3

「そんなことがあったのか」


 ユーリがマギルスのところから部屋に戻ってくると、エレナは先ほど庭であったことを話した。

 金髪の女性の名前はセティと言うらしく、もともとはマギルスの侍女であるそうだが、どういうわけかリザベルが頻繁に呼びつけるそうで、彼女はそのたびにつらく当たられているらしい。ちなみにこの情報は、エレナの部屋にお茶を運んでくれた城のメイドが教えてくれた。ミレットがセティの怪我を手当てしていたところを見ていたそうだ。

 ミレットによると、セティの怪我は小傷は多くできていたが、深いものはなかったらしく、エレナはほっとした。


「マギルス殿下の妻って言ったら、タルマーンの第一王女だった女性だな」

「リザベル妃ですか?」

「名前までは知らないが、確かそうだった。早くに結婚したはずで、確か十年ほど前――、マギルス王子が十七、妃が十五の時じゃないか? 親父がよく、兄貴にマギルス殿下は早くに身を固めたのにとかなんとかチクチク言っているのを聞いたことがある」


 ユーリの兄のロデニウムの第一王子はマギルスと同じ二十七歳だが、いまだに独身で、結婚したくないらしい。一度は婚約したが、婚約した女性といろいろあったらしく、婚約を解消してからは、誰とも新しく婚約を交わしていない。

 ロデニウムにはユーリを含めて王子が二人しかいなくて、つい最近までユーリは呪いで狼の姿をしていたため、国王はさぞ胃が痛いことだっただろう。ちなみにユーリの兄がこのまま結婚しなくてもユーリは国王になるつもりはさらさらないとのことで、このままではエレナとユーリの子供がユーリの兄王子の次の国王になる可能性が高いそうだ。一国の国王を育て上げる自信はないので、ぜひともユーリの兄には妻を娶ってほしいところである。


「政略結婚だったんですか?」

「いや? 恋愛結婚じゃないのか? なんでも、海で溺れて岸に打ち上げられたマギルスを発見して命を救ったのが、当時カドリア国の女子修道院に行儀作法を学びに来ていた妃だったはずで、マギルス殿下がその優しさに心打たれたとかで、結婚したと聞いているが」

「そう……、なんですか」


 リザベル妃には失礼だが、先ほど庭で見た様子では、彼女は優しい女性には見えなかった。

 エレナの心の中を呼んだのか、ユーリが薄く笑った。


「ま、人伝いに聞いた話だから真実はわからんが、惚れてしまえば盲目的になるからな。惚れた弱みと言うだろう?」


 ユーリが手を伸ばしてエレナの顎を救い上げると、かすめるようなキスをする。


「かく言う俺も、すっかり盲目的だということだ。まあ、お前の場合、見たままの性格だから盲目もなにもないかもな」


 エレナは真っ赤になってうつむくと、もじもじとドレスのスカートをいじった。

 エレナはユーリが思っているような優れた人間ではない。ずっと無能と蔑まれて生きてきたせいで、王子の妃に必要な教養も身についておらず勉強中の身だ。買いかぶりすぎである。

 エレナがもじもじしていると、エレナの隣に移動したユーリが、彼女の艶やかな銀髪を梳くように撫でる。


「気にしなくても、セティという女の怪我は大したことなかったのだろう? すぐによくなる」

「でも……」

「気持ちはわかるが、人の国の事情にあまり口を出すものじゃない。もしも俺やお前がマギルス殿下に今日のことを言ったとして、一時的にリザベル妃に注意が言ったとして、そのせいで余計にセティへの当たりが強くならないとも言えないだろう? 俺たちはいつまでもここにいるわけじゃないんだから、そうなってもかばってやることもできない」


 確かにユーリの言う通りだ。それに、メイドの皆が知っているくらいである、マギルスが知らないはずはない。彼が知っていて今の状況だと言うのなら、エレナが余計な口をはさんでも改善しないどころか悪化する可能性が高い。

 けれども、声も出さずにただひたすら耐えていたセティの姿を思い出すと、エレナはどうしようもないほどに胸が苦しくなる。

 ノーシュタルト一族の暮らす最果て、エレナもセティのように、ただただ一方的に振るわれる暴力に黙って耐えていた。悲鳴すら上げなかったセティは、まるであの時のエレナのようだ。

 エレナはやるせなくなって、ユーリの肩に頭を預ける。

 おせっかいかもしれないが、何とかしてあげたい。けれどもエレナはよそ者で、口を出す権利がない。どうすることもできない。

 エレナがしょんぼりしていると、コンコンと扉が叩かれて、セティのところに様子を見に言っていたミレットが入ってきた。


「奥様、セティ様が奥様にお礼を言いたいと」


 ミレットの後ろから、波打つ金髪の小柄な女性が入ってくる。右手には包帯が巻かれていてとても痛々しいが、顔色はよかった。

 エレナはセティの顔を見て確信した。やっぱり、レーン・ピエトル大聖堂で熱心に祈っていた女性だ。

 エレナがソファを進めると、セティは遠慮がちに腰を下ろした。

 そして、ポケットからメモのようなものを取り出して、エレナに差し出した。そこには大陸の共通文字で「手当てをしていただきありがとうございました」と書かれている。


「セティ様は声が出ないそうです」


 ミレットがそっと耳打ちした。なるほど、だからメモを差し出してきたのか。先ほど、リザベルに手を踏みつけられても黙っていたのも、声が出なかったからなのだ。悲鳴を上げたくても上げられないのだ。そんな女性に容赦なく暴力を振るうなんて、ひどすぎる。


「幸いあまり大きな怪我ではないと聞きましたけど、大丈夫ですか?」


 エレナが訊ねると、セティは笑顔でこくんと頷いた。二十代半ばほどの外見だが、微笑むとそれよりも幼く見える。可愛らしい女性だった。

 ミレットが城のメイドに紅茶を頼んで、茶菓子とともにセティの目の前におく。

 セティが嬉しそうにティーカップを取り上げて、口元に運ぼうとしたのでエレナは慌てた。


「セティさん、また熱いですよ!」


 セティは一瞬きょとんとした顔をして、それからじっとティーカップと立ち上る湯気を見、カップをソーサーの上に戻す。彼女はティースプーンで紅茶をかき混ぜながら、しきりに首を傾げた。その様子はまるで、どのくらい冷ませばいいのかわからないかのようにエレナの目には映った。


「紅茶が覚める間、こっちの焼き菓子でもどうだ?」


 ユーリがセティに茶請けの木の実がたっぷり入ったクッキーを差し出すと、セティが一つ頷いて手を伸ばす。

 エレナもクッキーを一つ口に入れて「おいしいですね」と話しかけると、セティがにこっと微笑んだ。


「セティはマギルス殿下の侍女になって長いのか?」


 ユーリが紅茶に少量の蜂蜜を落としてかき混ぜながら訊ねると、セティは左手で一、右手でゼロを作る。十年と言いたいらしい。つまり、彼が結婚した直後かそれ以前から城で務めていることになる。


「そんなに? ではずいぶん前から働きに出ていたんだな」


 セティは今度は首をひねると、左手で一、右手で五を作った。十五歳からマギルスの侍女をしているようだ。

 ユーリは紅茶がほどよく冷めたのを確認してティーカップを口に運んだ。すると、それを見たセティも同じようにティーカップを口に運ぶ。紅茶は適温に冷めているので、今度は火傷の心配はない。

 十年も務めているということは、マギルス王子はよほどいい主人なのだろうか。それとも、リザベルにつらく当たられても働かないといけない事情があるのだろうか。城の侍女の給金はいいと聞くし、お金に困っているとか。

 エレナはノーシュタルト一族の地で暮らしていた時から、お金を持ったことがない。ユーリのところに来てからも、エレナがお金を持って買い物に行くことはないし、正直、お金の価値というものについては、人よりも非常に疎い。けれども、いくら疎くともそれが生きていく上で欠かせないものであることはもちろん知っている。お金のためにセティが我慢して働いているのであれば、エレナにどうこう言う資格はないが、少し切ない。

 エレナが表情を曇らせていると、セティはエレナが何を思っているか察したらしい。

 立ち上がると、窓際のライティングデスクから羽ペンとインクを持ってきて、メモに何かを書きはじめた。


 ――マギルス様は、とっても優しいです。


 セティが書いて渡したメモには、そう書いてある。

 そうか。セティは嫌々働いているわけではないのだ。エレナはほっと胸を撫でおろして、微笑んだ


「マギルス殿下はお優しい方なんですね」


 セティがこくんと首を縦に大きく動かす。花が咲くように華やかな笑顔を浮かべるセティは無理をしているようには見えない。

 セティは紅茶を飲み干すと、礼を言うように大きく頭を下げてから立ち上がった。彼女には彼女の仕事があるから、あまり長いはできないのだろう。

 去り際、セティはポケットから何かを取り出すと、エレナの手のひらに乗せた。それは艶々ときれいに輝く、真っ白な一粒の真珠だった。


「くれるんですか?」


 エレナが驚いていると、セティがにこりと微笑む。

 エレナも笑顔でお礼を言うと、セティはばいばいと言うように手を振って部屋から出て行った。


「真珠か。これは見事だな。大粒だし色も形もいい」


 ユーリがエレナの手のひらを覗き込んで言う。エレナはお金と同じく宝石類にも疎いが、ユーリが言うのであればこれはいい品なのだろう。


「もらっちゃいました。いいんでしょうか?」

「いいんじゃないか。きっと怪我の手当ての礼のつもりだろう」

「それなら、実際に手当てをしてくれたのはミレットですが……」


 エレナがミレットを振り返ると、彼女は笑顔で首を横に振る。


「わたくしは奥様のご指示で行っただけですので、それは奥様がそのままお受け取りになるのがよろしいかと」


 エレナはもう一度、手のひらの真珠に視線を落とした。

 真っ白だがどこか温かみのある、優しい色合いの真珠は、まるでセティの笑顔のようだと思った。

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