第175話 二人きりで 2


 旅館の外に出た俺たちは、書かれている地図の通り、まずは建物の裏手側にある駐車場のほうへ。温泉の源泉までのルートは他にもあるようだが、きちんと道として整備されているのはここだけだそうなので、おススメとされているルートを通って、ひとまず目的の場所を目指すことに。


 駐車場にあったのが俺たちの乗ってきた車だけだったのでわかっていたことだが、周囲には人の気配はなく、ただ、どこからともなく鳥や虫たちの声が、滝の水音に交じって聞こえてくるばかり。


 静かで、二人でゆっくりと歩くには最適なシチュエーションだった。


「真樹、ちょっと待って。山道に入る前に虫よけスプレーかけてあげるから」


「あ、うん。ありがとう。この季節だし、蚊とかも多いよな。持ってくるのすっかり忘れてたよ」


「……アレはしっかり用意してるのにね?」


「……それは言わないで」


 コンビニで購入した箱は荷物のなかだが、以前学校の授業でもらったやつは一つだけ財布に入っている。もちろん、外で、とかそういうことじゃない。最初が外はなんというかハイレベルすぎる。


 とりあえず、肌の露出している部分に薬剤をふきかける。虫が多いのと、この季節でも山の中は夕方あたりから肌寒くなってくるので、上に一枚長袖のシャツを羽織っている。下は七分丈のパンツなので、かけるのは首筋と脚のほうだけだ。


「よし、終わり。真樹、私にもお願い」


「ん」


 交替して、今度は俺が海にスプレーしてあげることに。


 今日の海の服装は水玉模様のワンピースだ。かわいい。俺と同様、上のほうは一枚羽織っているが、下は丈が短めなので、海の白い肌に変な虫が寄り付かないよう、しっかりと。


「真樹、一応こっちもお願いしていい? 首の後ろのほう」


「ん、了解――」


 海が後ろを向いて髪をかき上げた瞬間、普段は髪で覆われている海の白いうなじが、いつも使っているシャンプーの香りとともにふわりと現れた。


 海も体育の時などはたまに髪を後ろでしばったりするので、うなじ自体は見慣れたものではあるけれど、最初から見えている状態と、隠れている状態から見えるのとは、同じそれでもまったく別物のような気がして。


 ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、ごくりと唾をのみ込んでしまった。


 ……よくないな、俺。こんなところで変な気分になってどうするつもりだ。


「……真樹、どうかした?」


「い、いやなんでも……じゃあ、かけるぞ」


「うん、よろしく」


 良からぬ考えを振り切って、彼女の首筋に軽くスプレーをする。


 平常心、あくまで平常心……。


 だが、そんな考えなど海には隠しとおせるはずもなく。


「はい、終わったぞ」


「ありがと……真樹のえっち」


「な、なぜいきなりそうなる」


「いやいや、視線と態度でバレバレだし。あ~あ、こんな人気のないところに連れ込まれて、私、いったいなにされちゃうんだろ~、こわいな~」


「とか言いつつ俺に密着してくるお前のほうがこわいんですが……」


「じゃあ、離れる?」


「……いや、別にこのままでいいんだけどさ」


「このまま、『で』?」


「いや、その……このまま、『が』いい」


「ふふ、素直でよろしい。じゃ、いこ?」


「……うん」


 一通りじゃれ合って満足した後、ようやく俺たちは山道をゆっくりと歩きだした。


 ところどころ急な坂道はあるけれど、きちんと人の手が入っていることもあって、特に歩きづらさなどは感じない。


 しっかりと海と指を絡ませ合って、周りの景色を眺めながら、二人きりでの散歩を楽しむ。


「野生動物注意……タヌキとかシカの絵が描いてあるけど、ここって、そういう動物たちも住んでるんだな」


「うん。私もお婆ちゃんの家に来るのって指で数えられるぐらいしかないけど、小さい時なんかはそこらへんの道をタヌキとか猪が歩いてたりしてたなあ。まあ、今はもうほとんど見なくなっちゃったらしいけど」


「そ、そっか。それならよかったけど」


 しかし、可能性がゼロではない以上、少しは気を付けておかなければならないかも。ちょっとだけ、スマホで対処法などを調べておくか。


 そこからさらに段差を登ると、源泉に近付いているのか、匂いが濃くなっているような気がする。案内板には『源泉まであと200m』とあるので、ちょうど半分ぐらいまで来た形だ。


 休憩用の椅子とテーブルも置かれていたので、コンビニで買い出ししておいたペットボトルのお茶をバッグから取り出して、少し休憩させてもらうことに。


「最初は余裕かなって思ってたけど、意外と体力つかうね。真樹は大丈夫?」


「なんとか。このぐらいだったら、いい運動になると思う」


 昔の俺だったらこの時点でへばっていたかもしれないが、毎日ちょっとずつでも運動するようになってから、徐々に体力がついてきた実感がある。


 まあ、それも海が毎日のように口を酸っぱくして言ってくれているおかげなのだが。今はゲームで遊びながら体を鍛えるものもあるし、それなりに楽しくやれていると思う。


「真樹、最近なんか体締まってきた感じあるもんね……ねえ、ちょっとお腹触ってもいい?」


「ん、どうぞ」


「むむ……むう、やっぱりちょっと腹筋が割れつつあるような……私なんか、割と頑張ってるのに前よりお腹がぷよぷよになってきてるし」


「そうかな? 見た目的には同じに見えるけど……」


「そんなことないよ。ほれ、ちょっと触ってみ?」


 海が無防備にもお腹を差し出してきたので、失礼しますと断ってから、服の上から海のお腹に触れてみる。


 ……確かにちょっとだけぷよぷよしているような気がしなくもないが、しかし、お腹が出ているわけでもないし、むしろ俺はこっちのほうがやわらか気持ち良くて……まあ、体型は女の子には特にデリケートなところなので、あまり余計なことは言わないほうがいいか。


「んっ……真樹、そこはちょっと……」


「! あ、ああ、ごめん。つい」


 海の柔らかな感触に夢中になってお腹をさわさわとやっていると、どうやら脇腹あたりに手が行ってしまったらしく、海が一瞬体をぴくりと硬直させる。


 これはまずいと思い、すぐに海から手を放そうとしたものの。


「……あ、真樹、」


「? 海、どうかした」


「いや、別に、その……」


 俯き、顔をみるみるうちに赤くさせながら、海がぼそりと俺に呟いた。


「やめ、ちゃうの?」


「うぐ……」


 今日一で、心臓が跳ねた瞬間だった。

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