第211話 初めての予備校 1


 天海さんには珍しい不運もあり、8月以降の予定についてどうするかはまた後日相談するとして、俺たちは、すでに埋まってしまった目の前の予定をこなしていくことに。


 1学期の終業式の翌日、夏休み初日。朝早くから家に来ていた海と一緒に自宅を出た俺は、最寄り駅の改札前で天海さんと新田さんのことを待っていた。予備校の夏期講習に参加するためだ。


 時間は朝の9時から昼の3時までで、それが計7日間(土日休み)。そのため、夏休み序盤は勉強でほぼ埋まってしまうものの、今までの夏休みがずっと怠けがちだったので、いい機会かもしれない。


「……海、ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」


「また? 家出る前にちゃんとしてきたのに」


「そうなんだけど、なんか緊張しちゃって。俺、今まで塾とか予備校って行ったことないから」


「あ~、そっか。そうだよね。家のほうでゴタゴタしてたもんね。それでよく合格できたなって、逆にびっくりだけど。まあ、今回は学校と違って私が隣にいるから、その間に慣れておけば大丈夫だよ」


「うん、ありがとう。……でも、とりあえず今は席を外しますので」


「ん。ほら、我慢できなくなる前に早く行ってきな」


 握っていた手をいったん解いた俺は、そのまま駅構内の男子トイレへ。


 まだ朝も早い時間だが、通勤の人に交じって、私服姿の同年代や、中学生と思しき人たちもちらほらと混じっている。夏休み初日ということで、やはり皆張り切っているようだ。


 珍しく込み合っているのもあり、仕方なく順番待ちをしていると、後ろからポンと背中を叩かれた。


「――よっ、なんか見覚えある背中だなと思ったら、真樹じゃねえか。そういえば、お前らのほうは今日から夏期講習だったな」


「おはよう、望。ユニフォーム姿だけど、そっちは練習試合?」


「ああ。この夏は試合をみっちりやって経験積ますんだとよ。もちろん試合の後は普通に練習だし、合宿もやるらしいから、マジで野球漬けだ。……はあ、そっちは天海さんと予備校通いかあ……いいなあ……」


「そんな遠くの景色を見るほど羨ましいことでもないと思うけど……」


 とはいえ望だけが仲間外れがちな状況なのは気の毒なため、夏休み中、どこかのタイミングでまた五人で集まって遊べればと思う。日中がダメなら夕方以降に開かれるような祭りや花火大会もあるし、ただ俺の家に集まっていつものようにだらだらしてもいい。


 それに、天海さんと望の仲についても、フラれた当初はお互いに微妙な距離があったものの、ここ最近は友達として普通に話すようになりつつあるようだし、ここから仲が進展する可能性もゼロではない。


 余計なお節介までするつもりはないが、五人で遊ぶ機会をできるだけ増やす努力ぐらいはやってもいいはずだ。


「ということで、真樹。俺がいない間、天海さんに悪い虫がつかないよう、朝凪とか新田と連携してしっかり守ってくれよ。俺がいないと、男はお前一人だけなんだから」


「それはわかってるけど……でも、予備校でそんな人いるのかな? わざわざお金払って勉強しに来てるのにナンパなんて、そんなバカなこと――」


「いや、実際あるんだよ。難関大学とかを目指すようなクラスはさすがに別だろうけど、予備校ってマジで色んなヤツいるからな。他校のヤツならなおさらだし」


 そういうものだろうか。しかし、望がそこまで言うなら、高校受験時に実際にそういう現場を見た、というのもあるのかも。


「……ということは、海とか新田さんにも寄ってくる可能性も?」


「そりゃ当然だろ。友達だから贔屓目もあるけど、二人だってそれなりに目を引く容姿してんだから。特に朝凪は」


「う……」


 そう言われると、途端に不安になってくる。


 天海さんや新田さんはともかく、海にそういう輩が寄ってくるのは絶対に避けたい。声すら掛けられて欲しくない。


 海には、俺の彼女には指一本触れて欲しくない――ついつい、そんなふうに考えてしまう。


 おそらく俺がいなくても、あの三人ならそういった人間も上手くあしらってくれるのだろうが、もしもの時も考えて、望の忠告も頭の片隅に残しておいたほうがいいかもしれない。


「わかった。俺一人じゃちょっと難しそうだから、もし何かあったら四人で相談してみるよ」


「おう。それでももしウザいやつがいたら、すぐに俺にも連絡してくれ。キャプテン権限で野球部全員集めて挨拶しにいってやるから」


「それ『挨拶』と言う名の違う何かじゃないよね?」


 とはいえ、野球部内でも人望の厚い望がいれば心強いことには変わりないので、何かあればすぐに助けを求めようと思う。


 まあ、そんなことは滅多に起きないだろうが。


「んじゃ、俺はこの電車に乗らなきゃだから。真樹、勉強頑張れよ」


「望こそ、試合頑張って」


「ああ」


 用を済ませた後、先に行くという望と別れて、俺は元の待ち合わせ場所へ。


 視線の先にいるのは、海と天海さん、そして新田さんの三人。どうやら俺が用を足している間に、二人とも到着したようだ。


「あ、真樹君だ! おはよ~、真樹君。トイレのほうは大丈夫だった?」


「委員長、予備校ごときで緊張しすぎだよ。ガキの遠足じゃないんだからさ」


 二人の私服姿を見るのは久しぶりだったが、今日の目的は遊びではないので、身だしなみに気を使っているのはわかるが、どちらかというラフな服装だった。天海さんはシャツにジーンズと下はスニーカーで、新田さんはあまりボディラインが目立たないようなゆったりとした服装。


 ちなみに、俺はいつものTシャツにハーフパンツで、海はサマーニットに七分丈のジーンズ。参考書などを入れるためのバッグは、先月の旅行を期に新調したものをそのまま使っている。


「それじゃあ、皆も集まったことだし、そろそろ電車に乗ろうか。講義の時間にはまだ余裕はあるけど」


「あ、委員長ちょい待って。今、もう一人がコンビニに買い出し行ってるとこだから」


「え? もう一人?」


「そ。あ、大丈夫大丈夫。とりあえず一緒に行くってだけで、講義まで一緒するわけじゃないから。……私は正直反対だったんだけど」


 隣の海や天海さんも文句はないようなので、それなら俺も特に問題ないが、しかし、新田さんが唐突にこういうことをするのも何気に珍しい。


 いったいどんな人を連れてきたのか――そう思っていると、パタパタと足音を鳴らして、こちらに近付いてくる女の人が。


「ごめんね、皆。ちょっと昼ご飯買うの忘れちゃって。……あ、もしかしてアナタが噂の委員長君?」


「えっと、前原です。ところで、その、あなたはもしかして……」


 俺のことを『委員長』と呼ぶのと、なんとなく面影が新田さんに似ているので予想はつくが、一応訊いておく。


「あ、自己紹介まだだったね。ウチのバカ妹がいつもお世話になってます。新奈の姉の由奈です。よろしくね」


「妹のことバカとか言うなし。バカじゃないし」


「は? いや、だってバカなんだからしょうがないじゃん。成績よくないし、何度言っても下着姿でリビングをうろうろ……いたっ、ちょっと、姉に対していきなり何すんの」


「あのさ、一応だけど、男の子いるんだから。その口さっさと閉じれ」


「どの口? 成績が悪いこと? それとも上半身ブラでリビングを……もがっ」


「ぐ、具体的に言ってんじゃないっての!」


 下着姿云々は聞いてないことにするとして、あの新田さんがここまで慌てるのもなかなか珍しい。


 顔をほんのりと赤くして、姉をぺしぺしと叩く新田さんの姿は、新田姉妹以外の三人にとってはかなり新鮮にうつった。

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