難しい問題なのは確かだ。


「……海の意地悪」


「ふふ、ごめんごめん。でも、私もちょっと憧れがあってさ。私たち、お互いに『いらっしゃい』はあっても、『おかえり』とか『ただいま』は言ったことないじゃん? だから、そういうのもどうかなって。あ、ちょっと今から予行演習でもしてみる? 私が家で待ってるから、真樹が玄関から入ってくるの」


「俺たちまだバイトすらしたことない学生なんだけど、それで演習になるかな? おままごとみたいにならない?」


「私が言ってみたいんだから、いーのっ。ほら、わかったらいったん玄関から出て。お帰りできないでしょ」


「俺一応ここの家の住人なんですけど……」


 ということで、海に促されるまま、靴を履いていったん玄関の外へ。


 瞬間、ガチャリ、と鍵の音がする。


 俺、今、鍵持っていないんだけど。


『(朝凪) ちょっと準備するから、一分だけ待ってて』

『(前原) 了解』


 エアコンの効いた部屋から追い出され、遠くから聞こえるセミの声や生温いそよ風を頬に感じること、少し。このままもし海に締め出されたら――そんな想像がふと頭をよぎった瞬間、スマホがブルブルと震える。


『(朝凪) いいよ。インターホン鳴らして』

『(前原) うん』


 海の指示通りにボタンを鳴らすと、パタパタという足音が徐々に近づいてきて、ガチャリと鍵の開く音がしてほっとする。


 

「へへ、お帰り真樹っ」


「あ――」


 出迎えてくれた海の格好は先程と特に変わっていない。旅行の時にも来ていた薄青のワンピースに、母さんが使っているエプロン。


 しかし、俺に向けられたはにかんだ海の表情と、『お帰り』の言葉が、想像以上に俺の胸の内に染みわたって、なんだか暖かい気持ちになる。


「こら、帰ってきたら『ただいま』でしょ。はい、ちゃんと言う」


「うん……た、ただいま、海」


「うん。お帰り、真樹」


 へへ、と笑って、海は俺の手をぎゅっと握ってくる。


 所詮おままごとなはずなのだが、実際にやってみると、なんだか本当に同棲でもしている気分になってくる。


「……海、お願いがあるんだけど、いい?」


「いいよ。で、なに?」


「……ちょっとだけ、ぎゅってしてもいい?」


「もちろん。……ほら、おいで?」


「それじゃあ、遠慮なく」


 両手をいっぱいに広げて待ち受ける海に誘われるように、俺は海のことをしっかりと抱きしめた。


 ……これはただの予感だが、多分、大人になっても、こんな感じで海の尻に敷かれるのだろうなと、そんな気がしていた。

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