夏の恋の行方は

海月陽菜

前編

優雨ゆうくん……私と、別れてください」


 私はそれだけ言うと人ごみに飛び込んで、慣れない下駄で思いっきり走った。

 彼が止める声に振り返ることもなく——。




 さかのぼること約一時間。

 私、逢坂おうさか美雨みうは地元の花火大会に来ていた。

 私が住む日野森町はそこそこ田舎で、毎年八月中旬になるとうちの近くの神社で夏祭りが開催される。境内には町の人が開く出店が並び、神社の近くにある小学校のグラウンドでは花火が打ち上げられる。

 午後六時ごろ、私は神社の石段の下に立っていた。


(まだかな。そろそろかな)


 そわそわと髪をいじったり浴衣を整えたりしていると、左の方から背の高い男の子が歩いて来た。


「お待たせ」


 彼が私の待ち合わせの相手の、倉科優雨くん。私と同じ日野森高校の一年生で、同じクラス。

 そして、私の人生初の恋人。


「わあ、浴衣だ……」


 かっこよくてドキドキして、私はそれしか言えなかった。

 黒いシンプルな浴衣に、目を引くような紅い帯。すらっと背の高いところも男らしく骨ばった身体も、制服のときより強調されている気がして。


「ああ、お前が着てほしいって言うから」


「あ、そうだったよね……」


 優雨くんはもともと感情を表に出す方ではなく、誤解されることも時々ある。私も入学してしばらくは怖い人だと思っていたけど、話してみると実はとても優しい人だと分かった。

 そんな彼に、いつの間にか惹かれていた。

 一学期の終業式の日、教室に一人残っていた優雨くんに、勇気を出して告白した。臆病な私にここまでの行動力があるなんて、と自分でもびっくりしたくらいだ。

 正直出会ってからそんなに経っていなかったし、どんな反応をされるかすごく怖かった。でも私の『付き合ってください』に彼は『いいよ』と答えてくれた。

 しかし三週間くらい付き合ってきて分かったのは、優雨くんの態度が付き合う前と全く変わらなかったこと。他の女の子との接し方もほとんど変わらないんじゃないかと思う。


(優雨くんは、私のことどう思ってるのかな)


「——坂、おい、逢坂」


「ふぇ!? は、はい」


 呼ばれていることに気づいた私はびくっと肩を揺らしてしまった。


「ぼーっとしてると危ないぞ」


「ごめん……」


「じゃあ行くか」


「うん」


 優雨くんが私に背を向けて歩き始めたので、私は急いで後を追った。


(優雨くん、歩くの速い)


 小さな町の夏祭りだけど、地元の人がたくさん来るので神社もその周りも混んでいた。ちょっとでもよそ見をしたら見失ってしまいそうだった。

 本当は、手を繋ぎたい。

 はぐれたらいけないからという口実を使ってでも、彼と手を繋いでみたかった。

 だけどそれを伝えるタイミングは与えてもらえず。

 せっかく好きな人とお祭りに来ているというのに悲しくなりながら、ひたすら彼の背中を追って歩いた。

 出店が並ぶ道の途中で優雨くんは不意に足を止めた。やっと追いつくことができてほっとした。


「たこ焼き、食べる?」


「う、うん……食べ、る」


 ずっと早歩きをして息が上がっていたので、途切れ途切れの返事になってしまった。優雨くんは、


「おっけー」


 と言って列に並んだ。私は乱れた息を整えながら、石畳の道の端で優雨くんを待った。


「お待たせ」


 五分くらいで優雨くんは戻ってきて、六個入りのたこ焼きのパックを私に渡してくれた。


「ありがとう。食べていいの?」


「そのために買ったんだろ」


「そ、そうだね、ごめん」


 一緒に入っていた爪楊枝で一個食べてみた。できたてで結構熱かったので冷ましながら食べた。


「おいしい……優雨くんも、食べる?」


 そう言って二つ目に爪楊枝を刺したら、


「あー、俺はいいよ」


「えっ?」


「全部食べちゃって」


「……」


 私の食べかけが嫌? それとも、私の使った爪楊枝だから?

 確かに私たちはこれが初めてのデートで、キスどころか手も繋いだことがないけれど。


(でも、そこまで気にされると悲しいよ……)


 優雨くんに拒絶されたみたいでまた悲しくなってしまった。胸が塞がってしまってたこ焼きも喉を通りそうになかったけど、頑張って残りを食べた。

 優雨くんはまた歩き出した。今度は置いて行かれないよう、勇気を出して隣に並んだ。

 ちらりと横を見ると、いつもと変わらない無表情な彼がいた。


(優雨くん、何考えてるんだろ。楽しんでくれてるのかな……)


「次、どこ行く? 何食べたい?」


 考え事をしていたとき、不意に優雨くんが口を開いた。


「え? えっと……何でもいいよ」


 と私は答えていた。優雨くんはまだお祭りに来てから何も食べていないから、今度は優雨くんが好きなものを食べてほしいな、と考えて。

 しかし優雨くんはそこで立ち止まってしまった。


「優雨くん?」


「お前、自分の意見とかないの?」


「え……」


 いつもより心なしか低い声に二人の間の空気が凍った気がした。


「もしかして、俺といるの楽しくない?」


 無表情なのはさっきまでと変わらない。でも、いつもより冷ややかな顔。


「ち、ちが……」


 思わず半歩後ずさった私を、彼の氷のような切れ長の目が捕らえた。


「てか俺のこと怖い? さっきから謝ってばっかだし」


「そんなこと……」


 否定したいのにうまく声が出ない。


「もういいよ」


 優雨くんは私から目を逸らした。


「あ……」


 優雨くんを怒らせてしまった。

 私のどこが駄目だったんだろう。優雨くんは私といても楽しくなかったのかな。

 ……そっか、優雨くんは私のことなんか好きじゃなかったんだ。


「……ごめんね、迷惑だったよね」


「は……?」


 胸が締め付けられて声が震えて、目が潤んできたけれど懸命に堪えて。


「優雨くん……私と、別れてください」


 喉の奥から絞り出すように言って、私は走り出した。


「お、おい、待てよ——」


 喧噪の中、優雨くんの声が聞こえた気がしたけど振り返らなかった。




 鼻緒が指の間に擦れて痛い。それでも走り続けた。

 気がつくと私は小さな公園にいた。少し山を登ったところにあって、白っぽい無機質な街灯がぽつんと立っている。夜に来ると少し怖い。

 ここからさっきまでいた神社や花火が打ち上げられる小学校を見下ろすことができる。提灯の暖かな光が眼下に広がり、神社の鳥居は燃えるような、夕日のようなあかに染め上げられている。一年に一度しか見られない、とても幻想的な景色。

 私はやっと足を止めた。心臓のあたりが痛くて苦しい。その原因は、ずっと走っていたことだけではなくて。


(別れてって言っちゃった)


 目の前にあった木製のベンチに座った。下駄を脱いで、その上に足を乗せた。

 息を整えて落ち着いたと思ったら、堪えていたものが目から溢れ出した。


「うう……」


 そのときだった。


「どうしたの?」


 後ろから低く落ち着いた声が聞こえた。私ははっと振り返って……驚いた。


「えっ、優雨くん……?」


 月明かりに照らされたその人は、優雨くんにすごく似ていた。


「ん?」


「あ、いえ……」


 よく考えたら今日の優雨くんは浴衣を着ていた。でも目の前の男の子は、Tシャツの上にチェックの半袖シャツを羽織った普段着。それに、よく見ると細かいところは違う気がする。例えば、優雨くんより垂れぎみで優しそうな目とか。


「すみません、人違いでした」


「ごめんね、驚かせるつもりはなくて——って、君は……」


 彼は私の顔を見るなり何かを考えるような表情をした。


「……?」


「いや、何でもない。……ちょっとごめんね」


 彼はおもむろにスマホをジーンズのポケットから取り出して少し操作し、またポケットにしまった。


「で、何かあったの?」


「えっと……」


(さっき出会ったばかりでまだ何も知らない人にこんなこと……)


 すると彼はまるで私の思考を読み取ったかのように、


「あー、ごめん、急に聞かれてもって感じだよね。俺は晴希。隣の東高の一年」


 と言った。

 東川高校、通称東高は隣町にある。町が違うとはいえうちの高校とまあまあ近い。


「じゃあ、同い年なんだね。日野森高校一年、逢坂美雨です」


「美雨ちゃん、ね。俺でよかったら話聞くよ」


「でも……」


 晴希くんは私の隣にそっと座った。


「泣いてる女の子がいたら、放っておけないじゃん」


 優しい人だな、と思った。

 彼の柔らかな笑みからは嘘も偽りも感じられなくて、気づけば私は口を開いていた。


「ありがとう、えっとね……」

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