第126話 海と渚 2


「――は?」


 先程まで、すぐ後ろの天海さんが何を言っても聞こえないふりをしていた荒江さんだったが、それよりずっと離れているはずの海の声には即座に反応した。


 踵を返してこちらのほうに顔を向けた荒江さんの表情には、明らかに怒気が含まれているように思える。


「ちょ、海……ねえ荒江さん、今のは別に……」


「天海、邪魔だからちょっとそこどいて」


 やんわりと制止しようとする天海さんを振りほどいて、荒江さんが海のもとへと近づいてきた。


「海……!」


「夕、別に止めなくていいから」


 心配そうな顔を浮かべる天海さんを手で制して、海はまっすぐ荒江さんと対峙する。


 いつもより温度の低い、無表情な海の顔――おそらく相当怒っているのだろうが、あんな海を見るのは、彼女と交流を持つようになってからは初めてのことだ。


「ねえ、アンタさ、今なんか言った? ちょっと離れてたから聞き取りづらくて。……もう一回なんて言ったか教えてくれる?」


「…………」


 額が触れ合おうかという距離で荒江さんが問い詰めるものの、海は冷たい表情を浮かべたまま黙っている。というか、荒江さんの顔を見てすらおらず、適当にスマホをいじっていた。


「ねえ、なんとか答えたらどう? そんな澄ましてないでさ」


「…………」


「なに? 自分から吹っ掛けといてビビってんの?」


「…………」


 男の俺でも思わず後ずさってしまいそうな勢いですごんでくる荒江さんだったが、海のほうは眉一つ動かさない。


 まあ、この程度で動揺するほど、海はやわな度胸をしてないのだが。


「ねえ、真樹」


「海?」


「さっきから横でうるさいのがいるんだけど、この人、なんて言ってるかわかったりする?」


「……え?」


「――ああ、ごめん。真樹もわからないよね。きーきー喚いてるだけの岩山のおサルの大将の言葉なんて、私たち、勉強したことないしね」


「…………え~っと」


 瞬間、荒江さんのほうから、ギリッ、という歯ぎしりらしき音が聞こえてくる。嫌な予感しかしないので、視線はずっと海の綺麗な顔に固定されているが、きっと鬼のような顔をしているはずだ。


「へえ、澄ました顔して言うじゃん。アンタ、11組の朝凪海でしょ? 私らの間でもたまに話題になってたよ。……天海のせいで1番になり損ねた2番目の女ってさ」


「そう? で、その2番目にすらなれなかった『その他大勢』さんがこの私に何か用? 頭が高いんだけど」


「は? 岩山のおサルとかなんとか言っといて、ちゃんと聞こえてんじゃん。なにコイツウザ」


「アンタのレベルまで降りてきてやっただけよ。っていうか、いい加減顔近づけてくるのやめてくれない? アンタの息、クサすぎて鼻がもげそうなんだけど。内臓腐ってんじゃない? こんなところで遊んでないで病院行ってくれば?」


「っ……!!」


 ……率直な感想。


 二人、滅茶苦茶怖い。


 当然、このままヒートアップしすぎるとマズいので止めに入るわけだが、間に入った瞬間塵になって消えたりしないだろうか。


「天海さん、新田さん」


「「……うん」」


 それぞれと目配せして頷きあった後、意を決して俺たち三人で、近づきすぎた二人の距離を離すべく間に割って入った。


 俺はもちろん海、そして天海さんと新田さんは荒江さんのほうをそれぞれ担当する。


「海、ちょっとストップ。落ち着いて」


「真樹……でも、」


「ほら、俺の手握って。あっちのことは気にしないで、ほら、深呼吸」


「……うん」


 プリクラ機の近くで騒ぐのも迷惑なので、何もないところまでゆっくりと海の手を取って連れていく。


「……ねえ、真樹」


「うん?」


「ぎゅってして」


「うん」


 海を抱き寄せて、そのままの状態で少し深呼吸させる。怒ったり落ち込んだり、何か嫌なことがあって感情が乱れたりした時は、俺も海も、こうしてお互いの匂いを吸い込んで気持ちを落ち着けるようにしている。


 さすがに人の目があるので、家で二人きりの時のようなことにはならないが、応急処置としては十分すぎるほどだ。


 すー、すー、と俺の胸に顔を埋めた海から、ゆっくりとした呼吸が伝わってくる。


「……ありがとう、真樹、もういいよ」


「そう? ならよかった」


「……ごめん。ちょっとだけ、らしくないことしちゃった」


「だな。俺も驚いたけど、でも、海の気持ちもわかるよ。……むかつくよな、大事な人をあんなふうに言われたら」


「……うん」


 他の人がどう思っているかは知らないが、海にとって天海さんはかげがえのない親友であり、そして、また一方ではライバルでもある人だ。お互いがお互いのことを尊敬して、信頼し合っている。


 そんな人が、理由もわからず陰口を叩かれたり、また、今回のように面と向かって馬鹿にされたりすれば、誰だって怒るだろう。俺だって、海が代わりに怒ってくれたおかげで冷静でいられているだけで、それがなければどうなっていたかわからない。


 だが、さすがに先ほどの荒江さんに対する煽りは良くない。


 俺は100%海の味方だが、良くないことには良くないときちんと言っておかねば。


 怒るにしても、冷静さを失ってはダメだ。


「海、さっきのは俺から見てもちょっと言い過ぎだったから、一緒に荒江さんに謝ろう」


「うん。あと、夕と新奈にもね」


「そうだな。じゃあ、戻ろうか」


「……ん」


 こくりと頷いた海の手を再びとって、俺たちは二人揃って、天海さんたちが待つ休憩所付近へ。


 あちらのほうは天海さんと新田さんのほか、一緒に来ていた荒江さんの友達も加わっていた。離れたところで店員さんが様子を見ているようで、さすがに荒江さんも説得には応じてくれたようだ。


 天海さんと新田さんにもう大丈夫であることを伝えてから、俺は荒江さんの前へ。


 ち、と軽く舌打ちはされてしまったが、特に何も言ってこないので、とりあえず彼女も落ち着いたと言う判断でいいだろう。


「荒江さん、さっきのこと、本当にすいませんでした」


「……私、別にアンタに謝られる筋合いないと思うんだけど」


「荒江さんにとってはそうかもしれないけど、でも、こうなる前に最初に俺が止めるべきだったから」


 海の様子がおかしい時点で速やかに止めていればよかったのだが、そういう経験が乏しいのと、咄嗟の判断ができなかったこともあって、こんなことになってしまった。


「……荒江さん、さっきはその……夕のこと色々言われて、私、ついカッとなって……本当にごめんなさい」


「で、男に慰められてすいません反省しますって? は、ダサいのはどっちだよ」


「! 荒江っち、アンタまた……」


「いいの、新奈」


 頭を下げた海に向かって荒江さんが心無い言葉を浴びせるが、それを咎めようとした新田さんを 止めたのは海自身だった。


「私なんて、実際、真樹……彼氏がいてくれなきゃこんな人間だから。そう言う意味では、一人でなんとか落ち着いた荒江さんのほうが、よっぽど大人かも。私なんて、まだまだ子供だから」


「……ちっ」


 すっかり落ち着きを取り戻した海を見て気を削がれたのか、荒江さんは、それきり俺たちのほうから目を逸らした。


 俺たちの言葉が届いたかどうかはわからないが、とりあえず、今回の落とし所としては、こんなところだろう。


「あ~……もう、うっざ。せっかくの休日だってのに最悪な気分……私、もう帰るわ。ほら、皆も行こ。そんなのの近くにいたら、全員まとめてしけた面になっちゃう」


 そうして荒江さんはゆっくりとベンチから立ち上がり、友達を引き連れて今度こそ立ち去っていく。


 こういうことがあると心配なのは休み明けだが、少なくとも最悪の事態だけは回避できただろう。


 荒江さんがどんな人かはっきりとわからない以上、変に刺激したままわだかまりを持ち越すのは、やはり良くないと思うから。


 興味を失ったように離れていく集団の背中を見て、ほっと胸を撫でおろす俺だったが、その時、金色の髪をなびかせて、天海さんが一歩前へ踏み出した。


「! そうだ。ねえ、荒江さんっ」


「……なに? まだなんか用?」


「また、学校でね」


「…………ちっ」


 いつもと変わらない別れの挨拶をした天海さんに対して、荒江さんは舌打ちだけして、ゲーセンのフロアから足早に姿を消した。


 ようやくそこで、弛緩した空気が四人の間に流れる。


「俺たちも、今日はもう帰ろっか」


「真樹……うん、そうだね」


「だね。委員長のせいでもうクタクタだよ」


「私も真樹君に賛成かな、さすがに」


 電車の中で一緒にならないよう、休憩スペースで少し休んでから、俺たちも退散することに。


 今回はひとまず収めることが出来たけれど、クラスマッチもこれからだし、荒江さんとのことは、まだもう少しだけ頭を悩ませることになりそうだ。

 

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