第174話 二人きりで 1
雫さんとの微妙な別れで陸さんには申し訳ないことだが、そろそろ『しみず』へのチェックインの時間が迫っているので、俺たちも一旦ここを出発しなければならない。
「それじゃ、婆ちゃんまた明日な」
「ああ、行っておいで。陸、海ちゃんのこと、くれぐれもよろしく頼むよ。アンタももう大人なんだから」
「お婆ちゃん、今日はお昼ありがとうね。すっごくおいしかった」
「ああ。海ちゃんならいつでも歓迎だから、また好きな時においで。もちろん、そこの前原君と一緒に」
「……ありがとうございます」
1mソフトクリームのことがあったものの、『しみず』の料理がとても美味しくて、お寿司やオードブルはもちろん、その後、みぞれさんが用意してくれた食後のスイカまで、海と一緒にしっかりといただいてしまった。
明日の法事は朝凪家の親戚が集まるので俺はお邪魔できないが、明後日、ここを出る時には改めて寄らせてもらってお礼をしようと思う。
家に残る空さんにも挨拶をして、俺含めた残りの三人は、改めて『しみず』へ。いったん来た道を引き返し、最初は通り過ぎた山道を登っていく。
源泉が近いのか、『しみず』に近づくにつれて、最初に感じた匂いが徐々に濃くなっていっているような気がする。
「俺はあっちの駐車場に車を停めてくるから、お前らは先に降りてロビーで待っててくれ。言っとくが、俺が来るまであんまりちょろちょろほっつき歩くんじゃないぞ」
「わかってるよ、子供じゃあるまいし」
「お前なんかまだまだ子供だよ。……それじゃ、真樹、よろしく頼む」
「はい」
旅館の入口で降ろしてもらってから、俺と海は先に旅館の中へ。
車の窓から外観を見た時は古さを感じさせた建物だったが、室内は改装されたのか、玄関前だったり、ロビー全体を照らす照明など、それなりに新しさを感じさせる。自動ドアを開けると、温泉の匂いに交じって、加工したての木材から漂うような香りが出迎えてくれた。
「! いらっしゃい、待ってたよ」
そして、カウンター付近にいた雫さんが、俺たちのことを見つけて駆け寄ってくる。
「お二人さん、こんにちは。さっき見た時も思ってたけど、本当に仲がいいんだね。恋人繋ぎもしっかりしちゃって、アツアツでうらやましいね~」
「へへ、そうですか? それほどでもないですよ~。えいっ」
海はそう言いつつ、俺の腕に抱き着いてきてさらに密着してくる。完全に惚気だが、陸さんの幼馴染といっても、雫さんとはほぼ初対面なので、そんな人に恋人との仲を見せつけるとは、海としてはちょっと珍しい行動だ。
俺に甘えてくる海の相手をしつつ、ちらりと雫さんの顔を伺うと、ニコニコ顔の雫さんの口元が、ほんの一瞬だけ引きつったような気が。
……海、また何か考えているな。
「いやいや若いねお二人さん……それはともかく、もう部屋の準備は終わってるから、りっくんが来たら案内してあげる。ウチの旅館では数少ない大事な大事なお客さまだからね。……いらっしゃいませ、朝凪様」
そういって、佇まいを直した雫さんがゆっくりと頭を下げた。今の雫さんは仲居さん用と思われる和服に着替えており、つい先程食事を一緒した時の明るい雰囲気とは打って変わって落ち着きがある。
日中は配達の仕事、旅館に戻ればこうして俺たちのようなお客さんの接客と、とても大変そうだ。
そうしてしばらく三人で雑談をしていると、遅れて陸さんもやってくる。
「よう。ちゃんと言いつけは守っているようだな……って……」
「! ……いらっしゃいませ、朝凪様。本日は当館にお越しくださいまして誠にありがとうございます……なんて、へへ、びっくりした?」
「や、やっぱり雫か……一瞬誰かと思った」
「そりゃ、私だって大人なんですから。これぐらいは当然よ、当然。で、どう? 私の仲居姿は?」
「……まあ、普通じゃないか」
「……相変わらずやんね、りっくんは」
恥ずかしそうに雫さんから目を逸らす陸さんと、そんな陸さんを見て呆れながらも優しく微笑む雫さん。
それぞれ大人になり、久しぶりの再会というのもあって、先程と同様、まだどこかよそよそしい感じがするが、やはり二人とも満更ではなさそうだ。
特に、陸さんのほうが。
「ねえ、真樹。あの二人ってさ、普通にいい感じだよね」
「だね」
二人は幼馴染ではあるけれど、それだけであんなむずがゆい空気になるだろうか。
雫さんがフリーなのかどうかはわからないが、傍から見ていると、『実は私たち付き合ってます』と言われても特に驚きはしない。
落ち着いた雰囲気で、しかし相手のことはしっかりと思いやっている大人のカップルという感じ。
特に、雫さんのほうが。
「さて、本当はお母さん……じゃなかった、ウチの女将にも成長したりっくんに会わせたいところだけど、今ちょっと忙しいから、それはまた夕食の時にでも。そういえば、夕食の時間はどのくらいにする? 都合に合わせるよ?」
「結構遅い時間だったからな……夜8時ぐらいなら大丈夫だと思うが、お前らは?」
「私はいつでもいいよ」
「俺もです」
「わかった。雫、それでお願いできるか?」
「かしこまりました~。んじゃ、お父さんにそう伝えておくね」
その他、チェックインの手続きもしっかりと済ませたところで、俺たちは今日と明日、宿泊する予定の部屋へ。
雫さんの案内で部屋の襖を開け、広々とした畳の部屋へ。本来は四人部屋らしいが、お客さんが少ない時期+普段からお世話になっている朝凪家ということで、ご厚意で三人部屋の料金で使わせてもらうことになったそうだ。
「真樹、ほら見て。外の景色、すごく綺麗だよ」
「おお……これは……」
海に手招きされるまま窓から外を眺めると、そこには豊かな自然が広がっていた。
目の前には、小さな滝からの水が白い糸のように下へと流れ落ち、少し身を乗り出して横を見れば、先程俺たちがいた場所の全体が確認できる。窓から入り込んでくる風も、涼しくて気持ちがいい。
おそらく『しみず』でもいい部屋なのではないかと推測される。一応、俺も自分の分の宿泊費は空さんに渡したが、それだけでは足りないような気が……まあ、そこは深く考えるのはよそう。
「ふふ、それでは時間までごゆっくり。私はフロントのほうで仕事してるから、もし何かあったら、そこの電話で呼んでくれれば対応しますから」
食事の時間や大浴場の利用時間などの説明を一通り終え、雫さんが部屋を後にして、ようやく俺たちは一段落ついた。
現在の時刻はおよそ16時を過ぎたところ。夕食の予定時間まではまだ時間があるので、このまままったり過ごしてもいいが、それでは少しもったいないような気もして。
「あのさ、海」
「ん? どしたの? もしかして、デートのお誘い?」
「まあ……うん。ちょっとこの辺、ぶらっと歩いてみないか? 一応、散歩コースもあるみたいだし」
目の前の小さなテーブルに茶菓子と一緒に置かれてあった簡単な地図に、この辺で湧き出している源泉までのルートを示したものがある。
ゆっくり歩けば1時間ほどで行って帰ってこれるので、その後、大浴場で汗を流す時間も問題ないし、腹ごなしにも最適だ。
「……俺はちょっと昼寝してるから、お前ら二人で行って来いよ。そっちのほうが俺もウザくなくていい」
「とかなんとか言っちゃって、雫さんを部屋に連れ込んだりすんじゃないの? ダメだよアニキ、雫さん仕事中なのにそんなことしちゃ~」
「するかあっ! ほら、一応フロントには連絡しとくから、さっさとどこにでも行っちまえ。真樹、そこの阿呆妹に首輪とリードつけるの忘れんじゃないぞ」
「はは……とにかく、気を付けて行ってきます。それじゃあ、行こうか、海」
「……うんっ」
しっかりと手を繋ぎ、いつも以上にお互いにべったりとくっついてから、俺たちは散歩デートへと繰り出す。
雫さんと陸さんのことは気になるけれど、本来の目的は海と二人きりで過ごすことだ。
またとない機会だし、しっかりと恋人との時間を満喫することにしよう。
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