五冊目

 食事を終えると大事な話があるから残るようにと九尾苑さんに言われた。

 九尾苑さんは店の二階にある自室に、話に必要な道具を取りに行って十分近く戻らない。

 しまった場所を思い出すのに手こずってでもいるのだろうか。


 恐らく今からするのは食事前の話の続きだろう。

 椅子に座って待っていると九尾苑さんは何かを布に包み持ってきた。


「待たせたね」


 言うと九尾苑さんは椅子に座るや否や僕に奇妙な質問をする。


「急で悪いんだけどね、君って自分の名前言えるかい」


 自分の名前くらい言えて当然だろうに、言える、当然言える、言えなければおかしい、僕の名前は、僕の名前は—————僕の名前はなんだったか


「やっぱりか、忘れているんだね」


「自分の名前なんて忘れるわけがない、きっと今日一日大変だったから疲れて出てこないだけです」


 僕は全ての責任を疲れに擦りつける。

 しかし九尾苑さんは静かに首を横に振ると布に包まれた何かを僕の前に差し出す。


「君が名前を思い出せないのは疲れのせいじゃない、この中身が関係しているんだ

「この中身は昔、とある妖が持っていた鏡、鏡奪知縛きょうだつちばく と言う

「完全体ではなく割れた破片だけどね

「鏡奪知縛はその鏡に写した物の記憶を奪う、記憶がなくなった体には代わりの記憶が作られるから日常で多少のズレはあっても大して困る事はない

「過去には心に深い傷を負った者に医者が使用していた例もあるらしい

「君はこの鏡に昔、写ったのだろう

「この鏡が未だ割れていない、完全体の頃にね

「昔は記憶を取り戻すのは大して難しくなかった、もう一度鏡に写ればいいんだ

「だが今は違う、何者かの手によって鏡は割られた

「鏡が割られた今、記憶を全て取り戻すにはこの世界に散らばった全ての破片に君が写り込む必要がある

「まあ鏡奪知縛の説明はとりあえずここまで、問題はここからだ

「無貌木が君のここに来た理由を調べた時に分かったが、君の記憶は未だ新しく作られたまま、つまり鏡奪知縛の術は未だ君に掛かりっぱなしと言うわけだ

「人間にずっと一つの術が掛かっている、そんな状態で君の魂はギリギリのバランスで生命活動を維持していた

「例えるならば毎日寝ても起きても片手に五十キロの錘をつけているような状態だ

「そこに僅か一瞬でも、天狗攫いと言う名の新たな錘が追加されたらどうなると思う

「簡単だ、人間の魂如き、耐えられるわけがない

「現に君は耐えられず傷を負った、魂の初めに刻まれる自分の名前と言う場所にね

「君が天狗攫いのターゲットとして選ばれた理由は簡単だ、君に掛かった術を構成する妖気を求めたんだろう

「妖気に関してはまた今度話すとしよう

「まあそんな事で君は自分の名前を忘れたと言うわけだが、ここで働くには名前がないのは不便に過ぎる

「私に君のしばらくの名前を決めさせてはくれないだろうか

「大事な名前だ、直ぐに決断しろとは言わない

「私はもう眠い、一晩ゆっくり考えてくれ

「君の寝る部屋は無貌木に聞いてくれ

「じゃあ、おやすみ」


 言うと九尾苑さんは自室に帰ろうとするが、ふと思い出したように振り向く。


「忘れてた、その鏡、見るなら見ていいよ

「どれくらい記憶が戻るかはわからないけどね」


 そう言い終えると今度こそ九尾苑さんは自室へと戻っていった。

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