光差して、影重なる

なずな

第1話

 透明人間。 


 わたしを一言で表すならば、それに尽きる。

 誰より優れていることもなく、唯一褒められることといえば「真面目だよね」ただそれだけ。


 きっと、クラスメイトの半分はわたしの名前を呼べやしないだろう。


 今日も、誰の目にも付かない一日が始まる――。


 *


 少し冷たい秋風に吹かれながら歩く通学路。

 横目に広がるグラウンドに響く野球部の声と、校舎から漏れ聞こえる各クラスの合唱。


 十月、わたしの通う中学校では毎年合唱コンクールが行われる。

 三学年の八クラス。計二十四クラスの中から最優秀を決める行事。


 わたしは、昇降口で靴を履き替えながら溜息を吐いた。


 行事期間は、憂鬱だ。


 いつもよりもどこか浮き足立った学校の中で、一人であることを強調されるような気がして。


 わたしは、二度目の溜息を吐いて、自分のクラス――三年A組の扉を開けた。


 グループに分かれて話していたクラスメイトの声が一瞬途切れて、わたしに視線が集まる。そして、来たのがわたしだと分かると――何事もなかったかのようにまた、話を再開する。


 登校しても挨拶を交わす相手なんていない。これが、いつもの朝。


「……げ……まさん! 影山さん!」

「は、はいっ」


 突然呼ばれた名前。わたしが慌てて顔をあげると目の前にはクラスメイトの秋光 飛影あきみつ ひかげくんがいて、わたしの目の前で手をひらひらとさせていた。


「おーやっと気付いた」

「す、すみません。わたしのことなんて呼ぶ人いないので……」

「え、なんで? そんなことないと思うけど」


 秋光くんはさも当然かのようにさらりとそう言うと、ファイルをわたしへと手渡した。

 中に挟まれた紙は、コピー用紙に印刷された原稿用紙だった。


「これは?」

「今度の合唱コンクールのクラス紹介の原稿。影山さんに手伝ってほしくて」

「あぁ……」


 合唱コンクールのクラス紹介――それは、整列する間に読み上げられる、これまでの練習で苦労したことや曲を選んだ理由。

 うちのクラスは、秋光くんがそれを読み上げることになっていた。


「じゃあ、それ預かっても大丈夫ですか? 明日までに書いてきます」


 わたしの提案に秋光くんは驚いた顔をする。何か変なことを言っただろうかと首を傾げていると、彼は口を開いた。


「や、放課後一緒に考えてほしくて」

「え?」

「え、俺なんか変なこと言ってる?」

「ううん。ごめんなさい。今日の放課後?」

「で、大丈夫? 急にごめんね」

「大丈夫……です」

「じゃ、そういうことでよろしく!」


 秋光くんはクリアファイルを持って、元々いた輪に加わる。

 彼は、クラスの人気者で中心人物。

 そんな彼から、頼みごとをされるだなんて。

 いつもと違う一日の始まりに、胸が高鳴る。


 ドキドキと煩い鼓動は、始業時間まで収まることはなかった。


 *


「じゃ、行こっか」


 放課後。わたしは秋山くんに連れられて、学校近くの市営図書館へ足を運んでいた。

 本が並んでいるスペースとは別に、談話室もあるから、そこで原稿内容を考えるのだろう。


「んー、何書けばいいと思う?」

「え、えっと……まず、意気込みが必要で。それから……」


 わたしのアドバイスを元に原稿用紙にシャープペンシルを走らせていく秋光くん。想像していたよりも綺麗で丁寧な文字と、それを紡いでいく骨張った手に思わず見惚れる。しばらく観察していると、真正面に座る秋光くんが顔をあげた。


「……そんなに見られてると書き辛いんだけど」

「……っ、ご、ごめんなさい」

「待ってね、急いで書くから」


 わたし達以外誰もいない談話室に、シャープペンシルの音だけが響く。

 この、静かで落ち着く時間がいつまでも続けばいい――文字で埋まっていく原稿用紙を見つめながら、そう思った。


 *


「……うん、いいと思う。でも、最後の文章だけちょっと直した方がいいかも」

「わかった」

「……ところでさ」

「ん?」

「なんで、わたしなの?」


 ――それは、今日ずっと思っていたこと。どうして彼は、わたしなんかに声を掛けたのだろう。

 彼ならば、わたしなんかじゃなくて他にも頼める人がいるはずなのに。


「……去年さ。影山さん、クラス紹介のやってたじゃん。いい文章だなって思って、それで覚えてたの」

「あ……そうなんだ」


 わたしの言葉なんか、誰も聞いてないと思っていたのに。

 相槌を打ったわたしに秋光くんは更に続ける。


「それにさ、影山さん優しいし」

「……え?」

「俺、知ってるよ。困ってる人を助けられる人だって」

「そ、そうかな……」


 照れ隠しに指で自分の前髪に触れる。透明人間のわたしを、見てくれている人がいたなんて。


「……っと。遅くなっちゃうし、そろそろ帰ろっか? 家どの辺?」

「あ、近いから大丈夫……」


 荷物を纏めて、外に出る。傾いた太陽がわたし達を照らして黒い影が長く伸びる。


「じゃあ、今日はありがと!」

「うん」


 秋光くんとは、反対方向らしい。お別れに、少しの寂しさを覚えながら目の前に伸びる自分の影を追いかけるようにして歩く。


 ……これは、今日だけ、今だけ。明日からはまたいつもの透明人間になるの。


 だから、この、やけに煩い心臓も早く抑えなくてはいけない。


 そう言い聞かせながらわたしは、家に続く道を歩いた。


 *


 わたしは、目立たないように息を潜めて生きてきた。

 それはきっと、小学生の頃にいじめられていたことがトラウマになっているから。


 嫌われたくない、ただそれだけの気持ちがわたしを動かす。

 幸い、中学に上がってからはいじめもなくなったけれど、わたしの傷ついた心は癒されることはなかった。


 いじめの原因、それは――


「ただいま」


 一目で見渡せるアパートの一室には誰もいない。

 真っ暗な家の中は、外よりも随分と冷え込んでいるような気がした。


 ぱちん、と電気を付けてテーブルの上を確認する。そこには、もやしとたまごを炒めただけの一皿がラップを掛けられて置かれていた。


 そう、わたしは、わたしの家は――とても、貧乏だった。


 幼い頃は理解出来なかったけれど、次第に理解したその状況。


 だから、わたしは持っていなかった。みんなが持っている可愛い文房具も、学校推奨品のお揃いの書道用具や裁縫道具も。果てはリコーダーやピアニカに至るまで、何も、持っていなかった。

 近所の量販店に並べられた質素で格安のそれらが、わたしの持ち物だった。


 ――初めから、無かったのだ。


 わたしが、光を浴びる資格など。


 *


「ねえ」


 秋光くんと原稿を書いてから一週間ほど経っただろうか。

 あれから、わたしの日常は、少し――いや、だいぶ変わっていた。


「なに?」

「秋光くん、昼休みはみんなとサッカーするんじゃないの」

「今日は疲れてるからパス」


 ……そんなことを言いながら、図書室の椅子に座り、本も持たずにわたしの隣で突っ伏したままの秋光くん。


 あの日からわたしの隣に秋光くんがいることが増えていた。


「だからって本も読まないのに図書室に来なくても」

「いいじゃん、ここ、日向ぼっこできてあったかいし」

「もう……」

「それに、お前の隣、落ち着く」

「え……」


 その言葉に驚いて彼の方を見ると、体勢を変えて寝る準備をしていた。

 ちらり、とこちらを見上げて悪戯っぽく笑った秋光くんは、少しだけ意地悪な声色で言う。


「照れてる?」

「……っ、照れて、ない」

「そお? じゃ、昼休み終わったら起こして」

「うん……」


 しばらくすると、静かに寝息を立て始める秋光くん。少し癖っ毛の髪が開けられた窓から入る風に吹かれる。


「んん……」


 ころん、と机の上で寝返りを打った彼の首筋が晒される。少し焼けた綺麗な肌には、紫色の痣が刻まれていた。


 ――きっと、お友達と遊んでいた時に怪我をしてしまったのね。


 わたしは、その様子を想像してひとり微笑んだ。


 *


「影山さん、帰る?」

「あ、うん」


 秋光くんと下校を共にすることが増えてきて、その光景が日常に馴染んできた頃。

 学級委員長がわたし達を呼び止めた。


「あ! ねえ、二人とも。明日の合唱コンクールの後打ち上げやるんだけど来る?」

「あ……わたしなんかが行っていいのかな?」

「え? もちろんだよ」

「じゃあ……ちょっと、親に聞いてみてもいいかな?」

「うん。秋光くんは?」

「あー……俺もちょっと、明日でいい?」

「わかった、じゃあまた明日ね」

「じゃ、行こっか」

「あ、うん」


 いつもより少しぶっきらぼうな秋光くんの言葉。

 何かしてしまっただろうか――わたしは、心臓に絡み付くような不安に襲われる。


「あ、秋光くん、秋光くん」

「なに?」

「……なんか、怒ってる?」


 そっと見上げた彼は、真っ直ぐにわたしの目を見て言った。


「影山が、自分のことを卑下するから」

「え?」

「気付いてないの? わたしなんか、って口癖になってるの」

「あ……そ、それは……」

「言わないでほしい、そんなこと」


 夕陽に照らされた彼の表情は逆光になっていて、うまく感情が読み取れない。

 何も言わないわたしに、彼は更に続けて言った。


「……自分で、自分の価値を下げちゃダメだよ」


 その言葉に、冷える感情。


 ――仕方ないじゃない。わたしはこれまで、虐げられて生きてきたんだから。


「……っ、わかんないよ! 幸せに暮らしてきた秋光くんには!」


 思わず突いて出た言葉にハッとして、我に帰った頃にはもう遅い。

 さっきまでは見えなかったのに、今はハッキリと見える彼の表情。


 わたしは、彼から逃げるようにして校門へと走って逃げる。


 秋光くんは、わたしのことを追いかけては来なかった。


 並んで歩くことが日課になっていた通学路。

 そこに延びる影はひとつ。


 *


 翌日。


 わたしは、学級委員長に打ち上げ不参加の報告をしに行った。


 結局、親には確認しなかった。どうせ、無駄だと知っていたし、秋光くんとも喧嘩してしまったし。


 会場にクラスごとに集まった時、秋光くんと目が合った。けれど、どちらからともなくその視線は逸らされる。


 ――別に、傷付くことなんて何もない。


 今まで通りの、日常に戻るだけだ。


 *


 ――開場から二時間ほどで回ってきた、クラスの出番。

 わたし達が壇上で整列している間に、秋光くんはマイクの前に立ち原稿を読みあげる。


 わたしと、彼とで作った文章を。


 最後まで読みあげたのにマイクの前から動き出さない秋光くん。


 どうしたのだろう――わたしは、気になって彼の方を見つめる。

 少し間が開いて、またマイクに声を吹き込む秋光くん。


「この原稿は、同じクラスの影山さんが考えてくれました。自分ひとりでは考えられなかったので、この場で感謝の気持ちを伝えます」


 そう締めくくって、お辞儀をする秋光くん。緊張のせいか、スポットライトのせいか――熱くなる顔を誤魔化す術なんて壇上に立っているわたしにある訳もなく。

 笑いかけてきた秋光くんに、曖昧に笑い返すことしかわたしには出来なかった。


 *


「じゃあ打ち上げ行く人は集まってー!」


 行事の終わり、盛り上がるクラスメイトの輪をそっと抜ける。

 このまま、帰るだけ。いつも通りに――


「影山!」

「え?」


 クラスメイトの姿が見えなくなるまで歩いてきたわたしの手を、誰かの手が掴む。


 それは、秋光くんだった。


「打ち上げ、行ったんじゃないの?」

「……ううん、行ってない。それより、影山と話したくて」


 そう言われて、会話も無く歩いていく秋光くんの後をついて歩く。

 握られたままの手。振り払ってしまいそうな気持ちを抑えて、わたしは考える。


 ――なんの、話なのだろう?


 *


 連れてこられたのは、大通りから外れた小さな公園。

 そこで、秋光くんは、何を思ったのか――ワイシャツのボタンを全て外して素肌を見せつけた。


「な、な、何してるの……!?」

「ちょっと、顔隠さないで……見てよ」


 そろそろ、と指の間から彼の身体を確認する。程よく付いた筋肉、健康的に焼けた肌――そこに刻まれた、無数の傷跡。わたしは驚いて声も出なかった。


「これ、全部俺の親父がやったんだよ」


 そう言った秋光くんの口調はいつもと変わらないものだった。

 わたしが何も言わないのを確認すると、彼は上から順番にワイシャツのボタンを閉じる。


「……ごめん、驚かせて」

「あ、いや……こちらこそ、ごめんなさい。知らなくて、わたし。だから昨日あんなこと……」

「知らなくて当然だよ。俺も、誰にも言ってないし」


 座ろっか、と手を引かれてベンチまで歩く。

 木製のベンチに二人並んで座っても、その手は握られたままだった。


「なんで、わたしに?」

「なんでだろ。影山になら、言ってもいいかなって思った」

「……」


 なにか言わなくちゃ、そう焦るわたしの気持ちを彼は汲んだのだろうか。

 ゆっくりと話し始めた彼の言葉にわたしは耳を傾ける。


「……俺さ、中学校出たら働くんだ。親父から逃げる為に、母さんと家を出る」

「そうなんだ……」

「まあ、力ならもう親父にも負けないと思うけどさ。やっぱ、離れるのが一番いいかなって……母さんと話し合って。俺の母さんさ、何にも悪くないのに、自分のことめっちゃ責めるんだよ。それに苛ついたりもしてたけど……」

「あ、だから、わたしにも……?」

「うん、ごめん。母さんと重ねて見てたかも。でも俺も何もわかってなかったから」


 ぎゅう、と強く握られたわたしの手。

 重くて暗くて、辛い話をしているはずなのに、彼の横顔は何故だか優しかった。


「やっぱ、影山の横は落ち着く……なあ、陽詩ひなた


 突然呼ばれた、下の名前。

 わたしは、彼の方に顔を向ける。


 そっと近付く彼の唇。

 目を閉じてそれを受け入れる。


 長くも短くも感じられる時間。脳内をはっきりとよぎる予感。


 わたしはきっと、この人と付き合うのだろう。


 透明人間だったわたしを見つけてくれた、眩い彼と。


 沈みゆく太陽に照らされた二人分の影。それは重なり、色濃く映し出されていた。

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