魔女の森編

第6話 小さき魔女

 

 それは幼い人族の少女――アテアラが山中を歩いている時の事だった。


「――ひゃあ!」


 突然の揺れだった。アテアラは思わずバランスを崩して、近くの木の幹に片手を添えて身体を支えた。

 長い地響きだった。大きい揺れではないものの、それはしばらく続いた。地震だろうか、とも思ったがどうも少女が知っている揺れ方とは少し違うように感じる。地面が揺れていると言うより、周囲全体が振動しているような、そんな風に思えた。

 振動が止んでからもしばらく、アテアラは木の幹から手を離さなかった。


「……なーんだろ?」


 最近はなにもかもがおかしいように、少女には思えた。だけれど日々の生活が変わったからか、疲れたからだろうと、アテアラは考えていた。


 山の外のことには疎い。というよりも情報が入ってこない。山を降りることが一月に一度あればいいほうで、長いと半年以上山に籠りっきりの生活である。ここは近隣の山々の中でも特に険しい山のため、人が入ってくる事も滅多にない。当然、楽に暮らせるような場所ではないが、世俗のいざこざに巻き込まれる事がないのが良い所だろう。


「どっかで噴火でもしたのかな? だったらヤバイわ」


 あるいは他国が使う新しい魔法の兵器だったり、なんてばかみたいな考えも頭に浮かんだ。

 一度山を下りて、村の人に聞いて見たほうがいいのかもしれないと、そう思いながらアテアラは再び歩き出した。背負い籠に固定された水甕を背負いなおし、けもの道を進んでいく。


 川までの道を示すように木の間を縄が結ばれていた。縄には獣除けの乾いた板が何枚も下げられている。最近の日課となった水汲みに通る、慣れ親しんだ道だ。


「あっ……あー!」


 縄の一部が千切れてしまっていた。劣化だろうか、それとも獣に切られてしまったのか。とはいえ別段珍しい事ではない。応急処置として、切れた縄を結びなおす。

「……?」


 何かが、おかしい。

 何がおかしいのかはわからない。だがとにかく変なのだ。いつもの山とは何かが違う。まるで別の山に迷いこんでしまったように感じて、身震いをした。

 

「………………すっごい、静か」


 今日の山は、あまりにも静かに過ぎた。時刻はまだ正午過ぎ。太陽は高い。しかし風はなく、森は静まり返っていた。


「っ!?」


 足元を静かに何かが通り過ぎていった。ネズミだった。それは一匹だけじゃなかった。

 今までどこに潜んでいたのかというほど、何十ものネズミやあるいはウサギ、それにキツネや山猫までもがアルテアの周囲を走り抜けていく。

 また地面が揺れた。今度は先ほどのものとまた少し違って、揺れ自体がどんどんと大きくなっていった。まるで彼女へと揺れそのものが近づいてくるように、どんどんと大きくなっていく。


 それは動物が逃げる方向と反対側からやってくる。 

 

 ――まるで、その地響きから逃げているような、そんな光景。


「――え?」


 それはアルテアにもう少しの知識やあるいは経験があれば、逃れることが出来たことだった。だが残念ながら彼女はその両方を持ち合わせておらず、そして手を引いて逃がしてくれる誰かもまたいなかった。

 近づいてくる轟音、そして地面が大きく跳ね上がった。


 ふわっと、わずかな浮遊感。


 次の瞬間、彼女は地面に飲み込まれた。蟻地獄に吸い込まれるように、地面にぽっかりと空いた穴の中へアルテアは沈んでいく。

 何が起きているのか、わからない。地面に喰われたのだと、彼女は思った。


「いたっ! ちょっ! ッ!」


 周囲から壁が迫り寄ってきて、背負っていた水甕は割れてしまった。

 腕に触れる粘液、それに酷い臭いがする。これは腹の中なのだと、アルテアは気付いた。


「っぁ! ぁぁ……」

 

 肉の壁――おそらくそれは食道なのだろう――に全身を圧迫されながら、彼女は理解した。


 巨大な地中虫ワームに喰われたのだ。それは地中に住む、巨大なミミズだ。ミミズといっても、身体は二十メートルを超える事も少なくなく、その外皮は硬く、その歯は巨大な岩盤を砕いてしまうという。普段は地中深くにいるはずだが、時折餌を食うために地上に出てくるのだ。

 知識の上でしか聞いたことのない魔獣だ。だがきっとそうだと彼女は思った。


 アテアラは地面に飲み込まれたんじゃない。地の底から飛び出してきた地中虫に喰われたのだ。不幸中の幸いだったのは、アテアラの身体が小柄だったために岩盤を削りきる歯を潜り抜けた事だろうか。歯に巻き込まれていたら、すでに彼女の命はなかっただろう。

 とはいえ、それはなんの慰みにもならない。なぜならもうすぐ死ぬからだ。

 

「ぁぁ……いっ、っ!」


 メキリ、と身体が軋む音がした。肺から空気が抜けていく。酸素が足りなくなり、目の奥がジンジンと痛んだ。絞られる雑巾のように体が締めあげられていく。粘液に触れた皮膚がひりひりと痛み、息を吸おうともがけばもがくほど、喉の奥が痛んだ。

だが、苦しみはすぐに消えていった。視界がかすみ、意識が遠のいていったからだ。


 あぁ、もうすぐ自分は死ぬのだとアテアラは理解する。悲しむ暇もありはしない。現状をただ理解し、それに流されるように徐々に意識が薄れていく。

 自分の身体が壊されて行く音を聞きながら、アルテラはすぐに気を失しなった。


 もう目覚めることはないだろうと、そう思いながら。




 ――。

 ――――。

 ――――――。

 ――――――――。




「――大丈夫か?」

「……え」

「おーい、喋れるか?」


 男性の声に起こされて、アテアラは意識を取り戻した。ぼーっとする頭が次第に覚醒し、慌ててその身を起こした。

 頭の奥がガンガンする。体も、腕も、骨まで痛い。だが、死んでいない。まだ生きている。


「おい、大丈夫か? 急に動かない方がいいぞ?」


 そこでようやくアテアラは、自分を起こした人を見た。

 白髪の若い男だった。体つきがしっかりしているため、青年なのだろうと思ったが、顔には幼さが見える。少年と言って差し支えない年齢かもしれないが、少なくとも、アテアラよりは年上だと断言できた。


「え、あ、や、どうし、て――」


 アテアラは、唖然として言葉を失った。


 彼女は彼女なりに、いろいろと考えていた。自分は地中虫にとってすごくまずくて吐き出されたのか、とか、ここは天国なのかも、とか、実はもう自分は死んでいて、これは死ぬ前に見る夢というやつなのかもしれない、なんて事も考えていた。


 でも、違った。違ったのだと、目の前の光景が教えてくれた。


 血だった。血と肉だった。彼の背後、森一面に散らばっている、血液と肉片。それはまごうことなき、地中虫だったものだ。乱雑に裁断され、乱雑に破壊された生物の残骸。地上に姿を現した肉体が肉塊と化し、地面に残った肉体の断面はビクビクと僅かに脈動していた。


「……これ、あんたが?」

「ん? あぁ、まぁな」


 軽い返事だった。何を誇るでもなく、まるで薪でも割っておきましたとでもいうような、そんな軽さだった。きっと本当に彼にとって、これは凄い事でも難しい事でもなかったのだろう。それこそ彼女が薪でも割るように、彼は地中虫を殺したのだ。


「あんた、一体……」

「俺? 俺はインシローク=フェアルイティ。よろしく。気軽にシロとでも呼んでくれ」

「……あ、うん」

 

 それがアテアラとシロの出会いだった。


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