はじまりのはじまり

橘 賢 Ken Tachibana

第1話

 昔からボクは極端きょくたんなあがり症だった。忘れもしない市民ホールでの出来事できごと。ボクの叔父おじは地元の大学で音楽を教えていた。小学校でボクの担任だった宮本敏子みやもととしこ先生は叔父の教え子だった。そんなこともあって、市が主催する音楽祭に小学校を代表してボクが出演することになった。当然とうぜんのことながら、大勢おおぜいの人達の前で歌うのは初めて。しかも会場はリニュアルされたばかりの市民ホール。考えてもみてほしい。ボクが住んでいたところは、浦戸湾うらどわんに面したのどかな地区で、自然豊かで住人が少ないところだった。ボクは市内の繁華街はんかがいを歩いただけでも気疲きづかれしてしまう。人と接するのが苦手にがてだったボクにとって、まさに理想郷りそうきょうのような場所だった。それが市民ホールのステージに上がるというのだから、あがらない訳がない。

 気がついたら本番直前ほんばんちょくぜん。ボクはステージのそでにいた。宮本先生にうながされてステージの中央に進む。市民ホールは満席まんせきでただならぬ雰囲気が漂っている。ざわめく音がウォーン、ウォーンと、うねりのように四方八方しほうはっぽうから押し寄せてくる。このような状況の中で意外にも冷静さを保っている自分と、周囲に圧倒あっとうされて緊張きんちょうしっぱなしの自分、どちらが本当だろうと考えていたら、拍手で目が覚めた。

 ボクは一礼いちれいえたところだった。宮本先生のピアノ演奏が始まっている。イントロの後、宮本先生の合図を確認して歌い始めた。余裕よゆうだった。

 「夕やけ、小やけの・・・」

 ボクはなにを勘違かんちがいしたのだろう。こともあろうにワンオクターブ高いキーで歌い始めたのだからたまらない。すぐに声が裏返うらがえり歌えなくなってしまった。ホールの中はシーンと静まり返り、失態しったい静寂せいじゃくが包み込む。静けさがプレッシャーとなり、バクバクと心臓の音が高くなる。緊張のために体が思うように動かない。その時だ、遠くの方から宮本先生の声が聞こえてきた。

 「ケンちゃん、大きく息を吸って!」

 宮本先生の声に合わせて深呼吸しんこきゅう。すると少し楽になった。宮本先生がピアノの鍵盤けんばん力一杯ちからいっぱいたたく。<歌い出しのキーはこの音よ、わかっているわね!>という先生の気持ちが伝わってくる。宮本先生の懸命けんめいな努力によって、なんとか歌い終えたらしい。

 「終わり良ければすべて良し、大成功よ!」

 喜んだ母がハンバーグステーキをご馳走ちそうしてくれたそうだが、全く覚えていない。


 悲惨ひさんな失敗の数々、想い出すと泣きたくなる。なさけけない。ボクは気弱きよわで人前では息をひそめ、それなりに平穏へいおんな日々を過ごしていた。

 ところが高校2年の春、心理状態がいちじるしく不安定になった。大学受験を控えて精神的に追い込まれた訳ではない。こう不幸ふこうか、高校2年生になって一部クラス替えが行われた。そしてクラスに気になる女子生徒が現れた。大きな瞳と笑顔が愛くるしい女子生徒、健康的でさわやかな女子生徒、吉野桃子よしのももこにズバリ一目ひとめぼれ。

 「おっはよう!」

 朝一番、吉野桃子に声をかけられた次の瞬間、ボクの顔が真っ赤になり、全身の筋肉がフリーズ状態、身動みうごきが取れなくなる。

 「片思いの恋わずらい、れてしまったのがうんき、処方箋しょほうせんは見つからない。

 友人塩崎しおさき見解けんかいを述べる。中学からの友人でなんどもボクの修羅場しゅらばを見てきた岡田おかだも同じ意見だ。

 「このままだと行き着く先はストーカーか?ストーカーは犯罪だぞ。」

 ボクは、はるか遠くから吉野桃子の姿を眺め、彼女への想いをつのらせていた。それだけで幸せだと思いたかった。しかし、ボクにとって昼休みは針のむしろ。居心地いごごちが良くない。クラスの女子生徒達が岡田と塩崎を囲み、楽しそうに語り合っている様子が気になって仕方しかたがない。

 「桃ちゃん、桃ちゃん!」

 岡田が吉野桃子を呼ぶと、続いてどっと笑い声があがる。人気者の吉野桃子がきらきらと輝くような笑顔を振りまいている。彼女の周りでは笑い声がえない。

 岡田と塩崎がうらやましい。岡田はイケメンで、インターハイにも出場しているアスリート、しかも生徒会長だ。いつも女子生徒達にモテまくっている。一方、塩崎は高校に首席で入学した秀才だ。しかしガリ勉ではない。もともと頭の出来が違うのだろう。塩崎は博学はくがくで彼の話はとにかく面白おもしろい。 

 「わからないことがあったら塩崎に聞け!」

 担任の大杉おおすぎ先生も、かくのたまうほどだ。今も女子生徒達の質問に答えて塩崎が熱弁ねつべんをふるっている。ボクはゲームに夢中になっていることをよそおいながら聞き耳を立てている。ああ、こんな自分に腹が立つ。


 夏休み直前の土曜日、相談したいことがあると言われて岡田の家を訪ねた。家があきないをしているので勝手口かってぐちから入る。奥へ奥へと廊下が続く。外から見ただけではわからない豪邸ごうていだ。

 「この部屋は昔、暗室にしていたところだ。デジタルになったので、今はパソコンとプリンターがあれば写真が楽しめる。」

 岡田が説明していると、一眼レフカメラを持った塩崎が現れ、ボクにレンズを向けてバシャ、バシャとシャッターを切る。シャッターに同調したフラッシュがめまぐるしく光る。

 「フォトサークルを作ろうと思う。どうだ、いいアイディアだろう?」

 岡田も絶賛ぜっさんするこのプラン、さすが塩崎、シンプルで明快めいかいだ。秋には修学旅行が予定されている。旅行先は京都。古都の秋を楽しみながら、女子生徒達を写真におさめようと計画だ。岡田が話を続ける。

 「ケンは今もフイルムで写真を撮っているよね。あのカメラで参加してほしい。」

 あのカメラとはクラシックな二眼レフ。<写真の勉強がしたいのなら、中古だがいいカメラがある。名機めいきだぞ!》と言って、叔父がゆずってくれたローライフレックス。1960年代に製造されたフイルムカメラだ。叔父にフイルムの入れ方や撮り方を教えてもらってモノクロ写真を撮り始めた。露出計ろしゅつけいがついているので結構けっこううまく撮れる。ウィークポイントはフイルム。値段が高く、市内の大型カメラ店でしか購入できない。

 「桃ちゃんも被写体ひしゃたいになってくれるそうだ。」

 そう言われると断れない。塩崎の説によると、ポートレート写真(肖像しょうぞう写真)は撮る人と撮られる人(被写体となってくれる人)がいないと成立しない。お互いの共同作業によって作品が生み出される。岡田と塩崎はモデルという言葉を一切使わず、被写体となってくれる女子生徒を口説くどいて承諾しょうだくを得た。

被写体希望者は、吉野桃子をはじめ、昼休みに岡田と塩崎を囲み、おしゃべりをしているお馴染なじみのメンバー5名。

 夏休みの期間中、予行演習をかねて撮影会を実施した。撮影現場では岡田が被写体になってくれる女子生徒達に、ポーズや表情の作り方などについて丁寧ていねいにアドバイスした。教え方が良かったのだろう。女子生徒達はすぐに洗練せんれんされた美しい表情を見せてくれるようになった。

 岡田も塩崎もデジタル一眼レフ。バシャ、バシャ、バシャと小気味こきみよいシャッター音を響かせながら連写れんしゃする。ボクの二眼レフカメラはレンズシャッターなのでペシャという小さな音しかしない。被写体の女子生徒達にはシャッター音がほとんど聞こえないので、いつ撮ったのかわからない。だから<今撮りますよ。はい!>とシャッターを切るたびに話しかける。

 ボクは驚いた。カメラには不思議な力がある。カメラをかまえていると吉野桃子の前でも赤面せきめんしないことが判明はんめいした。カメラは鬼の金棒かなぼう、ボクにとってたよりになる相棒あいぼうだ。


 夏休み終了間際しゅうりょうまぎわ城山公園しろやまこうえんで撮影会を行った。ボクは木陰こかげのベンチに座り込んで、カメラにフイルムを入れているところだった。

 「ケン君のカメラ、ステキね。」

 吉野桃子の声がした。驚いた。

 「ふーん、そうやってフイルムを入れ替えるの?」

 吉野桃子が見ているので失敗は許されない。慎重しんちょうにカメラの裏蓋うらぶたを閉じて、レバーを巻き上げ作業終了。

 「1本のフイルムで何枚撮れるの?」

 「12枚」

 「たった12枚?貴重なフイルムを使わせてもうわけないけど、そのカメラで撮ってくれない?私ね、モノクロ写真に興味があるの。」

 なんと、吉野桃子からの撮影依頼さつえいいらい

 「はい、吉野さん、喜んで!」

 ボクは有頂天うちょうてんになって彼女を撮影した。

 フイルムの現像はいつも大型カメラ店に依頼していたが、現像の仕上しあがりまでに時間がかかる。そこで岡田が現像からスキャナーでの取り込み、プリントアウトまでやってくれることになった。ありがたい。

 数日後、岡田の家に被写体のメンバー5名も結集けっしゅうし、ボク達の作品を発表することになった。やっぱり写真には撮る人の個性こせいが出るようだ。岡田の作品は、背景はいけいの美しいボケを生かしたはなやかな作品となっている。塩崎の写真は、ワイドから望遠ぼうえんまでバラエティ豊かで楽しい作品が多い。ボクの写真はというとすべて岡田のおかげだが、プロ仕様の大型プリンターでA4サイズにプリントアウトしたモノクロ写真は驚くほど存在感そんざいかんがあった。吉野桃子も出来栄できばえをほめてくれた。ボクにとって大きな自信になった。


 夏が過ぎて秋になった。ボク達は修学旅行で京都にいた。自由行動第1日目、午前9時メンバー全員で八坂神社やさかじんじゃに行って参拝した。八坂神社からスタートして、岡田と塩崎と女子生徒4名は、知恩院ちおんいん高台寺こうだいじ周辺で撮影を行う予定だ。ボクは吉野桃子の専属カメラマンとして、裏千家今日庵うらせんけこんにちあんの周辺で撮影を行い、午後1時には建仁寺けんにんじ山門前にメンバー全員が集まる段取りとなっている。

 吉野桃子とボクはタクシーで堀川通ほりかわどおりを北にのぼり、寺之内通てらのうちどおりの交差点で下車。横断歩道を渡り、寺之内通を東に向かった歩いて行く。

 「ケン君、お茶のお道具屋さんがあるわ。路地を左に入ると小川通おがわどおりね。」

 お母さんが茶道さどうの先生なので、吉野桃子もお茶についてはちょっと詳しい。小川通はお母さんイチ押しの散策コース。吉野桃子が強く希望した撮影スポットだ。都会の喧騒けんそうを忘れさせてくれるほど静かでしっとりとしたたたずまい。吉野桃子も興奮気味こうふんぎみだ。

 「ここが表千家不審庵おもてせんけふしんあんよ。ケン君、撮って!撮って!」

 「吉野さん、いいですか?撮りますよ。はーい、撮りました!」

 ボクは自信をもってシャッターを切り、フイルムを巻き上げる。やっぱり京都は素晴らしい。カメラを右に向けても左に向けても絵になる。あっという間に12枚撮影してフイルム交換。

 「不審庵が建てられたのは1594年。千家せんけ三代目宗旦そうたん隠居いんきょして、不審庵の裏に今日庵を建てたのが1646年。17世紀からずっと変わらず表千家と裏千家が隣り合わせというのも、なんか不思議な感じね。」

 吉野桃子の説明を聞きながら、小川通を裏千家今日庵まで移動して、その間シャッターを切り続けた。気がついた時には、最後の1枚を残すのみとなっていた。

 「フイルムがなくなったの?でもいいわよ。今日庵の前で写真も撮れたし、大満足!さっきるときに見つけた和菓子屋さんの喫茶室でお抹茶をいただきましょう。


 フイルムがなくなった。カメラが使えない。金棒を失った鬼の心境だ。そのことを意識した途端とたん、体がこわばるのがわかった。ボクは緊張をひきずりながら吉野桃子の後から喫茶室に入った。いい香りがした。

 「お香がたかれているわ。」

 想像をはるかに超えた厳かな雰囲気に圧倒あっとうされた。お抹茶セットが出てきた。

 「最初にお菓子をいただいて、それからお茶をいただくの。」

 お抹茶をいただくのも初めての体験。色鮮やかな生菓子、そのうるわしい秋の色に幻惑げんわくされながら、お菓子をいただこうと思って手を伸ばした。ボクは思った。手づかみは良くない。とっさのことで手が行き場を失い、お抹茶が入ったお茶碗に手が触れた。そのままきでお茶碗を手に取り口に近づけた。お抹茶のいい香りがする。香ばしい!と思いながらお抹茶をいただいたら、いきなりむせてしまった。ウッ、ウッ、ウーッ、鼻の中に痛みが走る。お抹茶を鼻から吸い込んだようだ。ボクは鼻を押さえて悶絶状態もんぜつじょうたい。ああ、ずかしい。どうしよう。静かに沈黙ちんもくが訪れる。ボクは絶望感ぜつぼうかんおそわれていた。

「ケン君、ドジね!」

 静寂を破ってキャッキャと吉野桃子が笑い出した。

「ほんとに、ほんとにおかしい!」

 はた目も気にせず、吉野桃子は大声でじゃべりながら笑い転げる。

「大丈夫?ケン君!」

 鼻の中が痛くて声も出ない。大丈夫じゃないよと涙目で訴えた。

「バカね、ケンちゃん!泣いてるの?でもケンちゃんて最高よ!」

 絶対絶命ぜったいぜつめい窮地きゅうちなのに笑える出来事。ボクは彼女の笑い声に救われた。失敗を笑い飛ばしてくれた吉野桃子に感謝したい。彼女の言葉にも優しさを感じた。

「ケンちゃん!ケンちゃん!」

 吉野桃子の声に応えて、ボクは尊敬の気持ちも込めて「桃子さん」と呼んでいる。カメラがなくても赤面しなくなった。彼女の目を見て、平常心で話ができるようになった。これがはじまりのはじまり。

                              

                               おわり
















 











                          

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