第16話 浮くも沈むもあなた次第
校舎の壁に乱暴に背を打ち付ける。ひりひりと感じる痛みが少しだけ思考を現実に引き戻してくれた。ポケットから取り出した右手をしげしげと眺める。思いだした、握った手のひんやりとした感触がやけにリアルだった。
グーパーと何度か開いて閉じてを繰り返していると、たまらない気持ちになって天を仰ぐ。
ためこんで重くなった黒い雲が垂れ下がっている。それまで気に留めていなかった湿った匂いが鼻につく。今日は降るかもしれないな。
そのまま変化のないような雲にぼんやりと視線を投げていると仕舞ったスマホがブルブルと震える。もう、来ているのだろうか。あの角を曲がったらいるのだろうか。
会いたいような、逃げ出したくなるようなぐちゃぐちゃな感情を秤に乗せ、引きずるようにして足を動かす。
ジャリ、と音を立てて視界が開ける。その後ろ姿を見ただけでそれまで冷え切っていた心が温かくなり、理屈じゃないのだなと心の底から理解した。だって近くにいるというだけで、こんなにもうれしいのだから。
こちらの足音に気が付いたのか、彼女が振り向き、その表情が徐々にほころんでいく。
ドキリと跳ねた心臓を抑え、その唇が俺の名前を紡いでいく様子を歓喜と共に見守る。
世界で彼女だけしか使わない特別な呼び名。
「よーちゃん。突然呼び出すなんてどうしたの?なにかあった?」
一歩ずつ踏みしめるように美千歌に近づき、心配そうになってこちらを上目遣いで見上げる頭を抱き寄せその肩に顔をうずめる。ちょっと契約違反かもしれないけど少しだけ許してほしい。こうならないように努力するから。今だけ。
「ん~、あったんだけどチカの顔見たらどうでもよくなっちゃった。でもちょっとだけ肩貸してくれると助かる。」
耳元でささやくとくすぐったそうに身をよじる。逃がすまいと抱き寄せる力を強めるとしばらくしてそっと抱き返してくれた。背中に回された小さな手が温かい。
感じるぬくもりと美千歌の匂いに心がほぐされていく。やっぱりあの時の選択は間違ってはいなかった。過去に縋っているだけではない。今はまだこうしてこの腕の中にいてくれているのだから。
最後にポンポンと背中を叩いて開放する。ほんのりと頬を桜色に染めた美千歌がぽーっとしているのを見て頬が緩む。
ゆっくりとその柔らかい頭を撫でると気がついた彼女がフルフルと体を震わせる。
子猫みたいなその仕草にクスっと笑いが漏れた。
「ありがと、ちか。なんかいろいろ限界だったから助かった。このお返しはいずれ必ず。」
困惑していた美千歌が俺の言葉を聞いて猫のようにニヤーっとする。
やばい、油断してた。無駄な言質をとらせたかも。嫌な予感に緩んでいた頬がひきつる。
「へー、ほー、ふ~ん。突然呼び出してわけわからないまま抱き着いてきたお返しかぁ。いったいなにをしてくれるのかな~。楽しみだな~。」
ニヤニヤしている美千歌に先ほどまでとは違う意味で心拍数が上がる。たらり、と垂れる冷や汗の感触に焦りはつのるものの、対応策はさっぱり浮かばない。ダレカタスケテー。
「ちょ、ちょっと待て。こちらにもお財布の事情というものがな?そ、それにお返しはいつか必ず精神的に、という素晴らしい指標が。」
「あたしそんなの知らないもん♪いやー実は今資料で欲しい本があるんだよね~。けっこう高かったから買うの躊躇ってたけどようちゃんが誠意を見せてくれるって言うならしょうがないな~。うん、別に頼もうなんて思ってなかったけど本人がくれるって言うなら遠慮する必要ないよね~。」
うきうきと足音軽く立ち去る美千歌の後ろ姿に手を、伸ばしてさめざめと泣き崩れる。
財布の中身を思い出して絶望に身を浸す。コレガ、ゼツボウ。
悪魔や。あの子はかわいい顔した悪魔、いや小悪魔だな。
脳内でふざけているうちに気がついたら美千歌が完全にいなくなっていた。
最後の抵抗とばかりに心の叫びがその場に木霊した。
「いやちょっと待ってー。勘弁して。ちかさ~ん。」
昇降口まで戻ってきたけど結局よーちゃんは追ってこないらしい。
本人が嫌がるものを要求する気はもちろんないけど、よーちゃんにはいつもイタズラされてばかりなのだ。たまにはやり返してもいいよね。
ちいさく舌を出して、一人で笑う。まったく、よーちゃんもたまには反省するといいよ。
下駄箱に背中を預けてさっきまでよーちゃんの頭が乗っていた左肩をそっと撫でる。
まだ感触の残っている彼の頭に対してひとりごちる。
「友達だって約束したもんね。よーちゃんが困ってるときは助けるに決まってるじゃん。…でもあたしに抱き着いて助かったってどういうことなんだろ。変なの。」
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